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[プロレス] 私的プロレススーパースター烈伝(105) 三沢光晴

今回は、全日本プロレスで活躍し、プロレスリングNOAHの創始者でもあった三沢光晴さんのお話です。


国体優勝


三沢光晴さんは、1981年に全日本プロレスでデビューし、その後、2000年にプロレスリング・ノアを旗揚げしました。長年にわたりトップレスラーとして活躍しました。三沢さんの代名詞ともいえるエルボー技は、1990年に2代目タイガーマスクから素顔の三沢光晴になってジャンボ鶴田さんに挑む際に使い始められました。

三沢光晴さんは、プロレス界で絶大な信奉を集めた天才であり、多くのファンや関係者に愛されていました。三沢さんは高校時代にレスリング部に所属し、国体で優勝するなどの実績を持っていました。

しかし、三沢さんにとってレスリングはプロレスラーになるための手段に過ぎず、競技自体を好きになることはなかったそうです。

全日本入門


高校卒業後の1981年3月27日、全日本プロレスに入門し、8月21日に浦和競馬場正門前駐車場で行われた越中詩郎戦でデビューしました。入門から5か月でのデビューは全日本プロレス史上最速でした。

1983年にはルー・テーズ杯争奪リーグ戦に出場して決勝に進出し、先輩の越中詩郎選手に敗れて優勝はならなかったものの、この試合の特別レフェリーを務めたルー・テーズさんは「日本で見た若手選手の試合のベストバウトじゃないか」とこの試合を高く評価したそうです。

三沢さんの1年前に入門したターザン後藤さんによると、受身を覚えるのが早く、瞬く間に後藤さんと同じレベルに達したといい、またコーチ役だった百田光雄さんによると、三沢さんはあらゆる種類の受け身を1回教えれば大体覚えたといいます。

また、冬木弘道さんによると三沢さんは当時から天才タイプで、「誰かから『あれやってみろ』と言われたこと」がすぐにできたといい、頭の中でイメージした動きができる理想的なレスラーだと評しています。

ジャイアント馬場さんは、練習において受け身の音を聞いただけで三沢さんが受け身をとったことがわかったとされています。

メキシコ遠征から二代目タイガーヘ


三沢さんは1984年にメキシコへ遠征し、「カミカゼ・ミサワ」というリングネームで試合に出場していました。しかし、数か月が経ったある日、馬場さんから国際電話で「コーナーポストに飛び乗れるか」と問われ、三沢さんが飛び乗れると答えたところ直ちに帰国するよう命じられます。

三沢さんは7月22日にメキシコから日本へ極秘帰国し、馬場さんから2代目タイガーマスクとなるよう命令を受けました。2代目タイガーマスクとなった三沢さんは7月31日の蔵前国技館大会にてお披露目され、8月26日に行われた田園コロシアム大会でデビューしました。

当初はジュニアヘビー級戦線で活躍し、「虎ハンター」と称された小林邦昭さんとの抗争を展開します。二代目タイガーはその後、1985年10月にヘビー級に転向しました。タイガーマスク時代の三沢さんは、初代タイガーマスク選手が確立した華麗な空中技を受け継ぐ必要に迫られましたが、本来目指すプロレスを前面に出せないことを意味し、そのことに苦しんだと言われています。

そのためヘビー級に転向した理由について、「ファンが望む空中技をふんだんに取り入れつつも、2代目タイガーマスクとしての個性の確立を目指すようになったため」と説明しています。

また、当時空中技を多用したことで三沢さんの膝には負担がかかり、左膝前十字靱帯断裂を引き起こし、負傷箇所の手術を受けるため1989年3月から1990年1月にかけて長期欠場を余儀なくされました。

SWS騒動の渦中、素顔に


1990年春、天龍源一郎さんが全日本を退団しSWSへ移籍したことで、複数のプロレスラーが天龍さんに追随し、退団しました。

このSWS騒動により、全日本は存亡の危機に晒されましたが、騒動の最中の5月14日、「マスクマンが上を狙うのは限界がある」と感じていた三沢さんは、東京体育館での、タイガーマスク&川田利明 vs 谷津嘉章&サムソン冬木戦で、パートナーの川田さんにマスクの紐を解くように指示して唐突に素顔に戻り、脱いだマスクを客席に向かって投げ入れました。

この試合から2日後の16日にはリングネームを「三沢光晴」に戻すことを発表し、ポスト天龍に名乗りを上げたのでした。三沢さんは川田利明さん、小橋健太さんと共に超世代軍を結成し、1990年6月8日に「全日の『強さ』の象徴」と見られていた鶴田さんとのシングルマッチで勝利を収め、1992年8月22日にはスタン・ハンセン選手を破って三冠ヘビー級王座を獲得するなど、超世代軍の中心レスラーとして活躍しました。

