ゆく夏に穿つ 第八章 夕立
<第八章> 夕立
先ほどまでの鋭い眼光はどこへいったのか、青年はあどけない表情で自身の両腕を無邪気に美奈子に絡ませてくる。
「ねぇ、おねえちゃんは、ぼくのおともだち?」
「え……」
「あっ!」
青年は目を輝かせて、湿り気のある風の入ってきた中庭の方を振り向いた。西陽が、突如涌いでた黒い雲に隠されてしまう。涼しい空気が美奈子の鼻腔に届いてから間を置かずして、激しい夕立が降り出した。バタバタという派手な音を立てて木製の屋根が揺れる。
「わぁー」
青年は窓辺で、嬉しそうに身を跳ねさせる。そして何のためらいもなく窓ガラスを全開にして、中庭へと飛び出してしまった。
「え、ちょっと!」
青年は――いや、「その子」は、冷たい雨粒を全身で受けながら楽しそうに何度もジャンプやスキップをする。気まぐれに泣きじゃくる天に顔を向け、両手を広げて大きな声で笑いだした。
「あー。きもちいいー!」
美奈子はおそるおそる窓から顔を突き出した。
「ちょっと、ねぇ……きみ、風邪引いちゃうよ?」
「だいじょうぶだよー、ぼくのパパはおいしゃさんだから!」
「え?」
そこへ男性の声で、「裕明!」と呼ぶ声が聞こえてきた。木内である。いつも白衣などは着ない彼だが、この日はいつも以上にラフなTシャツと綿パンといういでたちをしていた。
しかしながら、ソフトボール大会準優勝の朗らかさなどはその表情から消え去っており、彼の顔は焦燥感に満ちていた。
「裕明、裕明!」
雨に打たれながら駆け寄ってくる木内の姿を見た青年は、大きな雨粒を抱きしめながら、ぱあっと目を輝かせた。
「あ、パパ!」
美奈子は瞠目した。一体、どういうことなのだろう。
木内は走ってきた勢いそのままに、青年の体を抱きしめた。「その子」は嬉しそうに「パパ、パパ!」と木内に呼びかけている。
「君は……秀一かい」
「うん! ぼく!」
「そっか……。ただいま。遅くなってごめんね」
「おみやげは?」
「おいしいコーヒーが……いや、お前の口にはまだ早いね。ママがクッキーを焼いてくれたから、一緒に食べよう」
「わーい!」
その光景を、どのように受け止めていいのか、美奈子には皆目検討がつかなかった。ただ、目の前で自分より年上とおぼしき青年が、幼児のように木内にじゃれている。「しゅういち」と呼ばれた青年と木内は土砂降りの中、しばし「親子のように」抱きあっていた。それを美奈子は呆然と見つめることしかできないでいた。
ふと、背後に視線を感じた美奈子は振り返った。そこには、木製の小さな皿とマグカップを載せたトレイを携えた岸井が、こちらを、首をちょこっと傾げて見ていた。
「わ!」
思わず声を上げる美奈子は、右手をぶんぶんと振った。
「ご、ごめんなさい、これは、その……」
「いいの」
「えっ」
「誰も、何も、悪くない。もちろんあの子だってね」
そう言うと、岸井は白いテーブルの上にクッキーの皿を置いた。
「焼きたて。ソフトボール組より先に出したことは、ナイショね」
「え……」
「あの子はね」
岸井は先刻まで青年が使用していたロッキングチェアに腰かけた。そしてゆらゆらと身を揺らす。
「『DSM』で『解離性同一性障害』、『DSM―IV』では『DID』。『ICD—10』では『MPD』」
「はい?」
「そんなの覚えてたって、何の役にも立たない。まったく意味不明よねぇ。専門家は専門用語を使いたがるからまったく面倒。そもそも『病名』なんてただのラベルなんだから、どうだっていいの。だって、あの子はあの子だもん」
「あの……」
岸井は、窓の外で仲良くこちらに戻ってくる青年と木内を見守るような視線を送りながら、こう続けた。
「自分を傷つけてくるような場所に居続けるメリットなんて皆無でしょ。いつから、『我慢』と『忍耐』の区別がつかなくなったのかしらね、みんな」
「……」
