保永昇男

私的プロレススーパースター烈伝⑬保永昇男

今回は1979年4月に新日本プロレスへ入門、1980年4月25日に後楽園ホールの斎藤弘幸(現・ヒロ斉藤)戦でプロデビューした保永昇男選手のご紹介です。

保永選手は1984年3月にメキシコ遠征から帰国。同年9月、ジャパンプロレスへ合流して全日本プロレスに参戦します。

ジャパンプロレス崩壊後は新日本プロレスに出戻り、頭髪を金色に染めてブロンド・アウトローズを結成。後にスーパー・ストロング・マシーン選手を加えレイジング・スタッフと名を改めました。

保永選手はジュニアヘビー級のヒール選手として、ライバルの獣神サンダー・ライガー選手らと激闘を繰り広げ、1991年にベスト・オブ・ザ・スーパージュニアの前身であるトップ・オブ・ザ・スーパージュニアでライガー選手を破り優勝します。なおこの試合はIWGPジュニアヘビー級王座決定戦を兼ねており同王座に初戴冠しています。

通算三度の戴冠を重ね、三度目の王者返り咲きでは、実に6度の防衛を重ねる長期政権を築き、さらに11月18日エル・イホ・デル・サント選手を破りUWA世界ウェルター級王座を獲得するなど、ライガー選手の負傷欠場や金本浩二選手、大谷晋二郎選手ら新世代の台頭までの空白期の穴を埋めてジュニアの功労者です。

保永さんは引退後、レフェリーへ転向します。当初はぎこちないレフェリングで観客から声が上がったり、元レスラーであるにもかかわらず、試合中レスラーと衝突しただけでしばらく倒れているなどの場面が見受けられました。

しかし元レスラーであることを活かし、相手選手がロープブレイクをしているのに、腕ひしぎ逆十字固めを放そうとしないケンドー・カ・シン選手に対しストンピングを連発して「保永コール」を巻き起こすなど、レフェリー保永昇男としてのエピソードを残していきました。

以降はジュニア戦線を中心にレフェリーを行い、2003年、WJプロレスに移籍。2004年WJ崩壊と共にリキプロへと移籍します。リキプロが新日本と合流後も道場管理者として残っています。

「あの人ほど怒らせたら怖い人はいなかった。喧嘩をしたくない相手だよね」、「普段は良き相談役だがプロレスに対する目は非常に厳しい。よくしょっぱい試合をした若手が試合後に殴られていたよ。」と、かつての盟友、後藤達俊さんが語っているように、若手選手のコーチや相談役としてその手腕をいかんなく発揮しているいぶし銀的存在でもあります。

そんな保永さんが2020年1月4日のライガー引退試合にてスペシャルレフェリーとして登場します。自身のレスラー引退試合の相手をつとめたライガー選手と再び交わる日がこんな形で訪れるとはなんともドラマティックだなあと私は思っています。


両親2人の介護を一人でやってます。プロレスブログ「せかぷろ」&YouTube「チャンネルせかぷろ」主宰。現在ステージ2の悪性リンパ腫と格闘中。