プロフィール by: プロレス“ザ・モンスター”ハラダ
死にたいと思っていた私がプロレスに救われた私の実話
いじめられっ子だった私が抱えていた死にたい感覚
私、こう見えて七歳くらいからずっと死にたいと思ってきました。二歳くらいの時から「長男だから」「お兄ちゃんなんだから」と、しっかりすることばかりを求められ、自分のしたいことは制限され、新しく上がった小学校にはなじめず、ずっと図書館にこもっては即身仏になる本ばかり読んでいました。どうせ自分はいらない人間なんだ、という感覚はすでにこのころから生まれていました。
そののち、小学4年生くらいからいじめにあうようになってくると毎日が憂鬱でした。もしあなたがいじめられたとしたら、どうするでしょうか?先生に訴えるでしょうか?それとも親に訴えていくでしょうか?あるいはいじめっ子に直接向かっていくことでしょうか?
私はこのどれでもないひとつの決断をしました。それは「生きていじめていたやつらを見返してやる」というものでした。これだけですと結構前向きな動機のような感じがしますが、事実はそうではありません。私という存在が疎ましいなら、私が生きていること自体が彼らにとってのいやがらせになる・・・と当時は本気でそう思っていました。
これがストレートに生きる動機になったのなら、まだよかったのですが、この時点では、七歳のころから持ち続けていた死にたい感覚を解決したわけでもありません。まわりに信頼できる人間は誰もいませんでしたから、死にたい感覚も生きようとする動機もひたすら自分の中で念じていたにすぎません。
プロレスとの出会いで目覚めた怒り
それでも生き続けてしまった私の中では、死にたいという感覚と、生きて見返してやる(生きたいではない)という感覚というまったく相反する、矛盾したものを抱えたまま成長していくことになってしまいました。しかも、それが私にとっては「当たり前」の感覚になっていました。
自分と向き合おうとしなかったばかりに、その矛盾にすら気づかず、息苦しさばかりを抱え込んでいくばかりでした。そして、その原因が何なのかさえ自分自身わからずにいたのです。
この死にたい時代に偶然にも私はプロレスを見始めます。と言ってもそれは能動的な動機ではなく、祖母が好んで見ていたせいもあります。当時はプロレスだけでなく、ボクシング、キックボクシングなどが毎週ゴールデンタイムで放送されていた時代でした。
私は一人のレスラーにくぎ付けになります。それがインドの狂虎・タイガー・ジェット・シンでした。当時の私にとって手段を選ばず猪木さんを襲い続けるシンはヒーローでした。忘れもしない「新宿伊勢丹事件」は、いじめられっ子だった私にとっては「福音」ですらありました。そこから私はところかまわずいじめっ子を急襲していきました。もちろん噛みつき・目つぶし、なんでもありです。当然逆襲にもあるのですが、自分の中に眠っていた何かが目覚めた瞬間でした。
しかし子どもの気持ちは移り気なもので、当初夢中になってみていたものの、いつしかプロレスから離れていきます。
アニメ感想文で炎上した私の苦悩
さて、19歳の時には自分でも忘れられない出来事がありました。とあるアニメ月刊誌に私が書いたアニメの感想が載りました。それ自体はとてもいいことだと思われるかもしれません。しかし、その内容は人間否定ととられかねない内容でした。私の文章に対しては、編集部、読者、コーナー担当者も総出で「思い上がりだ」と一斉に非難を浴びせてきました。
もちろん私に今でいうところの「炎上」させる意図はなく、単に感想を述べたにすぎません。ですから、この思いもよらぬ反応に私はすっかりビビりあがり、慌てて謝罪文を書いて投稿しました。
ただ、30数年前はまだネットもなく、月刊誌なので、私の謝罪文が載るまでは数か月を要し、その間ずっと私は「人間否定論者」として活字に責め続けられたのです。この間、駅のホームに立つと本当に線路に吸い込まれそうな感覚になったことをよく思い出します。この出来事がきっかけになって20代になっても人間恐怖症で苦しめられました。