超世代軍とジャンボ鶴田さんを中心とする鶴田軍の世代抗争は全日本の新たな名物カードとなりました。特に超世代軍は高い人気を獲得し、全日本に大きな収益をもたらしました。三沢さんはこの時期にエルボーやフェイスロックといった必殺技を習得しています。

四天王プロレス


鶴田さんが一線を退いてからは、三沢さんらが敵味方に分かれて壮絶な試合を繰り広げました。この時期に展開されていたのが後に「四天王プロレス」と呼ばれるスタイルでした。

「四天王プロレス」は、プロレス四天王と呼ばれた三沢光晴さん、川田利明さん、田上明さん、小橋健太さんが中心となって行った試合スタイルです。四天王プロレスの特徴は、試合時間が30分を越えることが多く、攻防が激しく、カウント2.9が連続する攻防が頻繁に見られ、ハードヒットする打撃が特徴的でした。

脳天直下式や高角度式の投げ技が多用され、大技を食らってもすぐに立ち上がる、といった試合スタイルでした。

この四天王プロレスを見るために、日本武道館などのビッグマッチは毎回超満員の観客が詰め掛けたのです。四天王や秋山準選手を含めた5人の活躍やファイトスタイルは話題を呼び、全日本プロレスが最も繁栄した時期とされています。

また、そのスタイルはプロレス界全般にも多大な影響を与えました。中でも三沢光晴選手は他のプロレスラーと比べていくつかの特徴がありました。三沢選手は「受け身の天才」として知られ、どんな技を受けても立ち上がることができました。また 三沢選手のエルボーは非常に強力で、「エルボーの貴公子」としても知られていました。

三沢革命から全日退団まで


全日本プロレスでは馬場元子さんが会社の運営について大きな発言権を有し、試合会場での実務や対戦カードにまで口出しする状況が続いていました。

1996年に三沢さんは元子さんに反発を覚えるレスラーや社員を代表する形で、元子さん本人に「周囲の人間の声に耳を傾けた方がよい」という内容の忠告をしたことがあったといいます。

しかし、これがきっかけで三沢さんは元子さんと対立するようになり、1998年には馬場さんに対して所属レスラーを代表する形で「元子さんには現場を退いてもらえないでしょうか」と直談判するなど、対立を深めていったのでした。

1999年に馬場さんが死去すると、マッチメイクなど現場における権限を譲り受けていた三沢さんはレスラーの支持を受けて後継の社長に就任しました。

三沢さんは就任時に「いいものは採り入れて、今までとは違う新しい風を吹き入れてやっていきたい」と抱負を語ったものの、株式は三沢さんではなく元子さんが保有しており、何をするにも自分に断りを入れるように要求してきたのです。

しかし、元子さんは三沢さんが決めたマッチメイクに対して必ず反対意見を出し、馬場さんの運営方針を100%受け継ぐことを要求してきました。

三沢さんはこうした環境を経験したことで、「オレのやろうとすることが、尊敬する馬場さんが作り上げたプロレスを汚すと言われ、更に全日本らしくないと非難されるなら、俺の方から身を引く」と全日本退団を決意する原因になったと述懐しています。

さらに経営に関する不透明な部分を目にするうちに全日本に対する不信感が募り、その結果プロレスそのものに対して愛想が尽きかねない心境になり、そうなる前に退団した方がいいと思うようになったとも述べていたそうです。

2000年5月28日、三沢さんは社長を解任されました。さらに6月13日に三沢さんは定例役員会において取締役退任を申し出て、全日本を退団することになったのです。

NOAH設立と体調不良


この時三沢さんは既に退団後に新団体を設立する構想を抱いており、16日に行われた記者会見において改めて会見に同席したレスラー24人で新団体を設立することを宣言しました。

しかし、予想より多くの選手が新団体への参加を表明したため三沢さんは資金繰りに苦しみ、自身の保険を解約し、さらに自宅を担保に金を借り入れて選手たちの給料に充てました。

その上、ノア旗揚げ後の三沢さんは常に体調が悪く、思うように練習ができない日々が続いたそうです。それでも、旗揚げ以降1度も試合を欠場せず、GHCヘビー級王座を3度、GHCタッグ王座を2度獲得しています。

