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ゆく夏に穿つ 第十四章 邪魔者

<第十四章> 邪魔者

木内の口から「情報提供」として若宮に共有されたのは、高畑美奈子の家庭環境についてであった。

彼女の父親は大手の商社に勤めるサラリーマンであったが、長引く不況ゆえリストラの対象となり、マイホームのローンを抱えながらの転職活動を余儀なくされた。そこに大学進学を控えた美奈子が反抗期に突入していたこと、妻である美奈子の母からの「早く次の勤め先を決めて」というプレッシャーなどのストレスから毎晩、浴びるように酒を摂取するようになった。

もともと体質的にアルコールに弱かったこともあり、不調は心身両面に現れはじめた。父は身だしなみに無頓着となり、スウェット姿で自宅から歩いて行けるコンビニ程度の外出しかしなくなった。コンビニで酒を買い込んでは母と衝突した。

やがて父は眼球の黄ばみと違和感、体のだるさを訴えて近所のクリニックにかかったが、そこの医師からはアルコールを控えるように言われただけで、特段の配慮は得られなかった。父の体調を不安視した母は、自宅の中にある酒類の瓶や缶を徹底して捨てた。父が母に暴力を振るったことは想像に難くない。

最初こそ耐えていた母だったが、目立つ場所には怪我を負わせない父のやり方に卑劣さと怒り、不信を相当募らせていたのだろう。何をどこまで耐えるべきかと思い悩んでいたある夜、暗がりで父が台所で冷蔵庫を開けっぱなしにし、無我夢中でみりんを舐めていた姿を見た母は、声にならない悲鳴をあげて寝室に戻り、震える手で携帯電話から119番通報をした。

「夫が、おかしくなった!」

救急隊員たちが駆けつけると、父は抵抗のために暴れに暴れた。それを「異常な興奮」と見做され、父はそのまま都心の病院に措置入院となったのである。父親が搬送、というより連行されていく一部始終を、当時すでに不眠の始まっていた美奈子は、泣くこともできずに物陰からただじっと見ていた。

その出来事から数週間後のある日、美奈子が高校から帰ってくると、スーツ姿の見知らぬ中年男性が美奈子を笑顔で迎えた。

「おかえり、美奈子ちゃん」
「……どちらさまですか」

蚊の鳴くような声の美奈子の問いに答えたのは、疲れきった顔色を上機嫌で覆った母であった。

「あなたのお父さんよ」
「え」
「はじめまして、美奈子ちゃん。紗絵子さんに似て、とてもかわいいね」

にこやかに母親を名前で呼ぶその男性に美奈子は薄気味悪さを覚え、そのまま自室へ走って逃げた。

「あぁ、嫌われちゃったかな」
「仕方ないわよ。あの子の半分には、落伍者の血が流れてるんだから」

それから新しい父――とされる――広瀬は、毎週のように高畑家に顔を出しては、その度にやれ腕時計だ、流行りのブランドバッグだのを勝手に買ってきては押しつけるように美奈子に渡した。

美奈子が頑として自室から出ようとしないと、部屋の入口に「物品」を置いて、母とともに外出することが常となった。日付が変わって二人で戻ってきてからは、のんびりとリビングでお茶を飲むなどして過ごしていた。ことの後なのだろう、母も広瀬も「穏やか」な表情を浮かべ、ときおり指と指を絡ませたりなどしていた。

許せなかった。自分など邪魔だと言われている、そんな確信があった。
――だったら、邪魔者らしく消えてやるよ。

別の夜、広瀬が来る前に美奈子は「コンビニに行く」とぶっきらぼうに母に告げ、そのまま中野駅から高尾行の中央線に乗った。行き先なんてどうでもよかった。ただ、涙があとからあとから溢れてきて、自分が情けなくて、父が心配で、母が憎くて、広瀬は怖くて、何をどこからどう考えればいいのかわからないままに、とにかく行けるところまで行こうとした。

自分が泣いたところでどこまでも他の乗客たちが無関心であることが、却ってこの時ばかりは救いだった。広瀬のようにわざとらしく干渉されるのは嫌だったので、美奈子はひたすら独りで線路の続く限り西へと向かった。

電車が途中の立川駅に到着すると、ふと美奈子は懐かしいことを思い出した。まだ幼稚園に入りたてで物心がようやくついた頃のこと。確か立川駅には大きい映画館があって、そこまで両親に連れられてポケモンの映画を観に行ったことがあった。

父の大きな右手と母の柔らかな左手は、自分だけのものだった。あの頃は、何の疑いもなく親からのぬくもりを感じていた。独りではないと信じ切っていた。

(きっとぜんぶ、私が悪い子だからなんだ。)

気がつくと、下車してホームの階段を上がっていた。激しい人の往来に身をうずめるようにして歩を進めようとした。しかし、空腹に耐えかねた彼女の足は無様にもつれ、改札階で転倒してしまった。

