ゆく夏に穿つ 第十二章 カード
<第十二章> カード
美奈子がいなくなったことに混乱した裕明が「白い部屋」を飛び出し、そのまま院内のあちこちを彷徨っていたのと時を同じくして、入院棟の夜勤を担当していた看護師たちがある異変に気づいていた。夕飯を配膳しようとしたところ、件の男性患者が行方不明になったことが判明したのだ。
裕明を探していた岸井が、中庭の隅に設置されている物置小屋の扉が、中途半端に開いているのに気づいてためらいなく足を踏み入れると、その奥で掃除道具に紛れて、竹ぼうきを抱きしめるように、ほこりまみれで入院間もないその男性患者が震えていた。
「どうしたの」
岸井は驚きこそしたが、すぐに包み込むような体温に満ちた声をかけた。その青年は鬱々とした視線を乱暴に岸井に向け、こう吐き捨てた。
「俺、嫌です。スマホもネットも使えないこんな場所」
「しばらくの辛抱だよ。そのうち、きっと慣れるわ」
「こんなド田舎に閉じ込められて、俺の一生は終わるんだ」
「そんなことない。ここは、ずっといるべき場所なんかじゃないから」
自分でそう言って、岸井は良心の呵責を覚えた。ずっといるべき場所なんかじゃない。そうだとしたら、裕明のことを——秀一のことを――自分自身にどう説明するのだろう。
男性患者はなおも苦悶の表情で、岸井を責めたてる。
「俺は、ここにすらいられないのかよ」
「えっ」
「どこにも俺の居場所なんてないんだ。俺は、どこにも、いちゃいけないんだろ」
彼はこちらをにらんでいたわけではなかった。苦しくて寂しくて虚しくて、ひたすらに泣いていたのだ。
「どうせ、俺なんて……」
岸井は、そんな彼の苦しみに少しでも寄り添おうと、こんな提案をした。
「君さ、手伝ってくれないかしら」
「え?」
「人探し。ちょっと面倒なんだけど……」
どんな人にも役割があり、果たす役目があり、その涙に意味があること。そのことを伝えたくて、岸井は青年に裕明の捜索を依頼した。
それがあのトラブルを招くなんて、この時の岸井は想像もしなかった。医療もとい治療の大前提には、相手との信頼関係があることを信じていたからだ。
そして、その信頼関係の構築を怠っておきながら、やれ身体拘束だの隔離だのを合法の名の下に濫用する、この国の無残な精神科医療の現実もさんざん目にしてきた。それゆえ、この奥多摩よつばクリニックでは決してそんなことはするまいと、設立時に木内と固く誓っていた。
そんな岸井の想いとは裏腹に、青年の落ちくぼんだ瞳は淀んだ色を垂れ流しながら彼女の後ろ姿をじっと見ていた。
結局裕明を見つけることのできなかった岸井は、普段外来の待合として使っているロビーの固定電話から、「りんどう」に電話をかけることとした。木内には美奈子を駅に送り届けたら一報を入れるよう伝えていたが、一向に彼からの連絡がなかったことから、メイの元に寄り道をしたのだろうと直感したのだ。岸井の勘はなかなかのものである。
だが、木内に連絡するその前に、協力してくれた(と岸井は思っていた)青年に気持ちばかりのお礼をしようと、待合の事務室に医療事務の女性がひそかに机にストックしている菓子類をいただことして青年に背を向けた。青年は一度だけ舌なめずりをして、ポケットから百円ショップで買ったカッターナイフをそっと取り出し、音を立てないように刃を伸ばしていた。
一方その頃、自分でもどこをどう歩いたのかがわからないほどに院内を彷徨っていた裕明は、歩き疲れて結局「白い部屋」に戻ろうと体を引きずるように歩を進めていた。
外来棟と入院棟の間にあるわずかな幅の通路。普段はカーテンで隠されているそこをくぐろうとして、ふと視界にとある絵画が入ってきた。あらゆる「赤」が塗りたくられた、美奈子が不気味ながらも惹かれたその絵は、他でもない裕明――正確には裕明の中にいる「彼」――が描いたものだった。
だから、それはあまり目立たぬようひさしに隠れるようにして飾られていたし、実際気に留める者もほとんどいなかった。かといって破棄するようなことを、木内はしていない。それは「彼」の存在もまた肯定したいという木内の願いの具象化でもあった。
その絵画の「赤」は、裕明をひどく惹きつけた。まるでその場に強烈な引力でもあるかのように彼は絵に近づいて、そっと右手の中指で触れた。すると彼の頭部に突如、いつもの鈍痛ではなく鋭い激痛が走り、雷に打たれたように彼は、一瞬にして認識のけいれんを起こし始めた。
目の前で、記憶の断片たちが赤を基調とした極彩色で踊り狂いだす。それはとてもくだらないことだったし、下手で情けないサーカス団の反乱でもあったし、どこまでも寂しい自慰行為のようでもあった。
(雨、あめ)、
(ふれ、ふれ)、
(いや、降るな)、
(ねぇ、楽しかったね)
(ありがとう、楽しかったよ)
(楽しかった)
(嬉しかった)
(幸せだった)
みんな、過去形だけどね。
「ああ……ッ! あ……?」
