0425 絵を買ったよ

 わたしの住んでいるまちには、しんらいできる本屋がある。大型書店ではなくて、いわゆる街の小さな本屋でも、古本屋でもなくて、もっときゅっと心を生かすのに必要なものが凝縮された本屋。

 この前の休日、そこに絵本の原画展を見に出かけた。数年前にも同じ作家さんの原画展をしていて、そのときもなんとしなやかに強い絵だろうって思っていたけど、今回展示室に一歩足を踏み入れたとき、音もひかりも匂いも、全身に浴びるような気持ちがした。油画の原画は、すでに見ていた本の形になったそれの比ではなく、光だった。壁にかけられた平面の四角が、ひとつひとつ窓のよう。すぐそこに風が吹いていて、土の匂いがして、焚き火の温度がある。獣の匂いと毛皮のしなやかさ、硬さ、砂の埃っぽさまで肌に伝わっていた。

 つかれきり、しょぼくれた心がそれらで満ちていくのは心地よく、そしてまだ蘇生する余地があったことにほっとした。受取れる最大量満たされるまで、本を見て展示室にもどって、を繰り返していたその最中、一枚の絵が目に止まった。そこに描かれていたはだかんぼうは、そんなふうに在りたいって思うあり方でそこにいて、この絵が部屋に、目の前にあったら、迷子になりそうなとき、息ができなくなりそうなとき、きっと道標になってくれるのに、と思った。のに、だったのは、ぎりぎり買えなくはない値段のその絵は六畳一間のわたしの部屋にはちょっと大きすぎる気がしたからだった。もっと、ぴったりな状況で愛でてくれる人がきっといる。それにわたしもぴったりな絵といつか巡り会える。そう思ってその日は帰った。あと1週間の会期のうちにもう一度その絵に会いに来ることを決めて。

 今日はその会期最終日だった。あの絵はどうなっただろうか。きっと行った時には売約済みの赤いシールが貼ってあるのだろう。わたしはそのことを残念に思って、そしてちょっとホッとするのだ。いいところが見つかったのね、って。でももう一度見てしまって、うまく諦められるかしら…と朝から埒のあかない脳内問答を繰り返して、お昼過ぎにお店の扉を開けた。

 作家さんも在廊していてみんなが談笑している。わたしは絵を見たり、音楽をきいたりするのは好きなのだけど、その感想を伝えると言うことがどうにも苦手で、隠れるように展示室に向かった。深呼吸して、一枚一枚を見つめて、またなみなみと心が満たされるころ、人が減った店内にもどってこの前の絵を見上げる。やっぱりいつも見られるところにこれがあるのは素敵だと思った。そして、そこに赤いシールはなかった。全く想定していなかったわけではなかった。もしもまだ誰かが選んでいなかったら、もう一度見てもやっぱり手元におきたい!って思ったら、そのときは買ってもいいよって朝にわたしの中のわたしが言っていた。

 そうしている間にもいろんな人がいれかわりたちかわり、絵を見たり、絵本を買ったり、そして感想をつたえたりしていく。人見知りを発揮しまくってもだもだしていたら店主のみさとさんが「こころちゃんはいいたいことがあるね。けど、いえないんだよねぇ」って笑った。そう、作家さんに伝えたいことはある。この前来た時、どんなに助けられたか、そして彼の絵に泣きたい夜に布団に入って電気を消したときの暗闇みたいなやさしさを感じていること。でもそれはうまく口からは出てこなくて、出てきたのはあの絵…やっぱり好きですと言う、なんとも陳腐な一言だけ。でもうん、いいよねぇってみさとさんはお店の中で六畳をシミュレーションしてくれて、作家さんはおろしてみようか?と高いところにかかっていたその絵を下ろしてくれた。

 さっきまで上にいたはだかんぼうが目の前にいる。大きすぎると思っていたサイズも、手元に来ればなんとかなりそうだった。はだかんぼうは枠の中で蝶々を見つめている。大きな木に溶け込むように身体を預けてそこにいる。かいます、と気づいた時には言っていて、「この前から、じーっとこれ見てたもんね〜」ってみさとさんがまた笑った。

 「小さくはない買い物でしょう、感謝します。ありがとう」と作家さんがいった。たしかにちいさくはない。だけど、それはわたしのお給料と比べればの話で、この絵の対価としては決して大きくはない。むしろ、もう少ししてもいいくらい。この値段が絵を買うということをもっと身近に、と願ってつけられた数字だということは知っていた。こちらこそ、ありがとうだった。それから「初めて絵を買ったなら、それはじゅうぶん記念日になりますよ」とも。正確にはドローイングを買ったことはあるのだけど、たしかに油画を買うというのは初めてだった。そんなわけで本日4/25はわたしの絵画記念日となったのでした。

 はだかんぼうを迎えに行くのは、一年で1番忙しい母の日が終わったらにしようと思っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?