こんな時分にプロレスと再び再会します。きっかけをくれたのはまたしても祖母でした。ここから現在まで私はプロレスファンのままでいるのですから、今振り返るに節目節目で祖母がかかわってくれたことが、私の人生を大きく左右していたのです。これには感謝しかないですね。
営業職を選んだが失敗した私の挫折
「このままではいけない」と自分に負荷をかけて、あえて恐怖症克服のために、営業職を選んで就職しました。しかし人間恐怖を抱えたまま勤まるほど営業というのは甘くありません。実際入社して同期が次々成果を出していく中で私だけが成績をあげることができずに苦悩していました。
ようやく入社から半年近くたってやっと成果を出せましたが、そこから八年半続けられたのは、我ながらよくやったよなとしか思えません。
しかし、成績の上がらない私は、会社から追い立てられるように退職を余儀なくされました。この時、自分には「続ける」才能があると思い知りました。もしかすると、あなたにも、好きなことなら時間を忘れて没頭された体験がおありになるかもしれません。
好きなことなら、まだわかるでしょうけど、私の場合、自分が望まないこと、自分がイヤなことでも続けられたのです。それが自分にとって「仕事」だったわけですね。この傾向は転職してからむしろ強化されてしまいました。
営業職を辞めた当時はまだバブルの残り香が漂う時代でもありました。今でなら「リーマンショック」や「就職氷河期」という理由があって、無職になることはそれほど珍しくありません。しかし20数年前は自己都合で退職する人間など社会不適合者であるという認識が、ハローワーク側にすらあった時代です。ましてや自己肯定感が低くなっている私は、自分を更に激しく責めていました。
【衝撃】寝たきりから心理カウンセラーになった男の物語
私は30歳で職を失い、コンビニのバイトから再スタートしました。
この時代、転職にも年齢制限があって、30歳を超えた人間を募集している求人はほとんどありませんでした。何とか面接にこぎつけた仕事も、結局採用されることはありませんでした。
そこで私はコンビニのバイトを始めました。一から自分を鍛え直すつもりでしたが、思わぬトラブルに見舞われました。私を雇った店長がすぐに退職し、ベテランのバイトも次々と辞めていきました。残ったのは私一人でした。新しく来た店長は仕事の経験もなく、結局社会人経験が長い私が入店半年で実質新人の教育係として店のすべてをサポートすることになりました。
40歳で寝たきりになり、新薬で一時的に回復
しかし、この実質副店長状態になってもシフトが増えるばかりで給与は上がらず、生活はどんどん苦しくなる一方でした。やっと正社員になったと思ったら、給与は固定給となり手取りは減ってしまいました。その上、人件費削減でバイトのシフトを大幅に減らされたため、朝夜問わず店に出ずっぱりになってしまいました。
結局、11年半いたこの職場も不条理な形で解雇され、私は再度無職になりました。
10年歳を重ねた分、再就職活動はさらに難しくなっていました。面接には落ち続け私はすっかり自信を失っていました。
このような状況でもはや何のために生きているのかわからない状態のときに、突然猛烈な吐き気が私を襲いました。ほどなく寝たきりの状態になりました。40歳を迎えたばかりのころのことです。
そこから2年間天井だけを見つめ、栄養は点滴だけという生活が続きました。原因を周りのせいにばかりして過ごしていました。自分を首にした会社が悪い、自分をこんな目に合わせた人間が憎いと思っていました。頼みの綱の医師にすら不信感と疑念を抱いていました。
転機はそんな中で訪れました。いろいろ試されていた新薬の中で一種類劇的に効果が出たものに出会えたのです。これによって私は寝たきり生活から一時的に解放されたわけです。しかし解放されただけで、矛盾した感覚の問題はそのまま放置していたのです。ご飯は相変わらずのどを通りませんでしたし、数時間は外に出ても平気でしたが、長時間の活動、ましてや勤務などというのも夢のまた夢でした。こういう状況で働き口を探せと言われても正直困り果てるしかありません。
心理カウンセラーの養成学校に通って自分と向き合う
