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名のなき墓石が語る十字架*木庭編

月は自分だけで光れない。
太陽の光をもらって輝く。
キリシタンの人生は月のよう。
たとえ世界が暗い時も
主イエス・キリストの
光をうけて輝く。

あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。
    ヤコブの手紙1章17節


木庭(こば)とはどこの事?
それは熊本県菊池市の本当に小さな集落だ。

けれども、その前に菊池氏について書いてみたいと思う。


緑丸🟢木庭キリシタン
赤丸🔴山鹿キリシタン
黄丸🟡菊池キリシタン



菊池氏の歴史

キリシタンが日本に誕生する
まだ、ずっと前のこと。。。
熊本市の北、現在の菊池市を中心に、平安時代後期から室町時代にかけての約450年間、活躍した武士の一大豪族がいた。
それが菊池一族

1070年の初代菊池則隆(のりたか)から治世が始まる。

1070年初代菊池則隆から〜
菊池神社歴史館


1532年の第24代菊池武包(たけかね)の時、大友氏と阿蘇氏の連合軍に破れ治世を閉じた。

1532年24代菊池武包まで

その間462年間、肥後守を務めた。
源氏物語や太平記などにも登場し、中央にまでその名を轟かせた。
南北朝時代の動乱期、皆が生き残りをかけ強い方になびく、それが普通の時代だった。
そんななかで菊池氏は、全国的に北朝優勢な状況下でも、ひたすら南朝につき愚直に信念をつらぬく。

その強さの理由はいくつかあった。
大陸との貿易で、経済的基盤を確立したこと。
元寇の襲来の際には、蒙古軍を退け活躍した。
南北朝動乱期に、九州征西府をうちたて、懐良親王(かねながしんのう)を招き入れる。

第15代 菊池武光は、庶子に過ぎなかったが、その実力により日本三大合戦に数えられた「筑後川の戦い」で勝利し九州大宰府を制圧する。
南朝方としての九州制覇を成し遂げた。
征西府は菊池から大宰府に移され、政(まつりごと)が行われた。
九州の覇者となったのだ。

その実力をもって、自分たちが正しいと信じた道を進み続ける誇り高い一族だったという。

説明板より
菊池武光は菊池氏の15代目で、12代目 菊池武時の第9子(あるいは第10子)だった。はじめ益城に住む庶子で、周囲からも、さほど期待をされない身だった。

1343年頃から肥後領内で頭角を表した。
1348年には,征西将軍懐良親王を迎え入れ筑後に進出した。足利氏小弐氏ら武家方の内紛に乗じ,九州全土に威勢を振う。
1359年に筑後川の合戦に夜襲をかけ、、
武家方を破り太宰府を占領した。
1365年に征西府を置き,東上を目指すが1367年瀬戸内海海戦に敗れた。。。。。


菊池十八外城

18の外城の1つ(🟡が木庭城)
菊池郡全体をひとつの城と考え小規模な城塞を密集して四方の要地に築城して守備を固めたもの。
「攻めの千本槍、守りの十八外城」
南北朝時代の菊池氏の活躍を表す
キャッチフレーズだった。


菊池氏と城氏の関係


菊池市の木庭地区(こばちく)については冒頭に少し触れた。
菊池城の東側にある高台の地域。
ここには城氏(じょうし)が構える木庭城(こばじょう)があった。

第8代菊池能隆の庶子から
城氏が生まれる

上の写真の第8代菊池能隆(よしたか)の四男に、菊池隆経(たかつね)がいた。
隆経は、城氏(じょうし)を名のり「初代の城氏」となった。
その城氏の直系子孫・城武顕(じょうたけあき)が軍功をあげ、菊池氏15代武光(たけみつ)からの許可のもと、木庭城を築城する。
木庭城はその後代々、城氏の居城となる。

こうして城氏は菊池本城守護のために、本城のすぐ東、木庭(こば)に暮らした。

木庭城(こばじょう)は、他にも
止林城(とばやしじょう)
城林城(じょうばやしじょう)
山古城(やまこじょう)
などの呼び名があるそうだ。

城跡の上面は平坦な小山になっていて、
標高140m。晴れた日には金峰山の向こうに島原半島の雲仙岳を眺めることができる。下の木庭集落は標高約70m。落差70mの斜面は急で、集落から見上げるとかなり高く感じられる。城跡にあたる小山状の末端部は、上面が平坦で「城床(しろとこ)」と呼ばれ、一部は公園化されている。この城床の中央部には「塚」と呼ばれる直径5メートルほどのマウンドがあり、中世の墳墓ではないかと考えられている。

現在でも下木庭には「城さん」「林さん」の姓の人々が多く残っている。

城氏のキリシタン

この城氏のなかに脈々と続くキリシタン達がいた。
けれどもこの地域も日本の抗いえない時代の荒波の中にあった。
菊池氏の支配から大友氏の支配へと変遷していく。

菊池氏の時代
城氏の9代目城主までは、木庭城主として菊池本城守護に勤めていた。

大友宗麟の時代
菊池氏が豊後大友氏に滅ぼされる。
1492~1501年 鹿子木氏が熊本城の前進、古城隈本城を茶臼山に築城。
しかし鹿子木氏が大友宗麟の堪気に触れ、隈本城を退去させられる。

