私的プロレススーパースター烈伝㉙渕正信
今回は今もなお全日本プロレス一筋に活躍している渕正信選手のご紹介です。渕選手は1974年4月10日に全日本プロレスに入門。入門わずか12日で大仁田厚戦でデビュー。当時は大仁田選手や園田一治(ハル薗田)選手らと共に若手三羽烏の一人として頭角をあらわしていきます。
1980年に海外武者修行に出発。アメリカでの武者修行中に、全日本プロレスのレスラーには珍しく、カール・ゴッチさんより指導を受けています。
1983年6月にはチャボ・ゲレロ・シニア選手の持つNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座に挑戦を果たした後に凱旋帰国。2代目タイガーのヘビー級転向を受けて、再度ジュニアの表舞台に立ち、1987年に小林邦昭さんから世界ジュニアヘビー級王座を初奪取、以降5度同王座を獲得し、ジュニアヘビー級のトップレスラーとしての地位を確立します。
その一方で、三沢光晴さん率いる超世代軍とジャンボ鶴田さん率いる鶴田軍との抗争では、鶴田軍についてメインイベントなどで戦う他、永源遙さんや大熊元司さんらと共に悪役商会の一員としてジャイアント馬場さん、ラッシャー木村さんらのファミリー軍団と抗争を繰り広げるなど、名バイプレイヤーとして分裂前の全日本を支えたことでも知られています。
2000年に起こった大量離脱騒動下、8月の新日本プロレスG1 CLIMAX大会において、渕選手はスーツ姿でリングに上がり「30年の長い間、全日本プロレスと新日本プロレスとの間には、厚い壁がありました。今日、その壁をぶち破りに来ました。全日本プロレスは選手2人しかいませんが、看板の大きさとプライドは新日本に負けてはいない!」と歴史に残るマイクアピールを行い、長州力さんと固い握手を交わしました。
このとき現れた蝶野正洋さんが「ここはテメェの上がるリングじゃねぇんだオラ! とっとと降りろ!」と激怒して被っていた帽子を投げつけたが渕は余裕綽々の態度を崩さず、蝶野の帰り際には「蝶野、忘れ物だ」と帽子を放り返し、格負けしない振る舞いを見せ付けました。
最後には「我々は逃げも隠れもしない! 蝶野、来るなら来い!」「新日本プロレスのファンの皆様、どうも大変お騒がせしました」としめくくったことから、会場からは異例の大「フッチー」コールが沸き起こりました。
大のキティちゃん好きとしても知られ、全日本のスポンサーであるあすなろ舎から作ってもらった世界に一着しかないキティちゃんのガウンを着ての入場は現在の全日前座名物の一つともなっています。
「全日本プロレスが消滅したら、引退する」と公言もしているほど、誰にも負けない「全日本愛」に満ちあふれた選手、それが渕正信という選手なのです。