また、2007年にはGHCヘビー級王者として1年間防衛を続け、それまで縁のなかったプロレス大賞MVPに当時史上最年長の45歳で選出されました。

三沢さんは激しい試合の代償で視神経や脳神経にダメージが及び、体力面の不安が深刻化していました。

2009年6月13日

この頃の三沢さんは周囲に「辞めたい」「引退したい」と口にすることが多くなっていましたが、試合には出場を続けていきました。

私は2008年7月12日「Summer Navig(サマーナビゲーション)’2008」下関大会を生観戦していますが、当時書いたプロレス観戦記には「三沢は腹が出て往年の精悍さが見る影もない。社長業が苦しいのかな?黄金期にあししげく会場に足を運んでいた身としては、寂しいような、切ないような・・・」と記しています。

往年のコンディションからはほど遠い体調であることは、見ているこちらにも伝わっていたのです。

そこから約1年後、2009年6月13日、三沢さんは広島県立総合体育館グリーンアリーナ・小アリーナで行われたGHCタッグ選手権試合に挑戦者として出場します。

対戦相手の齋藤彰俊選手の急角度バックドロップを受けた後、三沢さんは意識不明・心肺停止状態に陥りました。

リング上で救急蘇生措置が施された後、救急車で広島大学病院に搬送されましたが、午後10時10分に死亡が確認されました。享年46才でした。

三沢さんが意識を失う前にレフェリーの西永秀一さんが「試合を止めるぞ!」と問い掛けた際に、かすかに「止めろ…」と応じたのが最後の言葉となったのだそうです。

損得勘定では動かない


三沢さんは、全日本での若手時代にはジャンボ鶴田さんの付き人を務めていましたが、鶴田さんは、干渉をあまりしない性格で、その影響から三沢さん自身も付き人に対して、雑用を多く言いつけたり小言を言うことがなかったそうです。

三沢さん自身が新人時代に先輩から理不尽な仕打ちを受けた経験から、「自分は下の人間に、おなじようなことは絶対にしない」と心に誓っていたらしいですね。

三沢さんは「損得勘定で動かない人間」で、「人に左右されず、しっかりと自分というものを持ち、自分自身の判断で人付き合いをする男だった」と言われています。

ノアの経営者として三沢さんは、休養中の給料保障、年間の最低保障を定め、所属レスラーを金銭面でバックアップすることに留意していました。

全日本プロレスの社長時代には、会社の財政状態が厳しいにもかかわらず所属レスラーがかける保険の保険料を全額負担する決断を下しています。

これらの特徴から、三沢光晴選手の多彩なキャリアと人間性が垣間見えますね。

スパルタンX


三沢光晴さんのテーマ曲は、二代目タイガーマスク以降、スパルタンXに落ち着くまで数曲変更されています。

スパルタンX自体を選んだのは三沢さん自身であったと言われていますが、これは特にジャッキー・チェンやトム・ハンクス主演の映画を好んでいたそうで、そのラインから選曲されたのではないか、と私は思います。

ただし、スパルタンXは三沢さん以前に初代上田馬之助さんも一時期使用していた事がありました。

三沢さんはおそらく上田選手の入場曲だとは、知らなかったと思われます。
逆に知っていたら、同じ曲にはしなかったのではないでしょうか。

三沢さんほどの漢気ある方が、まさか無断で使用するような不義理で非常識なことをするわけがありませんからね。

緑のロングタイツ


ノアの団体カラーである緑は三沢さんを象徴する色として知られています。

これはタイガーマスクから素顔に戻った後、緑のロングタイツを着用したところから始まっています。

一説では三沢さんが好きだった正統派外国人レスラーのホースト・ホフマン選手に倣ったといわれることが多いのですが、実際には知人の助言がきっかけで着用するようになったそうです。

三沢さんは緑のロングタイツが定着する前に数回ではありますが赤や青のロングタイツを着用したこともあります。 ロングタイツには、2代目タイガーマスク時代に手術した左膝の傷跡を隠す目的もあったと言われています。

2000年にプロレスリング・ノアを設立すると、他の団体にはない色という理由から緑色のマットを使用し、そのまま団体のイメージカラーとして今も受け継がれています。

2024年で三沢さんが亡くなってから15年の月日が流れました。ノアの母体は旗揚げ当初とは大きく変わっていますが、6月13日のご命日前後では今でも毎年「三沢光晴メモリアル」が開催されています。

また、日テレジータスでは毎年三沢さんの追悼番組が長時間放送されており、時間が経ってなお、三沢さんの功績は語り続けられてます。







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 プロレス観戦記書き | せかぷろ | プロレス“ザ・モンスター”ハラダ
両親2人の介護を一人でやってます。プロレスブログ「せかぷろ」&YouTube「チャンネルせかぷろ」主宰。現在ステージ2の悪性リンパ腫と格闘中。