このように長い間寝込んでいる間、一向に成果を出せない私を両親が厳しく叱責してきました。寝てる暇があるなら何か資格を取れというわけです。最初は「ボイラー技士」の免許をとらされそうになったのですが、それには激しく抵抗しました。
結局パソコンの基金訓練に通うことになりました。しかし、そこでも他の受講生との軋轢に悩まされました。ここでも味方は誰もいませんでした。卒業すれば少ないパイを奪い合う敵同士です。仲良くできるはずもありませんでした。
失意の中、次の展開を考えねばならず途方に暮れていた時に一枚のチラシと出会います。それが心理カウンセラーの養成を行うという、後に私が通う学校のものでした。ここでやっと自分と本気で向き合う必要性を痛感したわけです。もっとも最初の動機は「このまま薬を飲んでいてもいいことないから、自分の心の仕組みを知って再発も防いでいけたらいいな」というものでした。
今もなお現在進行形で続けています。
私はもともと「続けられる」ことが得意でした。好きなことなら寸暇を惜しんで続けられますし、嫌いなことでも続けられます。しかし、それは必ずしも良いことではありませんでした。自分の気持ちに無頓着で、周囲に流されて生きていました。
学院ではカウンセリングのやり方を主に学んでいました。そこでは個人カウンセリングを受け付けていました。授業は月2回3時間の二コマずつでした。それほど負担にならないと思っていましたが、現実は結構厳しいものでした。
カウンセリングで衝撃的だった体験
私は学院でカウンセリングも受けていました。
カウンセリングルームでは、学院の先生が個別に対応してくれます。私は最初から特定の先生を指名していました。その先生はハグを使うセラピーを用いていました。これは、文字通り先生とハグすることで心理的な安心感や愛着感を得ることを目的としたセラピーです。
私はそれまでスキンシップというものがすごく苦手で握手するのも嫌悪感をもっていました。しかし自分と向き合ってこなかった私は、自分にそういう苦手意識があることすらわかっていませんでした。もちろんハグに関しては私も了承したうえで行ったのですが、いざやってみたら何とも言えない気持ち悪さでいっぱいになったのです。実はのちにハグというのは、愛着形成に欠損のある私のようなタイプには効果的であると同時に結構「劇薬」であることも知りました。
私の場合、ハグは劇薬だったわけです(余談ですが、現在のカウンセリングではハグをしないことが一般的になっています)が、これによって薄皮をはがすかのように、ていねいに自分の問題と向き合って解決していく、とても辛抱のいる時間のかかる作業になることを、私は覚悟したのです。ハグの体験に関してはそれ以降ほぼなかったのですが、薄皮をはがすたびにいろんな問題が浮上してきては、その都度大変な目にあっていきました。
カウンセリング体験の中でもう一つ忘れられない出来事があります。
ある日カウンセリングを終えて、事務局の方と先生に礼を言って、私は学院の外にでました。
当時学院は古いビルの最上階にあり、夜になると階下のテナントは営業を終了しており、階段は真っ暗でした。
もちろんエレベーターなんかありません。普通なら学院に戻ってあかりをつけてもらうように頼むところですが、その時の私はなぜかそのまま階下に降りていきました。
階段はかなりの急傾斜で一歩踏み外せば大けがにつながっていたでしょう。
しかし、幸いなことに私は壁を伝ってどうにか一階まで降りきりました。
ところが一階入り口にはシャッターが降りていて、自分では開けられません。ここではじめて私は学院に電話して「SOS」を発信しました。
本来なら階段が真っ暗な時点で引き返せば大事に至らなかったはずなのに、この時の私は「自分でなんとかしなければ」と思い込んでいたのです。
この感覚は、自分自身と向かい合う闘いの中で今もなお現在進行形で立ち向かっています。
しかし、その闘いを通じて私は自分の人生を切り開きはじめたような気がしています。
カウンセリングで変わりはじめた私の人生
