私的プロレススーパースター烈伝㉘邪道&外道
今回は日本最長のタッグチームである、邪道&外道をご紹介します。邪道&外道は、俗称は邪外道とも呼ばれています。以前は、パニッシュ&クラッシュ。こちらの通称はパニクラになります。
1988年、たけしプロレス軍団 (TPG)のオーディションに互いに合格してプロレス入りします。当初、TPGはアニマル浜口ジムのような、選手育成型の団体を目指していたそうです。コメンテーター・マネジャーなどで活躍していたウォーリー山口さんが所有するリングで、合格者はアポロ菅原コーチのもとで修行していたそうです。
なお、同期にはスペル・デルフィン選手もいました。
さて、TPGは紆余曲折を経て選手育成から、アントニオ猪木さんに挑戦状を叩きつけ、刺客を送り込むという形に変わっていきました。この方針変更は、猪木さんのアイディアであったとされています。
ともあれ猪木さんが一枚かんだことで、マサ斎藤さんがバックについたTPGは、ベイダーという刺客を新日本マットに送り込む外敵となりました。
しかし、当時のプロレスファンには「プロレスを理解できない部外者」に対する明確な拒絶反応が存在していました。
芸能人がらみのプロレス軍団というギミックは到底受け入れられないものだったのです。
しかも国技館で組まれていた、猪木さんと長州さんのシングル対決はシリーズ全体の目玉カードだったため、その試合に期待して集まった観客の怒りが頂点に達してしまったのです。
TPGがリング上に登場した直後から「帰れ!」、「プロレスを甘く見るな!」などの罵声が飛び、激しいブーイングも起き、ついには暴動に発展し、新日本は両国国技館を無期限で貸し出し禁止になり、TPGは自然消滅しました。
その後、TPG所属選手はユニバーサルプロレスに活動の場を移し、邪外道はパニクラに、デルフィンは前身のモンキーマジック・ワキタとして選手生活をスタートさせます。
しかし、ユニバーサルのエースだった浅井 嘉浩さんが、UWAからCMLLに移籍し、ウルティモドラゴン選手に変身したため、日本での主戦場がSWSになりました。
このため、キャリアの浅いパニクラが急遽エース格として担ぎ上げられるわけですが、当然経験の少ないパニクラには容赦ない罵声が飛び交うことになりました。
邪道・外道のリングネームを考えたのは外道で、出典元は、映画「仁義なき戦い」を見ていて、菅原文太の「あんクサレ外道が!」というセリフになります。
これを元に邪道・外道と並べたわけです。しかし、邪道は大仁田厚のニックネームと被るため、名付け親の本人は外道を選んだという経緯があります。
パニクラからガラッと変身した邪外道は、海外に活路を求め、プエルトリコでのつてからW☆INGに登場。W☆ING崩壊後はWARに活躍の場を移します。皮肉なもんでユニバーサルの前エース・ウルティモドラゴンもまたWARに所属していました。
WARでは一時期邪道がヘビー級、外道がジュニアと分かれて活動していたこともありました。ユニバーサル時代も一時的に敵対したことがあります。
さて、WARで出会った冬木弘道さんと冬木軍を組んだ邪外道は、そのまま冬木さんと共にFMWに上陸。エンターテインメント路線の一員として活躍します。
また、冬木軍時代には全日本、新日本との接点もうまれました。全日本登場に際しては、冬木さん自らが馬場さんに直談判し、馬場さんも「冬木がいうんなら実力は確かだろう」と出場を許可したそうです。
その後、主戦場を新日本にした邪外道は、やがて菅林会長の信頼を勝ち取り、外道はマッチメイカーを担当し、邪外道としてはBULLET CLUBに所属して、悪の限りを尽くしています。
年月を経て磨かれてきた彼らのレスリングは達人の域に達しており、パニクラ時代から比べると別人のようになっています。ユニバ時代に現在の邪外道の姿を想像できたものは誰もいなかったと思いますね。
デビュー以来一貫して互いを「兄弟」と呼び合いこのコンビで活動している(但し、ユニバーサル・プロレスリング時代に外道がパット・タナカ&ビジャノ3号と「バッドカンパニー」を結成し、一時敵対したことがある)。タッグはユニバーサル、FMWの一時期を除き、20年以上もほぼ断続的に活動しており、現存するタッグチームでは国内最長である
また冬木弘道とのトリオ「冬木軍」、弟分の非道を加えたトリオや、兄貴分のGOKU-DOを加えたトリオでも活動していた。
現在は新日本プロレスを活動の拠点とし、BULLET CLUBの司令塔として、リング内外で存在感を示しています。