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ゆく夏に穿つ 第二十一章 忘れ物

<第二十一章> 忘れ物

「忘れ物だ」

開口一番、若宮が木内にそう告げると隣で俯いていた少年がおもむろに顔を上げた。それを見た木内は、思わず息を飲んだ。

「きみは……」

若宮があきれた表情で木内を見やる。

「『中途半端』は、お前の嫌いな言葉じゃなかったか」
「どういう意味だ」
「そのままの意味だよ。こんな大物ほったらかしにして、何のんびり田舎暮らしエンジョイしてんだよ」

青年——裕明は、木内の顔を目にした途端に、大きな声で「パパぁ!」と呼びかけた。

「えっ」
「この通りだ」

若宮は鋭い視線を木内に投げつける。

「あの病院にいた医師はみんな匙を投げた。施設のほうも、入所延長措置を放棄したよ。この子は、お前の言うところの『本物の孤独』だ」
「パパ! ねぇパパ、ここは、どこなの?」

崩れ落ちそうになる両足をどうにか堪えて、木内は無邪気に駆け寄ってきた裕明を抱きしめた。裕明は手足をはつらつと動かして喜びを爆発させる。

「……ごめんな……」

木内がどうにかそう伝えると、裕明はありったけの力で木内の肩を抱きしめ返した。人格こそ幼児であるが、あくまで腕力は青年のそれである。

「痛い、いたたた、痛いって」
「えへへー」

木内は裕明の伸びすぎた前髪をかき上げてやると、その無垢な瞳に柔らかく言葉をかけた。

「ここは、お前の家だよ」
「わーい!」
「おかえり、秀一」

***

彼が今両目に灯している暗い燈火は、間違いなくかつての殺人鬼のそれである。彼はためらいなく美奈子の顎に手を添え、彼女に口づけを迫った。美奈子が拒絶すると、彼は短く乾いた笑い声を上げた。

「雪、本当に君はかわいいね」
「からかわないでください」
「俺が君の前で、本気以外で生きたことがあったと思う?」

七日間だけ地上に出て命を燃やすことを許された蝉たちは、もしかしたら知っているのかもしれない。一分一秒とて、命に無価値な瞬間などないということを。無知蒙昧な人間たちに、それを伝えるために、彼らはあんなにも悲壮感に溢れた声を絞り出すのかもしれない。

「やっと逢えたんだよ、俺たちは」
「何を言っているの」
「雪」

そういって再び口づけを迫る彼。再びそれを拒絶する美奈子。彼は声を低めて告げる。

「約束しただろう」
「……」
「俺たちは必ず、また逢えるって」
「知らない」
「そんなわけない」

時折、蝉たちの悲鳴が消える刹那が訪れる。まるで季節に穴を穿ったかのように。

「俺は、ずっと待っていた。わかってくれるよね」
「……私は、知らない」
「だったら、これから知ればいい」
「意味がわからない」
「それでいいのさ」

一瞬の沈黙に彼が油断するのを狙いすまし、美奈子は精一杯の力で彼を突き飛ばした。それから無我夢中で、白い部屋を飛び出した。

やはり蝉たちは何もかも知っているのか——一斉に鳴きやみ、風まで凪いだ。

美奈子の鼓動がひどく脈打つ。汗が額にじんわり浮かんで、頬を伝っていく。

私は、一体どうすればよかったの。

私は、一体どうしたかったの。

わからない。わからない、わからないということが、こんなにも、苦しいなんて。

あんな悲しい瞳で見つめられたら、なんて言葉を返したらいいかわからない。ただ、わかったことは、「彼」が「雪」という人物に逢いたがっていること。そしてそれが、大切な約束であるらしいこと。

さらにその約束が、自分が果たすべきものであるかもしれないという唐突な予感に、美奈子の心はひどく揺れていた。





第二十二章につづく


よくぞここまで辿りついてくれた。嬉しいです。