消えたさと生きていく
これを書くのは勇気がいる、いるけどこの先に進みたいから書いてみる。驚く人も納得する人もいるかもしれない。けどわたしは、基本的に消えたい。でもわたしのこれは死にたいではないのでまじで安心して欲しい。この願望がいつからいたのか、なんでいるのか、自分でもわからない。小学校6年生の時にはもう隣にあった気がするけど、少なくとも意識の上では何か決定的な出来事があったとかではない。でもこんな歳にもなって消滅より強い願いはいまだ見つかっていない。
消えたい、存在そのものごと無かったことになりたい。
もちろんそんなのはどんなに願ってみたところでもうわたしが存在してしまっている以上100%叶わない。繰り返しになるけど死にたいではない。我ながらアンバランスだとも思うけど、ウジウジしてる間に少なくない人たちに愛されてしまっている自覚はあって、彼らを愛おしくありがたく思う気持ちは本当だし、病気だとか加齢だとかそういった自然な形ですら人が1人死ぬということがいかに大きいかということはこの24年でわかってる。わたしを面白がってくれる、気にかけてくれる人々の人生に闇を落とすのは嫌。だからわたしは自死をえらぶことはできないし、しない。この先も絶対。でももし存在そのものごとなかったことにできるカードがあるのであれば今も迷いなくそれを選ぶ。書いてるとものすごい病んでるな笑
息をするのと同じようにある消えたさの根底には「存在自体が罪」みたいな感覚があるような気がする。消えたさを常に抱えているのが通常営業だってことがどうやら普通ではないと気がついたのはここ一年くらいのことで、ある占いの番組内でわたしの心中とかなり近い感情を訴えていた芸能人を、隣でみていた母が気持ち悪いと言ったからだった。わたしも気持ち悪いと思った。彼女が、ではない。わたしにもあるその感情が、変なモノだと知ってしまった、いや知ってはいたけどやっぱりそうなのか…というか、そういう直視したくない気持ち悪さ。なのにもはや、どのようにしてそいつと決別したらいいのかわからなかった。
多少はどうにかならないか悩んでみたけど、今もやっぱりそいつはいるし、多分この先も出てってはくれないと思う。これって不幸だとかそういうことじゃなくて、単純にわたしはそういうタイプの人間なんだというだけの話だし、どんなに悩んだところでやっぱり綺麗さっぱり消えることもできないし死ぬこともしないなら、つまりは生きるしかない。どうせ生きるしかないならつらがって生きるより楽しく生きた方がいい。というのはもう数えきれない回数考えている。
そんなわけでわたしもわたしなりに楽しく生きられる方法を模索しているところなんだけど、さらにはそういうとても後ろ向きな理由でしあわせになろうとしていることが、ついこの前まで罪な気がしていた。曲がりなりにも転職活動のために就職の本とか開く。そんでつまずく。なんで全部前向きなの?よりよく生きたいというのはもはや疑いもなく前提であるように語られる。大学生の時はまともにやらなかったキャリア云々を考えるのも辛い。こちとら成し遂げたいこととかないし、消えたさをごまかすので精一杯よ…。でも最近読んだ本の中に「大きな手」という考え方が出てきて、やっとその罪の意識が若干薄まった。前向きに生存し繁栄を求める人間はもちろん狂人も自殺者も全部世界にとっては織り込み済み、それは楽になる考え方だった。わたしが1人どのように生きて死んだところで一つの揺らぎさえなく全て織り込み済み。あるようにあればいいしそれで正解なのだから、良く生きねばならないなんて思わなくていい。ただ思うがままにあればいい。手の届く範囲の人を悲しませたくないなら生きてればいいし、消極的な理由でしあわせになろうとすることそれ自体罪ではない、それでいいんだ~というか。
最近ずっとこの気持ちについて考えていたから、この前久しぶりにあった友人に初めてこの気持ちについて話してみたけど「悩んでも仕方ないと知った上でひとまず目の前の選択をメンタル病む前にしていける人はエグいこと考えてたとしても前に進める人です。一周まわって、君はポジティブだと思う」と言われて、まぁ、進めてればいいのかぁと思った。
もう消えたさを持っていることや後ろ向きな理由で幸せになろうとすることを悪だと責めること、そこから離れなきゃと思うのをやめる。あきらめて、開き直って、消えたさと一緒にいきてゆくはらをきめるのだ。わたしよ。