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私的プロレススーパースター烈伝㉗大木金太郎

今回は韓国の猛虎と呼ばれた大木金太郎さんです。1958年に、同郷の英雄力道山に憧れて漁船で日本に密入国。力道山先生が身元引受人となり、日本プロレスコミッショナーの大野伴睦代議士を動かしたことで釈放され、日本プロレスに入門して同年11月にデビュー。翌年にはジャイアント馬場さんとアントニオ猪木さんがデビューしており、「若手三羽烏」と称されました。

1963年12月8日に力道山先生が刺され、12月15日に死亡したことで、力道山を心の拠り所にしていた大木は居場所がなくなり、韓国へ一旦帰国した。韓国では「大韓プロレス」のエースとして、様々な企画を成功させ韓国プロレス界の発展に尽力しました。

その間、1966年10月に豊登さんが東京プロレスを旗揚げし、アントニオ猪木さんも日本プロレスを去って東京プロレスに参加したため、日本プロレスはその穴埋めに大木さんを韓国から呼び戻すと、「金剛山金太郎」のリングネームで売り出そうとしましたが失敗。「大木金太郎」へと戻り日本プロレスNo.2のレスラーとして活躍していたが、東京プロレスは崩壊しアントニオ猪木さんが出戻り、再び馬場・猪木の陰に隠れた存在となってしまいます。

1973年の日本プロレス崩壊後は一旦他の日本プロレス選手とともに全日本プロレスに入団しますが、マッチメイクで冷遇されたことから退団。その後、新日本プロレスに参戦し、1974年10月10日、蔵前国技館にて猪木さんとのシングル戦を行う(セコンドは元日プロ社長:芳の里、元日プロ幹部:九州山[要曖昧さ回避]ら)。

この試合は猪木さんが大木さんの頭突きをひたすら受け続けてバックドロップで仕留め、試合終了後には二人が感極まって抱き合うという、後世に残る名勝負となりました。

その後、1982年の阿修羅・原戦を最後に、首の持病が悪化し事実上の引退となってしまいました。1995年4月2日に行われたベースボール・マガジン社(週刊プロレス)主催のオールスター戦「夢の懸け橋」東京ドーム大会で、それまでの功績を讃えて正式な「引退セレモニー」が行われています。

そしてテレビ番組の企画でアントニオ猪木さんが闘病中の大木さんの自宅を訪問している。大木と猪木は再会を大いに喜び、若き日の思い出話を語り合ったそうです。若手時代の猪木さんは力道山先生に徹底的にしごかれ、時には付き人として理不尽な仕打ちを受けていたが、最も親身に相談に乗ってくれたのは大木さんだったといいます。

2006年10月26日、大木さんはソウル乙支病院において慢性心不全と腎臓血管異常による心臓麻痺により、77歳で死去されました。


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 プロレス観戦記書き | せかぷろ | プロレス“ザ・モンスター”ハラダ
両親2人の介護を一人でやってます。プロレスブログ「せかぷろ」&YouTube「チャンネルせかぷろ」主宰。現在ステージ2の悪性リンパ腫と格闘中。