抵抗する術を知らないために、その場へ膝をついて崩れる裕明。彼はこれだけは確信していた。すなわち、(自分が世界から気にもされない黒点に成り下がりさえすれば、きっと、みんなが幸せになれるんだ。ねぇ、そうでしょう、そうなんでしょう。)と。
裕明の捜索をあきらめた岸井が「こんなものしかないけど」と青年に笑顔でのど飴と個包装のチョコチップクッキーを手渡す。青年が黙ったまま片手でそれを受け取ったのを確認すると、岸井は固定電話に向かった。
「まったくもう、あの人ったら……」
案の定、電話口には木内が出た。岸井はあきれるより先に焦りのほうが先行していた。もしも、裕明に何かあったら。その「もしも」をこれまで幾度乗り越えてきたかは数えきれないほどだ。しかしながら、先刻の彼の様子を見るにつけ、「ただごとではない何か」が起きようとしているのは、それこそ勘で確信していた。
「裕明と、今度またゆっくり話をしようと思うの――」
そう言い終える前に、岸井の目に、カッターナイフの刃がチラッと入り込んできた。飢えた獣のような表情で、青年がこちらを今度こそ睨んでいる。
「そんな物騒なもの、どうするの!」
岸井の叫び声は、入院棟まで届くことはなかった。青年は低く呻き声をあげて岸井ににじり寄る。その手は、かすかに震えていた。
「誰も今から起こることを否定する者はいない。俺は世界に拒絶などされていない。それを、今から、証明してやる」
「やめなさい、やめて!」
青年が粗雑な挙動で岸井が落とした固定電話の受話器を戻し、電話を切ってしまう。そしてカッターを何度も振り回しながら、岸井に迫った。
「お願いやめて。誰もそんなことを望んでないよ」
岸井の言葉にも、青年は激昂する一方である。
「誰も俺を望まない。上等だ!」
「曲解しないで!」
岸井はたまらず両目を瞑った。覚悟をするほかないと感じたのだ。こうなることを予見できずに何が「女の勘」だろう。目の前の青年一人の苦悩にも寄り添えなくて、何が「看護師」だろう。これからきっと、自分には天罰が下るのだ。そうだ、これは秀一が与えた天罰なのかもしれない。
次に岸井の聴覚が捉えたのは、何かが強く壁に打ちつけられたような物音と「うわぁぁ」という、青年の叫び声だった。おそるおそる目を開けると、気絶して床に臥した青年と、己の左手から血を垂らしながら彼を冷たく見下ろす、「彼」の姿があった。
「あ、あなたは……」
岸井が掠れた声をかけると、「彼」はこの場に不釣り合いな柔和な笑みを浮かべ、「大丈夫です」と血にまみれた腕をだらんとさせた。そして、かつての殺人鬼の瞳を一瞬だけ壁に設えられた柱時計に向け、一方通行に進み続ける秒針の音を聞きながら岸井にこういった。
「手当、お願いしますね」
彼の表情がすぐに歪みだす。岸井はかろうじて近くにあった椅子に腰をかけたが、全身からおぞましい汗が噴き出すような感覚に襲われた。彼がしばし両手で頭を押さえる仕草ののちに出現したのが、智行の人格であった。
***
スナックのカウンターに横並びになった美奈子とメイは、好きなアーティストやお気に入りの洋服のブランドの話にしばし花を咲かせていた。それからメイが鮮やかな手つきでタロットカードを混ぜ、その中から美奈子に一枚「直感で」選ぶよう促すと、美奈子は何の迷いもなく自分から一番近いカードを手に取った。選ばれた一枚を見たメイが「なるほど」と呟き、首をかしげる美奈子にこう説明をした。
「『運命の輪』の正位置だね」
「どんな意味なんですか?」
「幸運、成功、無限のひろがりを主に意味するの。あとは『運命的な出来事、運命的な結びつき、一目ぼれ』」
「一目ぼれ?」
「新しい恋のめばえ。環境の変化による問題の解決。こんなところかしらね」
美奈子はふーっと息を長く吐いた。メイはスナックのママではなく「ローズメイ」の顔で妖艶に美奈子に微笑む。
「獅子座に近しい乙女座の女性には、情熱的でやや猪突猛進なところがあるの。美奈子ちゃん、自覚はある?」
「えー……?」
「好奇心と正義感も強め。考えるより行動する派、とカードが言ってる」
「タロットカードが、しゃべるんですか?」
メイは「そうだよ」と即答した。
「カードの声を聞くの。こちらから、心を傾けるのね。すると聞こえてくるものだよ。不思議でしょう」
「へぇ……?」
「あー。やっと笑ったね美奈子ちゃん。あなた、どんだけ自分が世界一の不幸者だと思ってんのかと思っちゃったよ」
「そんなことないです!」
「で、何か思い当たるフシはあるかしら」
メイのその言葉に、美奈子は途端に顔を真っ赤にした。
「え、なに、もしかして本当に何かあんの?」
「い、いえ、いえいえいえいえいえ」
「あるんだね。わっかりやすいわー」
「ないないないないないない」
「『ない』が6回。偶数だから二重否定で強い肯定。だから『ある』認定」
「なんですかそれ!」
りんどうでの賑やかな女性陣の雰囲気の明るさは、同じ奥多摩町の中とは思えないほどだ。メイには見えていたのだろうか、美奈子の未来を明るく照らす、柔らかい光が。
・
・
・
・
・
第十三章につづく
よくぞここまで辿りついてくれた。嬉しいです。