カウンセリングで出来ることには限界があります。最終的に私がカウンセリングから卒業できたのは、自分自身の問題と向き合う力を取り戻したからです。私がカウンセリングにおもねって、依存していたら、未だにカウンセリングから離れられずにいたことでしょう。
そして、自分自身と向かい合う闘いは今もなお現在進行形で続けています。しかし、その闘いを通じて私は自分の人生を切り開くことができました。私は自分が好きなことや嫌いなことをハッキリさせて、自分の気持ちに忠実に生きるようになりました。それは周囲から反発や批判を受けることもありましたが、それでも私は自分の選択を貫きました。
ヨガで身体に刻まれた記憶を解放する方法
北九州に通うようになって体験した、大きな変化の一つにヨガとの出会いがあります。カウンセリングについては、心の面からアプローチして、問題解決に励んできましたが、身体に刻まれた記憶というのはそう簡単に抜けなかったのです。
加えて、私は長い間運動を医師から禁止されていました。ところが潮目が変わるタイミングが来たんでしょうね。2017年3月ごろに、当時通っていた医院の先生から「軽い運動」からということで許可がおりました。現在のヨガの師匠とも、時期は多少前後しますが、同じようなタイミングで出会い、潮目が変わる時期にヨガにお誘いいただきました。
もともと病に倒れる前はスポーツジムにも10年ばかり通っていたこともあり、いわゆる身体を動かすのは嫌いではありませんでした。ところが私が寝たきりになるタイミングでジムも倒産してしまい、そこから運動とは遠ざかってしまいました。
ただ、ジムでは専門のトレーナーもおらず、自己流でやるしかなかったので、いつかきちんとした先生について指導してもらいたい、という希望は持っていました。そこへ来てのお誘いでしたから、これは天啓だと思い、体験入学したわけです。しかし、最初はやはり運動から離れていたブランクで、今なら楽勝で出来るポーズでさえ、悪戦苦闘していました。
そして、想像以上に自分の身体に余分な力が入りすぎていたことに、唖然とされられました。自分はリラックスしているつもりが、無意識のうちに身体を強張らせていたことに気付かされたのです。身体を強張らせて、長い間身を守り、習慣化させてきたことは、一朝一夕では解決できない課題として、今も取り組み続けています。
ヨガをはじめて1年くらいたつと、はじめた頃よりも明らかに体調が良くなっている実感があります。具体的には、
①痛みの軽減
②睡眠の質の向上
③脱力効果
の3つが実感できています。いずれも長い間、私を悩ませてきた課題だったため、これらが改善されていることは、私にとっては無情の喜びでもあります。もっともまだ道半ばという感覚もあるので、今後も自分と向き合って、無駄な力を入れずに済むようにする。より脱力できる人生をおくるために、続けていきたいと思っています。
痛みや睡眠の改善、脱力効果を実感したヨガの効果
ヨガの効果について、もう少し詳しくお話しましょう。まず、痛みの軽減についてですが、私はカウンセリングを受ける前から、慢性的な頭痛や背中の痛みに悩まされていました。これはストレスや緊張が原因で、筋肉が硬直していることが大きな要因でした。ヨガでは、呼吸法やポーズを通して、身体の柔軟性や血流を改善することができます。特に私は、肩甲骨周りや骨盤周りのストレッチが効果的だと感じました。これらの部位は日常生活で使われることが少なく、凝り固まりやすいのです。ヨガでこれらの部位をほぐすことで、痛みが和らぎ、身体全体が軽くなりました。
次に、睡眠の質の向上についてですが、私は不眠症にも悩んでいました。寝つきが悪かったり、途中で目が覚めたり、夢を見すぎたりして、熟睡できない日が多かったのです。これもストレスや緊張が原因で、心身ともにリラックスできない状態でした。ヨガでは、呼吸法やポーズだけでなく、瞑想やリラクゼーションも行います。これらは心を落ち着かせる効果があります。特に私は、寝る前にヨガをすることで、睡眠の質が向上したと感じました。ヨガで心身を整えることで、深く安らかに眠ることができるようになりました。