1550年 鹿子木氏に代わって、木庭の城氏が隈本城に入城する。
第   9代城主 城親冬 (ちかふゆ)
第10代城主  城親賢(ちかまさ)
第11代城主   城九基

この3人はキリシタンだった。
大友宗麟時代の隈本城城主として、特に社会福祉に寄与したという。

豊臣秀吉の時代
1587年 バテレン追放令
1596年 豊臣秀吉の禁教令
1600年 関ヶ原の戦い
徳川家康の治世
1612年 徳川家康の禁教令
1619年 徳川秀忠の禁教令

このように時代が動いていく中で、城氏のキリシタン達も潜伏時代に入る。
下の12~14代城主たちは秀吉、家康禁教令時代、江戸中期よりの隠れキリシタンだった。

第12代城主 城基昌
第13代城主 城親照
第14代城主 城親浄


上木庭キリシタン墓地

「菊池市指定文化財」

以下は「菊池市の文化財」P83の写しなのだそう。



キリシタン墓地(碑)市指定文化財く史跡>
指定日 昭和49年6月28日
所在地 菊地市木庭 上木庭

上木庭の棚田が広がる丘陵上の狭い農道を50m程進み、左折して急な坂道を少し登ると墓地が見えてくる。この墓地には、宝永5(1708)とか、享保10年(1725)の古い墓が存在する。
この墓地の南側に竹林で東の一角の杉林の中に、十字を刻んだ墓が確認され、「県文化財調査報告」には、木庭の「十字」を刻した墓碑4基があるとされる。また、「熊本県史蹟名勝天然記念物概要」には、「菊池川に臨める墓地に接して五、六基の切支丹墓碑あり、扁平なる石の片面に、又は両面にただ十字を彫りたるのみにて銘文なし」と記されている。墓碑は凝灰石の自然石をそのまま使用し、正南だけ平らにしてある。墓碑の十字のいくつかには、朱を塗った痕が見受けられる。この近くが豊後と高瀬を結ぶ切支丹ルートにあたることから注目されている。
現在、十字架が刻まれている墓碑は7基であるが更に調査するなら数が増えるのではないかと思われる。
これらは、城氏の墓所であり、菊池歴史研究会提供の資料によると城氏について下記の報告もある。

十二代・城基昌、十三代・城親照、十四代・城親浄の墓であろうか。
この三代は隠れキリシタンであった。
(江戸中期よりの城氏一族の
霊地の奥に)

菊池能隆の四男・菊池隆経が城氏初代〜城氏9代の城親冬まで木庭城主として菊池本城守護をつとめた

隈本城主時代、キリシタンで社会福祉に寄与した9代城親冬、10代城親賢、11代城親政

木庭隠遁時代、隠れキリシタン生活・加藤清正が支配していた時代
12代城基昌、13代城親照、14代城親浄

<補足>
菊池氏の老臣であり、後隈本城主となった城氏はについては、「菊池市史」上巻 p967の城氏系図によれば城親冬は13代、14代に親賢、15代は久基となっている。
さらに、「秀吉の九州征伐」の時、秀吉は城久基が守る本城に二日間滞在しており、この後、城久基は城を明け渡している。との記載がある。

1番右と1番左の墓石に十字がみえる


上木庭散策アルバム

木庭橋を渡り上木庭へいってみた
ショート動画です↓↓↓
菊池女子高校前の交差点
左折で菊池市ふるさと創生市民広場へ
菊池本城跡も左折です

今回は直進で木庭地区へいきます
木庭橋で菊池川を渡るともう木庭地区
橋を渡ると左手すぐにみえる
蔵の美しいこと☺️
東山公園方面に左折します
ちょっと寄り道した棚田
時間を選べばこんなに美しい夕焼けが。
「キリシタン墓地」看板が右側にあります
この小道をのぼります
二つ目の看板が見えたら
左の坂をのぼり。。。
竹林へと入ります
この奥に十字架のキリシタン墓石が
あります


でも今回はここまででした。
マダニがくっつくと聞いて😱
次回長靴を履いて挑戦します。



川本氏の参考文献について
<参考文献>
「菊池市史」「山鹿市史」「鹿本町史」「旭志村史」「菊地市の文化財」
「山鹿市の指定文化財」
菊池歴史研究会提供の資料
「日本史要覧」
日本史広辞典編集委員会編
「恵みの風に帆をはって」
「まるちれす」編纂委員会編
「キリシタン地図を歩く殉教者の横顔」
日本188殉教者列福調査歴史委員会
イエズス会日本管区
[イエズス会の歴史]
「アジア・キリスト教の歴史」
日本基督教団出版局編

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