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冬の美味い話
冬は美味いもんがいっぱいある。コンビニに入ればこれ見よがしと並べられたほかほかの肉まんや餡まん、ピザまん。家に帰れば、野菜たっぷりグツグツの鍋が用意される。二十五日の一大イベントが近づいてくるにつれ、街中に増えていくホールケーキの予約の宣伝ポスター。冬は美味い。色んなものが美味い季節だ。
例年通り、体重計の存在など初めからなかったことにして〝美味いもん〟に狂っていた私だが、今年は、冬に輝くあったかくておいしいものを新たに発見してしまった。
煙草である。
もちろん食べ物ではない。でも美味い。そして体が温まる。乾燥した寒空の下で吸う一本のなんと満ち足りること。栄養は一切摂れないどころか肺をはじめとした身体のあらゆる健康を犠牲にした上で、時間と金を浪費するために用意された大人の嗜好品。物心ついた時から今日に至るまで大人を象徴とするアイテムに魅了され続けてきたクソガキの私だが、今年の九月にそれらのアイテム全般を合法的に所持する権限を手に入れたため、創作に活かすという名目の下、きらっきらアダルティ~世界を楽しんでいた。子供っぽい動機で大人を楽しめるのもまた、大人に許された特権なのだと知った。
平日は昼食後や講義の合間に喫煙所へ行くのが日課になり、その日もピースとジッポを片手に屋外へ出た。
灰皿の前でピースを一本咥え、ジッポを点火する。つかない。もう一度。つかない。強風。顔が潰れる。火はやっぱりつかない。
まずい。オイルを切らしたようだ。いや、悪魔みたいな風のせいだ。状況を悟って辺りを見回すと、現在喫煙所には私一人。もしもの時の百円ライターは自宅の換気扇の下だし、コンビニは二百メートルぐらい離れている。歩いて行けない距離ではない。だが私はこのためだけにコンビニなんて行かない。一度咥えた煙草をボックスに戻したら敗北を認めることになってしまう。喫煙者たるもの常にフィルターを舐めて生きているのだ。あまり舐めないでほしい(ちなみに、この時点で喫煙歴わずか三か月である)。
万事休す、とうなだれた途端、喫煙所の扉が空く。黒いコートを羽織った男子学生が、強風を物ともせず、咥えた紙煙草にライターで颯爽と着火した。
救世主!
神の装束や天使の翼など、救いをもたらすものは何かしら純白のイメージがあるが、私の前に現れた救世主は例外のようだった。ヤニ色、という言葉が浮かんだが、あまりにも失礼なのでしまっておこう。
私は爆速で駆け寄り、渾身の申し訳なさそうな顔で、「火、いただいていいですか……?」とおそるおそる尋ねた。
どうそ、と気のいい笑顔で彼はライターを手渡してくれた。おまけに自身の着ていたコートを持ち上げ、風よけまで作ってくれた。神に恋したら地獄に落ちるんだっけ、などと呑気に考えながら、二人で灰皿の前に設置されてある椅子に腰かける。
「専攻は何ですか?」
救世主こと穏やかな学生の彼の一言から、他愛もない世間話が始まった。私の通う某芸術大学にはいくつかの学科があるが、彼は中でも写真を専門に勉強しており、私の一学年上だそうだ。私は文芸作品をはじめとした創作論を学ぶ学科に所属しており、サークルも無所属のため、写真を専攻している学生とはほとんど接点がない。なかなかない機会に心が躍り、ついこんな質問をした。
「どんな時に写真を撮りますか?」
直後、不適切な発言だったかもしれないと不安になった。「どんな時に小説を書きますか?」なんて聞かれたら、私は上手く答えられない。小説はどんな時でも書くものだから。
私の不安に反して彼は依然として穏やかな笑顔だったが、話し始めた瞬間、空気の流れが少し変わった。色づいた、薫った、などの方が近いかも知れない。
「山とか、そういう場所に出向いて撮るのも好きですし、ありふれたものを撮るのも好きです。例えば……」
と、彼は手前のベンチの下を指さした。棟の隙間から太陽が差し込み、地面には光の長方形が出来ていた。照らされた部分だけ、コンクリートのざらざらした部分がはっきり見えている。
「この光の形とか、作品にしたいです。カメラは光にフォーカスすると周りが暗くなるので、きっと写真に収めたら、もっとくっきり明るくなります」
思わず「へえ……」と返事とも感嘆ともつかない声が漏れる。私はぼーっと煙草を指先に挟みながら、光のたまり場を見つめた。夜にのびる自分の影を面白いと思ったことはあっても、光の形を面白いと感じたことはなかった。むしろ存在すら気にも留めたことなかった。自分の想像だにしないモチーフで作品づくりをする人がすぐそばにいて、一緒に話している状況の中にいるのは奇妙な心地がしたが、とても素敵で有難いことのような気にもさせられた。同時に、自分の創作者としての未熟さと、それに反して大人ぶって煙草をやっていることが恥ずかしくもなった。
「小説は、どんな時にネタが浮かぶんですか?」
と、白煙をふかしながら彼が言った。私は慌てて向き直り、自分のネタ収集について語る。
盗み聞きが称賛されるべき行為でないというのは承知で、私は常日頃から人の会話を聞くのが好きだった。移動中のバス内では女子高生が「ほうじ茶シスターズ」なんて興味深すぎるワードを平然と使っていたり、たまたま入った喫茶店ではカップルがクリームソーダ片手に、さくらんぼを最初に食べる派か最後にとっておく派か嬉々として語ったりしている。同じような人が、同じような会話をしている、という状況は一度として遭遇したことがない。わざわざ物語にするほどではないと思ってしまうような世間話の中にこそ、見えるのだ。ひとの瞳の中に浮かぶ色、張り切る声が織りなす香り、手ぶりや視線から垣間見える熱。そして周りを漂う光の粒のようなきらめき。そういったものから、私は小説を書いている。
自分が専攻する分野ゆえにぺらぺらと御託を並べてしまったが、彼は興味深そうに頷いたのち、やっぱりにこっと笑って「ひとの話は、楽しいですよね」と言ってくれた。
「いいお話を聞かせてもらいました。どうもありがとう」
すっかり短くなった煙草を灰皿に落とし、彼は小さく会釈をして喫煙所から立ち去った。黒いコートの周りに、細やかな光の粒子が見える気がした。
はっと我に帰れば、私の煙草もほとんど灰だった。三口ぐらいしか吸っていないのに。会話に夢中で気がつかなかったのか。全く味わう余裕もないまま短くなったそれの先端にともる火を消しながら、私は胸の中に充足感を覚えていた。
やはり冬は、美味い。煙草という背伸びが、この冬一番の美味いもんを連れてきてくれた。私は彼の一言を反芻しながら、喫煙所を後にした。
ひとの話は、楽しいですよね。
まったくだ。だって、この会話も最高の作品になったのだから。
参加させていただいた企画…https://adventar.org/calendars/10124
主催者…mee(@particle30)様