最後に、脱力効果についてですが、私は無意識に身体に力を入れすぎている癖がありました。これは自分を守るための防衛反応だったのだと思います。しかし、これは逆に身体に負担をかけていたのです。ヨガでは、呼吸法やポーズを通して、身体の余分な力を抜くことを意識します。特に私は、呼吸と動きを連動させることで、脱力効果を感じました。ヨガで身体の余分な力を抜くことで、心も軽くなりました。
以上が私がヨガで実感した効果です。もちろん人によって感じ方は違うかもしれませんし、ヨガだけでは問題解決にならないかもしれません。しかし私にとってはヨガは自分と向き合うための大切な手段の一つです。カウンセリングとヨガの両方から自分の問題にアプローチすることで、より深く根本的な解決に近づけると信じています。
働かないカウンセラーとして生きる決意と自由
私は現在「働かないカウンセラー」を自称しています。これは厳密にいうと「変わる意思と覚悟がある人のためなら働いてもいい」という意味でもあります。変わる意思と覚悟のない人のためには働く気は毛頭ありません。
繰り返しますが、私の才能は「続けられる」ことです。勿論今でも好きなことなら寸暇を惜しんで続けられますし、おそらく今でも望まないこと、嫌いなことでも続けられるはずです。しかし、私はブログを通じてハッキリ好き嫌いを宣言し続けてきた結果、意にそぐわぬ依頼をことわることができるようになりました。
きっかけは、2016年にあらゆる気にいらないものをブログを使ってdisりはじめたことからはじまります。
すると不思議なもので、今まで無反応だった周囲に「反響」がおこりました。私の書いたものを面白いとさえいっていただけるようになったのです。これは予想外でしたね。それまでは空気に等しかった私の存在がはじめて第三者に認知されたわけです。それまでどれほど望んでも、振り向いてもらえなかったのに、嫌われてやろうとしたら、振り向いてもらえたのです。
好かれようとしていないからこそ、私は自分の気に入らないものには様々な形で「NO!」を突きつけることができるようになりました。
「働くからには、気に入らないことでも我慢しなくては」とかつては私もそう思い込んでいました。しかし、それは私の思い込みでしかないわけです。自分の生きたいように生きるためなら、カウンセラーという肩書きが邪魔なら、それすら取っ払うことが今の私なら可能です。ですから、気が向けば問題支援のお手伝いもするし、気に入らないなら何もしないという選択権も私にあるわけです。私の意思と選択を変える権利は誰にもありません。
これからも私は私のために生き続けていくでしょう。私は私として。
【衝撃】悲惨だった介護と自身の闘病
さて、年齢を経てくると直面するのが介護問題です。介護はある日突然にやってきます。実はゆっくりゆっくり忍び寄ってくるのですが、目には見えないため、意識したときには大変なことになっています。
私は40代でうつ病を発症し、自分の人生にも悩んでいましたが、その裏で両親も高齢化していました。父は脳梗塞と心臓の手術を経験し、母は膝の手術を受けました。二人とも要支援となり、リハビリに通うようになりましたが、すぐにやめてしまいました。
その後、私は一人暮らしを始めましたが、母が腹痛で入院し、父が脳出血で倒れました。コロナ禍で面会もできず、両親の介護に追われる日々が始まりました。
ここからは、私が経験した介護地獄の実態と、認知症の親を守るために今すぐやるべきことをお伝えします。私の話が少しでもあなたの参考になれば幸いです。
早期リタイアした両親の社会からの断絶
私の父は50代で退職した早期リタイア組でした。母も子育てが一段落した時点で仕事を辞めたため、早くに社会から断絶し、家に引きこもるようになりました。
しかも、年金は早くからもらえており、二人とも再就職せずに長い老後の人生をスタートさせました。
しかし、一旦社会からフェードアウトしてしまうと、それまでの身体的負担が身体にでてくるようになりました。
まず父が脳梗塞で倒れ、次に立ち仕事をしていた母が膝に人工関節をいれる手術をおこないました。そして、今度は父が心臓のカテーテル手術をうけ、二人とも身体障害者になってしまいます。
