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孫*小西マンショの物語
月は自分だけで光れない。
太陽の光をもらって輝く。
キリシタンの人生は月のよう。
たとえ世界が暗い時も
主イエス・キリストの
光をうけて輝く。
1600年は、日本の歴史にとっても、キリシタンにとっても、また小西マンショ個人の人生にとっても特別な年だったと思う。
天下分け目の関ヶ原の戦い。
戦国時代の終焉。
祖父小西行長の死。
そして小西マンショの産まれた年。
祖父小西行長は西軍として戦い、敗北し、京都で処刑された。
マンショは、その娘小西マリアの子。
対馬で産まれた。
父は対馬藩主の宗義智だった。
マンショは洗礼名なので、幼名、和名があったはずなのにわからない。
謎に包まれた小西マンショ。
小西マンショについての資料がほとんど残っていないのだ。
今風の人物にアレンジされたフィクションなどはあるのですが。。。😞🤔😳
記録に残せないほどに、禁教の嵐が激しかったという事なのだろう。
けれども、これから研究が進み色々な事がわかってきたらいいなぁ〜と思う。
なので、これから描くことに、もし誤りが含まれていたら、どうぞお許しください🙇♀️
また、わかっている事があったら教えて頂けると感謝です😀
マンショの出生
1600年 マンショが産まれた同じ年に、祖父の小西行長は関ヶ原の戦いで西軍に参加し敗北。
京都で斬首されている。
この結果、小西一家も小西氏も散り散りになっていく。
マンショの母マリアは、夫・宗義智から離縁され、この時マンショはまだ、1歳になるかならないかだった。
父から認知されることもなく、母と子は対馬を追放された。
母マリアは、長崎に身を寄せた。
貧しさや、母親の苦労する姿を見ながら大きくなったことだろう。
やがては長崎で母と落ち着いて生活できるようになったと思うけれど。
きっと宣教師達が心にかけてくれた事だろうし、長崎には、小西家の旧家臣が宇土を追われ多く住んでいた。
家臣の中には、マンショの姿に亡き主君を重ね、暖かく見守る人もいただろう。
逆に敵視し冷たくする者もいたかもしれない。
また、もしかしたら小西家のお家復興を願う旧小西家臣たちも本当にいたのかも???しれない。
全ては想像なのだが。。。
ところがそんなマンショに悲しい事が起きた。
1606年 マンショ6歳
母マリアは天に帰っていく。
マンショは孤児となってしまう。
多感な学童期をマンショは、どこに身を寄せ生きたのだろう。
マンショはキリシタン達の好意で全寮制のセミナリヨに入学する。
セミナリヨが島原半島にあった時だ。
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赤丸🔴幼少期の長崎
青丸🔵セミナリヨ地
Google maps
1601〜12年まで、セミナリヨは島原有馬にあったので、6〜12歳までのどこかでセミナリヨに入学したと思われる。
小学校時代を、セミナリヨで訓練されながら育った。
朝4時半に起床だったり、ラテン語の勉強があったり、、、
もし低学年で入学してたとしたら大変だっただろうな💦💦💦
1612年 マンショ12歳
島原の有馬セミナリヨは、長崎のトードス・オス・サントスへ移転した。
戦国の世のセミナリヨ、そして、キリシタン迫害下のセミナリヨは、子供達の命を守ることが最優先課題だったので、事が起きる度に安全な街へ移動、避難していたのだ。
長崎はマンショにとって、母と暮らした思い出がうっすら残る街、どんな思いだったのかな。。。
ところがその2年後、晴天の霹靂はやってきた。
1614年 マンショ14歳
キリシタン追放令が江戸幕府により出された。
原マルチノ(45歳)
コンスタンチノ・ドラード(47歳)
ペトロ・カスイ岐部(27歳)
ミゲル・ミノエス(17歳)
達と共にマカオに追放される。
セミナリヨの生徒や教師の中には故郷に帰ったり、日本国内に潜伏する道を選ぶ者もいた。
また宣教師の中にも、命がけの潜伏計画を立てる者がいた。
司祭を失った日本人信徒の今後を思い、日本を去る事ができなかったのだ。
追放令の後、宣教師・信徒・学生は2つのグループに分けられる。
ポルトガル領マカオと、スペイン領マニラにいくグループだ。
髙山右近、内藤如安を中心にマニラへ送られた人々がいた。
マニラ組の船旅は、病人や死者が続出し、大波の浸水を受けるなど、1カ月以上の苦しい船旅の後に、マニラに到着した。
しかし待っていたのは大きな歓迎だった。
けれど、髙山右近63歳は、熱病のため40日後に天に帰っていった。
マニラ全市を挙げての盛大なキリスト教の葬儀が執り行われたという。
一方でマカオ組は、23人の宣教師・29人の修道士・同宿(ペトロ岐部のような)53人が、5隻の船🚢ジャンクに乗せられた。
小西マンショ14歳
100名を越える追放者と、この帆船ジャンクに乗りこんだのだ。
到着地マカオは繁栄し、中国人、ポルトガル人、東洋のあらゆる国々の貿易商業地だった。
そして日本宣教を目指す宣教師を養成する学び場「コレジオ」があり、有馬コレジオの卒業生の次なる留学の場、丘の学園があった。
聖ポーロ学院とも呼ばれ、二階建てで四方から教会を囲む形の五角形の建物だった。
1602年に建ったばかりの美しい様相が思い浮かぶ。1835年の大火事で今は前面壁のみを遺すが、現在もマカオ観光スポットである。
マンショも、司祭になり再び日本に帰国し、宣教する日を夢見ながらここで学び続けたいと願う。
特に先輩だったペトロ岐部は、日本での司祭となる道が閉ざされ続けてきたので、マカオで学べることに期待したことだろう。
