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娘 小西マリアと対馬の物語

細川ガラシャが大輪の薔薇なら、
小西マリアは高貴にも関わらず
辺境に追いやられ、そこでも美しく咲いた可憐な薔薇だったんじゃないか。。。なぁんて勝手に妄想する私です(o^^o)
下にあるのは、小西行長ファミリー の家系図。
キリシタン禁教時代100年間を4つの世代が駆け抜けて行きました。
まるで絵巻物のように紡がれている家系です。

第1世代 小西隆佐(祖父)
第2世代 小西行長(父)
第3世代 小西マリア
第4世代 小西マンショ(息子)

隆佐はザビエルを最初に案内した日本人。
そしてマンショは禁教時代最期の日本人神父です。

小西行長ファミリーの系図
宇土市公式ウェブより


小西 妙マリアは小西行長の娘。
1575年生まれ、まだ15歳だった少女は、九州北側の遥か沖合の対馬にお嫁に行った。
相手は対馬領主・宗家の宗義智(そう よしとし)だった。20代前半
政略結婚だったが、仲睦まじかったようだ。


マリアは肥後から対馬に渡り新郎の住居、金石城で暮らし始める。

まず、なぜ結婚に至ったかをみてみたい。
対馬は地理的に九州と朝鮮半島のちょうど真ん中あたりに位置する島。山が多く、豊かに作物が採れるわけではない対馬は、朝鮮との交易に頼り、経済は成り立っていた。

Wikipediaより

ところが、秀吉は九州征伐の後、かねてから言っていた明への侵攻を、本格化させようとしていた。
そしてその侵攻ルートとして、朝鮮半島を通ろうと考えていた。

1587年 九州征伐のころ、義智の養父 宗義調(そうよししげ)は、秀吉に使者を送り、朝鮮出兵はなんとか取りやめてほしいと願い出た。
ところがもっと悪い事になった。
朝鮮国王自らが日本へ渡り、上洛し(京都へきて)秀吉に挨拶にくるように、そしてその取り次ぎを宗家が、するよう要求されてしまう。

何度か戦火を交える事はあったが、対馬にとって今、朝鮮は大事な交易相手。この戦い、朝鮮出兵だけはどうしても避けたかったのだ。


この時、豊臣政権で九州の担当官だったのが小西行長だった。
行長も堺の商人出身であり、対馬の状況、義智父子の気持ちもよく理解できた。
秀吉の構想が無謀であることもわかっていた。この戦争を止める事まではできなくても、なんとか早期講和にもっていこうと考えるようになって行く。

1588年 宗義調は間もなく死去する。
義智と行長は協力し、この難役に取り組むための関係強化として、娘と義智を婚姻させることとなる。

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1590年 15歳マリアは
    宗家の宗義智に嫁ぐ。
1590年 宗家が取り次ぎ、朝鮮
から使節来日。秀吉に謁見させた。
秀吉は、これを朝鮮の秀吉への服従と受け止め、明征服の協力をするよう使節に命じた。
しかし朝鮮使節は、義智から聞いていた話しとは全く違うので、驚く。
使節は秀吉の全国統一への祝賀を送るための来日だと聞かされて、やって来たのだ。

マリアは夫義智と父行長の、この大それた画策を果たして聞かされていただろうか。
それとも知らずにすんでたのだろうか。知らされていたら、また隠されていたら。。。それはマリアにとってどちらの方が幸せだったのだろう。

1592年 マリア17歳
結婚から、わずか2年で
文禄の役が始まる。
夫も父も戦地朝鮮半島へ行く。

1593年 マリア18歳
クリスマスにセスペデス神父より
洗礼を受ける。
マリアと宗義智 二人の関係を伝える資料はないが、宗義智はマリアの影響をうけ洗礼を受けた。洗礼名をダリオといった。

