[プロレス]私的プロレススーパースター烈伝#76 齋藤彰俊
今回は齋藤彰俊選手の話をしてみたいと思います。
斎藤彰俊選手は、誠心会館所属時代、誘われる形で、デスマッチ団体であるW☆INGに移籍をいたしまして、ここで木村浩一郎選手や徳田光輝選手と共に、週刊プロレスから格闘三兄弟という名前で呼ばれるようになります。
しかし、W☆INGの経営がすぐに傾いてしまいましたので、そこからまた別な団体に移籍をするんですけれども、団体自体が活動をしなかったりで、この間は非常に長く苦難の道を歩んでおりました。
そんな中で1990年代におこった誠心会館と新日本プロレスとの抗争に、青柳館長とともに中心人物として、齋藤彰俊選手は登場してきます。
1992年1月4日超戦士 in 東京ドーム。これは東京ドーム大会が初めて1月4日に行われた歴史的な大会であります。
この大会の中で齋藤彰俊選手は6万もの観衆の中で堂々と挑戦表明を読み上げるわけなんですけれども、私は実はこの超戦士 in 東京ドームを生で観戦しに行っております。
馳浩対タイガージェットシンの結果を知ったのも、この会場だったんですけれども、やはり猪木対馳戦、これが私の中の目当てではありました。
とはいえ、六万人のブーイングという、あの異様な光景を、生で見ることができたというのはすごい貴重なことだったなあというふうに思うんですね。
そして新日本プロレスと誠心会館の抗争が、始まっていくわけなんですけれども、斉藤彰俊対小林邦昭戦が、非常に現場の方で評価をされまして、長州力選手に気に入られた形で、齋藤彰俊選手は新日本プロレスに、レギュラー参戦を果たします。
と同時に越中選手らと、反選手会同盟入りを結成しまして、そこから平成維新軍へとつながっていく流れになっていきます。
齋藤彰俊選手は2020年になってGHCのヘビー級王座に挑戦する際、92年の東京ドーム大会以来の、挑戦状を読み上げまして、当時の王者だった潮崎豪選手に挑戦を致しました。
この時に背負っていたのは、おそらく三沢光晴選手の魂であったんではないかな、という風に思います。
あの92年の東京ドームの時とは、背負うものが違っていたとはいえ、やはりその覚悟自体は、その姿、その言葉から十分に伝わる物がありました。
実際に無観客で行われた ghc ヘビー級選手権を見た時も、その魂あふれるファイトに、非常に感銘を受けました。
時を経て姿形が変わっても、中身は決して変わっていないんだっていうことをこのとき改めて再確認はした次第であります。