「ここはね、サンクチュアリみたいなもの。必要とする人がいる限り、決して消えない場所。……なーんてね」
さあっと冷たい風が吹いて、黒々とした雨雲を退散させる。先ほどまでの怒声のような雨が嘘のように夕陽が顔を出し、奥多摩よつばクリニックの庭に西陽が差した。乱れ落ちた雨粒に負けずに咲き誇るガーベラの花弁に残った水滴が、その光を反射して、中庭全体が宝石箱のようにきらめきだして風ごと空気を包み込む。
「わぁ……!」
目の前に色彩豊かに広がる偽りのない圧倒的な輝きに、美奈子は感嘆の声を上げた。その宝石の間を縫うようにして、青年は笑顔で「白い部屋」に戻ってきた。
岸井の姿を確認するや否や「ママ!」と、飛びつかんばかりに岸井に覆いかぶさる。小柄な岸井は押し倒されそうになるが、そこはさすがクリニックの看護師長を務める彼女である。上手に体の重心をずらし、「その子」を全身で受け止めた。濡れた頭を撫ぜてやってから、岸井は白塗りの戸棚からバスタオルを二枚取り出し、「その子」に手渡した。
「パパとシャワーを浴びておいで。本当に風邪を引いちゃうから」
そこへ、ひと足遅れてびしょ濡れの木内が入ってきた。
「ああ、久々にがっつりと雨を浴びたよ」
「あなた。秀一をシャワーに入れてあげて」
「おー、なんだか久々だなぁ、秀一」
「わーい! はい、パパはこっちのをつかってね」
「ああ、パパはピカチュウのバスタオルなのかい?」
「ちがうよ、それはピチュー!」
「そうか、ピチューかあ。はは、秀一はさすが詳しいな」
などと会話を交わしながら、あれよあれよという間に青年と木内は、宿直室に設えてあるシャワールームのほうへと消えていった。
「さて」
岸井は二人を見送ってから、「冷めちゃったけど」と呟いてから、美奈子にコーヒーを差し出した。
「マンデリン。少し苦みが強いけれど、そのクッキーとよく合うと思うよ」
「ありがとうございます」
美奈子はためらいがちにチョコチップクッキーに手を伸ばした。一口食めば、ほどよい甘さと香ばしさが口に広がる。確かに岸井の言うとおり、苦みの強いマンデリンと相性がいい。「おいしい!」を連呼する美奈子へ、岸井は真面目な表情で問いかけた。
「それで、どうする?」
「何がですか?」
「『何が』って……。終バス、さっきの雨の前にもう、行っちゃったよ」
「ええっ!?」
「よかったら泊まってく? ご家族には私から連絡しておくよ」
「いえ」
岸井が「家族」という単語を口に出した一瞬だけ、美奈子の表情が曇るのを岸井は見逃さなかった。
「あの、お願いです。奥多摩駅まで木内先生に車を出してもらえないでしょうか」
「それは望み薄だな」
「なんでですか?」
「『あの子』とシャワーから上がった木内が直行するのが、宿直室の冷蔵庫だからよ」
「まさか……」
岸井はわざとらしく、残念そうに肩をすくめた。
「間違いなくキンキンに冷えたビールに手を出すでしょうね。お酒はさっきの打ち上げで我慢してたみたいだし」
それを聞いた美奈子は、考えるより先に早足で「白い部屋」を飛び出していた。驚いた岸井が「どこへ行くの」と尋ねるが、それは愚問というものだ。
美奈子の歩はシャワールームへ一直線。宿直室の鍵は開けっぱなしで、脱衣所代わりのカーテンで仕切られた空間には濡れそぼった衣類がそのまま落ちている。美奈子はそれらを軽々と越えて、シャワールームのドアをなんのためらいもなく開けた。
突如、こちらが無防備の極みのような状態のところへ、鬼のような形相の美奈子が現れたがゆえに、「その子」にシャンプーを施していた木内の、
「えっ、ええええっ!」
という至極当然な叫び声が聞こえたものだから、美奈子の後を追っていた岸井は、一回だけ浅くため息をついた。
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第九章に続く
よくぞここまで辿りついてくれた。嬉しいです。