1597年 マリア22歳
結婚から7年後
明朝鮮との講和交渉が決裂する
慶長の役が始まる。

1598年 秀吉の死去で
朝鮮半島との戦争は終わる。
しかし、島は交易がなくなり貧しくなった事だろう。

1600年 マリア25歳
伏見城の戦い、関ヶ原の戦いの前哨戦に夫が出陣する。

1600 年 マリア25歳  男児出産 
  小西九右衛門(小西マンショ)

1600年 関ヶ原の戦い
ただ義智は関ヶ原の戦いには
参戦しなかったようだ。
宗家の家来は参戦し西軍で戦っている。

父小西行長が西軍で戦い敗北する。
京都・六条河原で斬首となった。
しかし、義智には処罰がなかった。
それは、徳川家康が朝鮮との関係修復を望んでいたので、交渉役として
欠かせない宗義智を罪には問わず
所領を安堵した。対馬府中藩の初代藩主となった。

1601年 マリア26歳 
西軍だった行長の娘を正室にしておく事は危険であるとして、離縁される。

マリア親子は九州に追放された。
そのため、まだ1歳の九右衛門は宗義智の子と認知されず、母方の姓を名乗った。
マリアはまだこの頃交易で栄え、多くのキリシタンが暮らしていた長崎に移る。マリアはこの地で祈り深い生活をおくる。

「1599~1601年、日本諸国記」『十六・七世紀イエズス会日本報告集』
にはこのように記されているらしい。(ネット情報なので違っていたらごめんなさい🙇‍♀️)

「(宗義智は)行長の娘マリアを妻に持ったことからくる災難を大いに恐れ、彼女を救ってもらうために書状をしたため、彼女を幾人かの下女
とともに船に乗せて、長崎の司祭たちのもとへ送った。」

財も何も持たず島を出たこの母子はそれが長崎であったとしても、行く先々で憐れみや蔑み、父行長への中傷など、心ない言葉はついて回った事だろう。

長崎で数年経ったころ、修院(カーザ)に落ち着く。
長崎に逃げてきていた旧小西家の家臣一家がいた。彼らは、マリア母子の生きていた事を大変喜び、折々に助けたという。マリアは中々身元を明かさなかったそうだが、息子が言ってしまったのだそう。

1606年 31歳マリア召天
九右衛門(後の小西マンショ)が6歳であった。
九右衛門は孤児院に入ることになったが、この旧小西家家臣一家が引き取り大切に育てられた。


九右衛門は後に島原半島有馬八良尾のセミナリヨに入学している。
やがて神父を志し、日本の最期の神父となった。


1609年 義智は朝鮮との和平条約を成立させた。この功績を家康から賞され、宗氏は幕府から独立した機関で朝鮮と貿易を行なうことを許可される。

1615年 48歳義智死去


🍀Cocoのひとりごと🍀
マリアの人生を思うとき、とても悲しくなる。15歳で結婚し、結婚生活のほとんどは戦争の渦中にあった。
10年の結婚生活後、父親は逆賊扱いで斬首され、実家は離散する。
それが理由に離縁までされている。
そしてまだ1歳の子供と島を追われる。
でも神様はマリアの人生を見捨ててはいなかった。
だからまだ信仰の自由が少しはあった長崎へと行き、イエズス会に守られて生きていく。
父行長が、最期に家族に残した遺言は、きっとマリアの心にずっとあったと思う。
「今後は、あなた方はすべての熱意と心の緊張をもって神に仕えるよう心掛けて頂きたい。なぜならこの世においては、世の中のすべてのものが変わりやすく、なに一つとして永続するものはみられぬからである」

そして長崎でわずか5年という短い命を全うした。
でも、祈り深く、苦労人のマリアだからこそ、人々を慰め励ます存在となり得ただろうと思う。

だから一人息子に信仰のバトンはちゃんと渡っていった。
6歳の「九右衛門」はあの「小西マンショ」へと変貌していくのだから。



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