この時点で私は依然として自分のうつ病と闘っており、両親の状況に気づけませんでした。
要支援から要介護へ
やがて、両親とも要支援となり、歩行型リハビリが可能になったため、送迎付きのリハビリ施設に通うようになってきたのですが、ほどなくして二人とも「思ったのと違う」と言いだして、リハビリに通うのをやめてしまいました。
本人たちの言い分では、一人一人にちゃんとした指導員がついてメニューを考えるようなサービスを期待していたらしいのですが、そうではなかったようなのです。
今にして思えば、この時点で2人が真面目にリハビリに取り組んでいたら、後々起こる悲惨な介護も多少緩和されたはずなのですが、過去と他人はかえられません。
リハビリをやめてからの両親は、加速度的に認知症状を悪化させていきました。父は怒りっぽくなった事以外は、以前とはあまり変わらないように見えました。
しかし、もともと新しいもの好きな父が、町内で開かれたパソコン講座も途中でやめ、町内会の集まりにもだんだん顔を出さなくなりました。
唯一の趣味といっていい俳句も、いつの頃からかやらなくなってきたため、人と接する機会が激減していきました。
母は母で、80歳過ぎても父の食事を用意していたのですが、いつの頃からか味付けが極端に辛くなっていたのです。
こんな食生活に刺激のない毎日、そして勉強と言いつつ一向に働く気配がない息子に対しては、日に日に風当たりが強くなり、私は包括支援センターに泣きつくことになったのです。
結局、相談員さんと話をして「介護が本格化するまで別居する」ことになり、私は大学生以来の一人暮らしを始めることにしました。
この時点で私は北九州を拠点に自力で独立開業を目指し、市内ではなく北九州に居を構えました。
正直、この時分には大学時代の快適だった一人暮らしの場面が毎夜のように夢に出てきており、その夢にまでみた一人暮らしを手に入れたことで私はまたしても問題から向き合わずに逃げてしまっていたのです。
介護地獄の始まり
北九州に引っ越してからは週に一回、実家に帰って数日様子をみて、また北九州に帰るという生活をしていました。
離れて見た感じ、両親はそれほど変化もなく穏やかに暮らしていたのですが、異変はほどなく訪れます。
やっと自分の体調が落ち着けると思って北九州に戻ると、今度はコロナ渦がスタートしてしまい、県をまたいでの移動は制限されたため、両親がデイサービスにいっている間に、実家に戻って用事をすませて帰るという生活を約半年続けていました。
やがて、ケアマネージャーと下関市の社会福祉協議会から「このまま北九州にいてもらっては困る」ということで、強制的に下関に戻ることになりました。
すでにコロナ渦によって独立開業の話は消し飛んでいましたし、このあたりが潮時だったのでしょう。
しかし、今更実家には戻りたくない私はわがままをいって、同じ下関市内に別宅を借りて、ひとり暮らしは継続することになりました。
ところが、引っ越してきて3か月後、今度は父が脳出血で倒れてしまいます。たまたま前日に、私は実家に戻っており元気そうな顔をみていたのですが、その翌朝父が起き上がれずに救急車で運ばれることになったのです。
病院で診断の結果、脳出血で半身不随という事実を突きつけられた私は「もうダメだ」という覚悟を持ちました。過去に一度脳梗塞をやっていますからね。
そこから1年前とは逆に、今度は実家の母の面倒をみつつ、病院の父の世話もすると言うダブルワークにより、私はまたほぼ自室には戻れない生活が始まったのです。
父の入院と母の認知症
母の入院は一ヶ月ほどでしたが、父の入院は長期に及びました。加えてコロナも収束せず、面会は一切母の入院は一ヶ月ほどでしたが、父の入院は長期に及びました。加えてコロナも収束せず、面会は一切できないまま時間が過ぎていきました。
父がいなくなり、食事を作る必要がなくなった母はこの頃から家事を全くしなくなり、ソファーに寝転がってテレビだけ見るという生活になっていきました。
これでは、話にならないのでケアマネさんと相談し、父にあてがわれていたデイサービスへ行く回数を母に全て振り当てることになりました。