一瞬だけ周囲の通りすがりたちによる好奇の視線を浴びたものの、互いに無関心同士に戻るのに時間はかからない。美奈子は胸の奥から滲み溢れる悔しさを必死にかみ殺そうとした。

「大丈夫ですか?」

唐突に、家を出てはじめて、声をかけられた。美奈子がおそるおそる目を向けると、そこには父親より少し年上と思しき、くたびれた白いポロシャツを着た男性が心配そうにこちらを覗きこんでいた。木内である。

「別に、大丈夫です」

美奈子が木内の差しのべた手を無視して起き上がった時に、非常にタイミングよく彼女の腹がSOSを出した。

「おなか、空いてませんか」
「空いてません」

美奈子は恥ずかしさのあまり赤面してしまったので、さっさと彼の目の前から去ろうとした。しかし木内が進路をふさぐように立って、首をかしげて問うた。

「おなか、空いてるでしょう」
「いえ」
「よかったらどうぞ」

そう言って木内が紙袋から取り出したのは、ブルーベリーの練りこまれたスコーンだった。

「これね、パートナーが大好物で。僕が神保町に行くと必ず、帰りにこれを売ってくれる立川のカフェに寄って、ゲットしてから帰るんです。本当に美味しいから、ぜひ」
「そんな、それは悪いです」
「ちっとも悪くないです。だから、どうぞ」

確かに、彼の言う通り表面のきつね色が非常に美味しそうなスコーンである。美奈子はごくんと唾を飲み込むと、ぎこちなくそのスコーンを受け取った。甘酸っぱい香りを感じると、その場で一口かじるのを美奈子は我慢できなかった。

「おいひい……」

思わずそう漏らした美奈子に、木内は得意げに紙袋を指さした。

「でしょう。大丈夫、あと4個あるから、好きなだけどうぞ」
「いいえ、それは奥さんに持って帰ってください」

木内は「うーむ」と少しだけ思案してから、「じゃあ、よかったらウチ来ます? 僕のパートナーはね、天下一の料理上手なんです」と提案をした。

「でも」
「お急ぎですか?」
「いえ、行き先は、特に……」
「でしょうね」
「え?」
「僕ね、こう見えて医師なんです。あなたのような目をした人を、たくさん診ています。僕の家、ここからちょっと遠いんですけど、よかったら」

それに対して考えるより先に、美奈子は首を縦に振っていた。
それが、木内と美奈子の出会いであった。
ちなみに、このとき美奈子の母も広瀬も、「捜索願」を出すことはなかった。

ログハウス風のクリニックに到着すると、岸井が笑顔で出迎えた。「はじめまして」と挨拶するやいなや、岸井はそのふくよかな腕で美奈子を抱きしめた。最初こそ驚いたが、すぐに美奈子は岸井を抱きしめ返した。その腕も、肩も、胸も、すべてがあたたかかった。

木内の言う通り、岸井の料理の腕前は素晴らしいものだった。オムライスを振る舞ってくれたのだが、チキンライスとケチャップではなく、バターライスとベシャメルソースという組み合わせが新鮮だった。乾燥パセリの緑も、目に嬉しかった。美奈子の元気のある食べっぷりに、木内も岸井も一安心した。

その夜は、岸井と一緒に宿直室の簡易ベッドで眠った。いつも悩んでいる不眠症がまるで嘘のように、ぐっすりと深い睡眠をとることができた。

翌朝、クリニックを出るときには岸井と医療事務のあおいが見送ってくれた。奥多摩までは木内がバンを出してくれた。車から降りるとき、美奈子は深々と木内に頭を下げた。

「いつでもここにおいで。よかったら今度はグラタンをふるまうよ」

木内はそう笑んだ。

通勤ラッシュとは逆方向の電車に揺られて帰宅した美奈子が目にしたのは、下着だけをつけた母がリビングのソファで寝ている姿だった。

美奈子は押し黙ったまま自室に戻って、天井を見上げた。昨日の夜の光景が、まるで夢のようだった。あんな柔らかな食卓、いつぶりだろう。
美奈子が着替えようとカーディガンを脱いだ時、唐突に部屋のドアが開いた。振り返ると、母が鬼のような形相で佇んでいた。

「……なに」

美奈子が申し訳程度に問う。母はカットソーと長めのボトムスを着ており、まるで何事もなかったようないでたちをしていた。母は開口一番、「おかえり」でも「どうしたの」でもなく、こう言い捨てた。