日本人セミナリヨ・コレジオ卒業生達は、日本の禁教が解かれる日を待ち侘び、その日に備えてと学びが始まる。約50人の若者がそこにいたという。
そして1年の月日が流れた。
マカオの人々は日本人に対して否定的だった。
倭寇に悩む明朝廷が、マカオ在住日本人の退去を要求していた。そんな時代背景もあったのだ。
またマカオの上長(年齢的、地位的に上である人)は、旧有馬卒業生に対して否定的、閉鎖的だった。日本人は司祭にしないという方針ができ皆、失望する。
1617〜18年 マンショ17~18歳
もはやマカオに頼らず、自力でインド・ゴアのイエズス会を目指すことを決意した数人がいた。
ペトロ・カスイ岐部
ミゲル・ミノエス
そして小西マンショだった。
マカオのコレジオを脱出し、渡航した。
マンショにとって、13歳年上で情熱的で大胆なペトロ岐部。
まだ17歳だったマンショの生き方にきっと大きな影響を与えたんじゃないか。。。と勝手に思う私です🤔
マカオからマラッカ、ゴアへと船で渡る。
とはいえ旅費も無かった彼らは、旅客としてではなく、臨時雇いの船員として船に乗ったのだろう。
ゴアでの彼らを語る資料はない。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/171338312/picture_pc_36ab13f0460781781193152eb8d22a39.png?width=1200)
青丸🔵マラッカ
黄丸🟡ゴア
Google maps
インドのゴア到着。
でもゴアでも学ぶチャンスは閉ざされていた。
この間、原マルチノが彼らを助けてくれている。
ペトロ・カスイ岐部は彼らしい選択をした。
日本人が、かつて1人として成し遂げた事のない陸路で、ローマを目指し独りで出発した。
ローマで学び神父になるという希望を胸に。
その1〜2年後、マンショとミゲル・ミエノス(日本名はわからない)もローマを目指す、しかし海路で。
アフリカ喜望峰を経てポルトガルを目指した。
天正遣欧少年使節の辿った海路、この船旅は半年以上かかる。
平穏無事ならいいが、暑さ、嵐、食糧や水不足、疫病のリスクがあった。
マンショの旅がどんなだったかの記録はない。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/171342903/picture_pc_7d031f2c0740892179d3af8f3d0010a5.png?width=1200)
逆バージョンの同じルートですかね🙄
日本→マカオ→マラッカ→ゴア
→希望峰→ポルトガル
ポルトガルのコインブラ大学で学んだ。
1623年 マンショ23歳
ローマのイエズス会に入会する。
聖アンドレ修練院で学んだ。
経済的に恵まれていたらしく
入学時の所持品記録には多くの衣類の記載があったという。
履修科目は神学と人文学であった。
また、イグナチウス・ロヨラ創立のローマにあるコレジオ・ロマノで神学を勉強している。
共に日本から歩んできたミゲル・ミエノスはポルトガルのエボラ大学で学び、1626年司祭となったが
残念なことに、1628年31歳にリスボンで天に召された。
1627年 マンショ27歳
司祭となった。
1629年 恩師だった原マルチノ60歳が天に召される。
1632年 ペトロ・カスイ岐部45歳はローマで司祭となって後に、ポルトガルに赴いた。
1632年 マンショ32歳
サン・ロッケ教会の学舎で学んでいことがわかっている。
ペトロ・カスイ岐部は現地の司祭にマンショのことを頼み、それからローマへ渡る。
1632年 マンショ32歳
海路で日本に帰国する。
マカオから中国船ジャンクに乗り、5ヶ月かけて日本にたどり着く。
逮捕者が続出する過酷な時期だった。
このマンショ神父の帰国を、1番喜んだのは、恐らくペトロ岐部だったのではないか。
18年前に長崎からマカオへと追放され、その後も共に励まし合い、インドのゴアで分かれたのだ。
マンショは岐部に少し遅れて、ローマで学び、互いに誓い合った通り日本に帰ってきたのだ。
この時、マンショの髪は航海の疲労から白髪になっていた。
1644年 マンショ44歳
捕縛される。
帰国してから捕縛される日までの12年間、潜伏しながら信徒を訪ね歩き、密かに宣教したことだろう。
けれども、この時期の記録が残っていない。
高山右近の旧領・音羽で殉教したという。
殉教地は飛騨高山ともいうが、詳細は何もわかっていない。
しかしはっきりしてるのは、小西マンショ神父の殉教をさかいに、日本においては一人の司祭も居なくなった。
1891年までの約250年間、ローマとの交流を断たれることになった。
キリシタン達は、過酷な弾圧迫害の下、ほとんど姿を消した。
長崎地方に残ったわずかなキリシタン達は、一人の司教も教会もなく地下に潜伏した。
小西行長が最後に家族たちに遺した言葉を思い出す。
行長が妻と子どもたちに宛てた遺言状(1600年度カリヴァーリュ日本年報補遺『報告集』1)。
「今後は汝らはすべての熱意と心の緊張をもってデウスに仕えるよう心掛けて頂きたい。なぜならこの世においては、世の中のすべてのものが変わりやすく、なに一つとして永続するものはみられぬからである」
<🐶cocoのひとりごと🐶>
マンショは、祖父・小西行長の遺言を守って走り抜き、眠りについた。彼らは永遠の命を信じ、天国での再会を知っていた。
今は御国で、きっときっと多くの事を語り合っているんだろうな。。。🥲
そして天のお父さんから
「よくぞ走り抜いた」とお誉めの言葉をいただいていると思う。