これで家にずっといるよりはマシだと思っていたのですが、それは最初のうちだけでした。
自分も病気になってしまった驚愕の事実
父が倒れてから4か月後、今度は私に異変が起きました。背中の痛みが取れなくなってきたのです。
最初は筋肉痛かと思っていましたが、湿布や鍼治療をしても改善されませんでした。そこで人間ドックを受けたところ、肺に陰影があると言われました。
悪性リンパ腫の可能性があると言われてショックを受けました。昨年までは何も問題がなかったのに、どうしてこんなことになったのかわかりませんでした。
9月に入院して手術を受けましたが、それだけでは治らず、抗がん剤治療も必要になりました。手術後は高熱にうなされて苦しみました。
入院中は父の面会もできず、母は一人でホームに通っていました。私は母や父のことを心配しながらも、自分の命をかけた闘病生活を送ることになりました。
友人の突然死で変化した死生観
入院中にさらにショックな出来事がありました。私はプロレス観戦を通じて長年親しかった友人がいました。
彼は毎日ラーメンを食べ歩いてSNSに投稿するのが趣味でした。私は彼の投稿を楽しみにしていましたが、ある日突然更新されなくなりました。
その後、別の友人から連絡があり、彼は自室で突然死していたと知らされました。葬儀もすでに終わっていて、私は彼に別れを告げることもできませんでした。
彼はプロレスだけでなく、貴重なレコードや音源もたくさん持っていました。私は一度彼の自宅に泊めてもらったときに、彼のコレクションを見せてもらったことがあります。
彼の死で、それらのレアなものも散逸してしまったのでしょう。それを考えると、とても悲しくなりました。
彼の死で、私は自分の死を強く意識するようになりました。私は父と違って一線を超えずに助かったのですが、友人は超えられなかったのです。
私と友人とは本当に紙一重だったのだと思いました。そして、いつか自分にも来るであろう死の瞬間を意識するようになりました。
クリスマスケーキも味わえない入院生活から始まった介護と闘病の日々
私は2022年のクリスマス期間中に抗がん剤治療のために入院することになりました。全6回のスケジュールで3回目の治療入院でした。そのときの病院食で忘れられないことがあります。それは、クリスマスイブに食べたケーキです。
味覚障害でパサパサしたケーキになってしまった
抗がん剤治療は入院した翌日から始まりましたが、副反応の味覚障害が出てきたのがちょうどクリスマスイブでした。その日は病院食にもケーキがついてきて、それはとても嬉しかったのですが、全く味がしないケーキはパサパサしたスポンジみたいなものを口に入れている感じでした。
私にとっては、無味無臭のクリスマスケーキになってしまったのです。しかも同室の3人が全員退院してしまったため、4人部屋に1人残された私は、ビルに吹き付ける冷たい風の音を一晩中聞きながら、年末を過ごすという寂しい思い出になりました。
台風や雷など自然災害にも見舞われる
入院中の思い出で忘れられないことは、もう一つあります。それは、自然災害に何度も遭遇したことです。
他東から上ってきた台風が、直角に西へ曲がり、そのまま山口県に上陸したことや、めったに起きない自身のアラートが病院中に鳴り響いていたこと。さらには激しい雨の日、近くに雷が落ちたことなど、普段体験しないような災害に見舞われました。
母の徘徊事件と成年後見人制度の問題
入院していても、介護の問題はなくなったわけではありません。
私が入院していた後半くらいから母が1人で徘徊して、救急隊員に救助されるという事件がありました。私の携帯に連絡が入るのですが、私は入院中でどうすることもできませんでした。
この頃から、退院してもまだ問題は山積みだという嫌な予感しかしていませんでした。
案の定、6ヶ月の抗がん剤治療を終えた後も、試練は続きました。
母は徘徊する割には歩行も困難になっており、ついにはトイレに這って行かなければならなくなるほど足腰が弱っていました。