「外泊なんて、ずいぶんと大層なご身分ね」
「……」
「私がどれだけ心配したと思っているの」

嘘をつけ。美奈子は内心舌打ちした。誰が心配なんてしているものか。美奈子は思わず口に出した。

「広瀬さんとずっと過ごせて良かったじゃない」
「どういう意味よ」

ヒステリックな感情を押し殺しもせずに母がわめく。

「そのままの意味だけど」
美奈子はつっけんどんに返した。

「よかったじゃない。お母さんも女だもんね」

母は怒りに任せてずかずかと美奈子に近づくと、彼女の顔を手加減せずに力任せに叩いた。

「養われている分際で、わかったようなこと抜かしてんじゃないわよ!」

これが本当に、母親たる人間の態度か? 美奈子は頬の痛みよりも、濃い虚しさを胸に去来させた。

「文句があるならこの家を出てって。今すぐ。今すぐよ!」

叫ぶ母を、美奈子はじっとにらんだ。そしてこう言ってのけた。

「わかった。そうする」

すると途端に、母は息を飲んだ。

「ちょっと、何よそれ。冗談よ、本気にするなんてバカみたい」
「お母さんが今、出て行けって言ったんじゃない。私はバカだしいい子だから、その通りにするだけ」
「待って。明良さんが、あんたに今度ヴィヴィアンの財布を買ってあげるって――」
「もうそういうのやめて。疲れた」
美奈子はうっすらと笑ってみせた。
「疲れたよ」
「何様なの! え? あんた何様!」

居場所がない。行き場所がない。つまりは、生き場所がない。ああなんだ、死ねってことか。じゃあいっそ、ひと思いに殺してくれよ。

無責任な、ごみの様な汚い言葉に晒され続けて、自分の下らない人生はあっさり終わるんだろうか。だとしたらそれ、とても笑えるなー。まあ、誰も笑ってはくれないんだけど。

(いつでもここにおいで。)

木内の言葉がリフレインする。美奈子は息苦しさを覚え、その場にうずうまり身動きが取れなくなってしまった。そのさまを見下げた母は、「何アピールだよ」という言葉を美奈子に刺して、部屋を去っていった。

母に無断で奥多摩よつばクリニックへの通院をはじめたことがばれた時にも、美奈子は激しく罵られた。指定医療機関以外の受診では、制度の1割負担が適用されないからだった。しかし、母の言葉などはもう、良くも悪くも彼女の心を動かすことはできなくなっていた。

***

裕明は、しばらくは眠ったままになるだろうと木内は見立てた。人格交代には猛烈な体力気力の消耗が伴う。それを連発したのだから当然といえば当然なのだ。そんなことはわかっている。しかしながら、裕明の穏やかな寝顔を見ても、岸井の心の中は穏やかではなかった。

白い部屋の白いベッドの上で、裕明は安らかな寝息を立てている。深い休息とモラトリアムが、彼には必要なのだ。今も昔も、おそらくこれからもずっと。

岸井は裕明の手に施したガーゼ布に一瞬だけ触れ、やはり白いタオルブランケットを彼に掛けなおすと「ごめんね」と呟き、白い部屋を後にした。
静かに扉の閉まる音で、おもむろに裕明のまぶたが開かれたことに、「誰も」気づいてはいなかった。

***

「戸籍上はまだ両親の離婚は成立していない。ということはあの捜索願は無効ということにならないか?」

木内がそう迫ると、若宮は頭を抱えた。

「無効どころか虚偽だろ……もういい、あの書類は見なかったことにする。当然、不受理に変更されるだろう」

若宮が吐き捨てると、木内は内心で胸を撫でおろした。

「ところで――」

若宮は木内の顔を覗き込むようにして視線を合わせてきた。

「なんだよ、気持ち悪いな。もうすぐ外来開始時間だから、これ以上は手短に頼む」
「例の彼は、元気か」
若宮のいうところの「彼」とはすなわち、裕明のことだ。
「ああ、元気だよ。なんだよ、捜査にかこつけてあの子の情報まで得ようっていうの?」
「別に。そんな野暮なことしないさ」
「ははあ、刑事さんは野暮か粋かで仕事の判断をなさるんですね。さすが元警視庁捜査一課のエリートさん」
「嫌味かよ!」
「もちろん」

若宮はにやりと笑むと「どっこらしょ」と椅子から立ち上がった。

「いきなり悪かったな。この一件は貸しだ。そのうち『りんどう』でおごらせてくれ」
「ぜひレッドアイをお願いしまーす」

若宮は木内に背を向けると、去り際に一回だけ手を振ってみせた。

クリニック玄関の扉が閉じられると、木内は長くため息をついた。外来開始時刻まであと5分弱。否が応でも日常はやってくる。それがどのような色彩をしていようが、自分たちにとっての「日常」が、めまぐるしく。

隣の部屋から「あのー」と、医療事務のあおいが遠慮がちに顔を出した。

「あおいさん、ごめんね。もうオッケーです。準備しちゃいましょう」

ところが、あおいはこんなことを言いだした。

「今日、十分押しで外来開始とか、アリですか」
「えっ。なんで?」

あおいの発言に戸惑う木内。

「外、見てください」

あおいに言われるままに窓から外を覗きこむと、そこには傍らに自転車を停め、肩で息をしている美奈子が、真剣な表情で仁王立ちしていた。





第十五章へつづく


よくぞここまで辿りついてくれた。嬉しいです。