このときはケアマネさんに相談してデイサービスで足腰の強化を中心にした運動をさせていましたが、家に戻ればゴロゴロテレビの前から動かない生活でしたから、トイレに行くのも這っていくということは変わりませんでした。
2023年に入ってからは、月に1回救急車を呼んで母を運び込むという事態になってきました。
当初はリハビリのため別な病院に入院させるはずだったのですが、母が肺出血からの膠原病が疑われるということで別な病院に入院することになりました。
しかし、ここは認知病棟がなく治療のため入院していたはずの母は、4日ほどで強制退院させられてしまいました。
困り果てた私はケアマネさんともいろいろ相談しましたが、ネックになるのが膠原病治療で認知病棟のある病院では呼吸器外科がないため通院のための外出がネックになってしまうのではないかということで対応が後手後手に回ってしまいました。
加えて2022年の10月頃から突如浮かび上がった父の財産を管理する成年後見人制度の問題も私の頭を抱えさせる問題の一つになっていました。
この両方をこなしつつ自分の体の治療もしなければいけません。しかし働きに出なければ治療するお金もないというギリギリの生活を強いられることになりました。
肩を脱臼して救急車で運ばれた母
さらに最悪だったのは母がいつものように這ってトイレに行こうとしたときに肩を脱臼してしまい救急車で運ばれたことでした。
運ばれた先は入院を拒絶された病院だったのも皮肉な話ですが、そこでどうにか治療を終えて再び母は実家に戻ることになりました。
この頃から部屋には戻れない私は弁護士さんとも相談して部屋の契約を解除し実家に戻ることになっていました。
しかしこの状態の母と一緒に暮らすのは正直言って限界がありました。
ですのでこの頃のストレスはマックスだったと私も思っています。
認知症病棟への入院が決まり、やっと自分の時間を取り戻す
ところが運よく認知症病棟の病院が呼吸器外科のある病院と連携してくれることがわかりそこからトントン拍子に母が認知症病棟に入院することになりました。
結果的に2023年8月現在まで母はその病院で治療を行いながら生活をしておりますがここでやっと自分の時間を取り戻すことができた私はここでやっと自分の仕事を探しに行くことができるようになりました。
元々、1月の時点で「一緒に仕事をしませんか」という働きかけはあったのですが、この時は時期尚早で上手くいかず、2月に無理矢理ハローワークや知己を頼って行った求職活動もうまくいっていませんでした。
この時点で父の預貯金は家族三人が生活するには全然足りておらず、私の就職は急務でした。しかし入院が決まった後は放心状態になってしまい、1か月棒に振った後、ようやく今の職場で働くことが出来ています。
正直収入は全然安定していませんが、必要とされる喜びとやっと手に入れられた自由が今の私には心地いいですね。
とはいえ、お金の問題は早期に解決しないといけないので今もなお悪戦苦闘中ではあります。
介護と病気から学んだこと
私は両親の介護と自分の病気で人生が一変した経験をしました。その中で学んだことがあります。
それは、人生は予測不能であり、いつ何が起こるかわからないということです。父も私も友人も、突然の出来事に見舞われました。
それに対して、どう対処するかは自分次第です。くよくよしても事態は変わりません。前向きに生きるしかありません。
また、人生は有限であり、いつ終わるかわからないということです。父も私も友人も、死に直面しました。
それに対して、どう生きるかは自分次第です。無駄に過ごしても意味がありません。大切に生きるしかありません。
私は今でも父の介護と自分の病気と闘っています。しかし、それを苦痛だと思わず、むしろ貴重な経験だと思っています。
私はこの経験を通じて、人生の本質を見つめ直すことができました。そして、自分の人生観や価値観を見直すことができました。
私はこの記事を読んでくれたあなたにも、同じように人生を見つめ直してみてほしいと思います。そして、自分の人生を大切に生きてほしいと思います。
あなたの人生はあなた次第です。あなたはどう生きますか?