STORY Part.1
たくさんの愛情を受けとった幼少期
1986年、宮崎県日向市生まれ。
農業と土木業を営む家の次男である父と、建築業を営む家の次女である母との間に、第2子、次女として生まれました。
わたしが生まれたころ、母は家業がとても忙しい時期でした。子煩悩な父が、夜中のミルク、おむつ替え、生後4ヶ月からの保育園の送迎、ほぼすべてを担当したそうです。
父は行動派です。せっかちですが、心はいつも穏やか。何をするときももにこにこと見守ってくれてました。「大丈夫じゃが」とよく言っていました。
母は仕事で多忙でした。しかし、その時々の精一杯で育ててくれていました。旅行が好きで、国内外さまざまな場所に連れていってもらいました。
親戚がたくさん身近にいました。両親以外にも無条件にわたしを愛してくれる大人がたくさんいました。「かわいい」「かわいい」と言われながら可愛がってもらいました。
わたしは、天真爛漫で、有り余る体力を持っていました。1歳前で歩き始めてからは「移動がすべて走り」だったそうです。体を動かすことが大好きで、お転婆。いたずらをしては、母を困らせました。
母はそんなわたしをいつも心配していました。しかし、やりたいと言ったことは何でも挑戦させてくれました。
ピアノ、スイミング、書道、そろばん、英会話。ハンドボールに夢中になり、どれも辞めてしまいました。だけど、そのひとつひとつがわたしの人生に少しずつ影響を与えています。
ハンドボールとの出会い
〜夢中でボールを追いかけた日々〜
小学2年生のころ、ハンドボールを始めました。
はじめは、面白さがわからず、練習をさぼる日もありました。学年が上がるにつれてめり込んでいきました。6年生のときに全国大会で準優勝しました。ハンドボールが大好きになりました。
地元の中学校に進みました。ハンドボール部はありませんでした。小学校からの仲間と創部しました。ホームグラウンドは近所の公園。1年時のメンバーは7人。全国大会に出たかったけれど、最高成績は九州大会で4位でした。
地元の普通科高校に進学しました。ハンドボール“部”はなく愛好会がありました。再び仲間と創部しました。練習場所は、校庭を使わせてもらえました。学校の施設を使わせてもらえることに感動しました。メンバーは8人からのスタートでした。最高成績は全国選抜大会出場でした。
中学校と高校で、愛好会、同好会、部活動という3年間を2回繰り返しました。部活動ではないことで、出場ができない大会もありました。悔しかったです。でも、仲間と過ごす毎日がたからものでした。
保護者、学校の先生、外部コーチ、小学生の頃から応援してくれていた方。みなさんの協力なしでは成り立たない事ばかりでした。たくさんの方々のおかげで、心温まる環境でハンドボールを続けることができました。
お読みいただき
ありがとうございます。
Part.1では、
幼少期〜高校時代について
書きました。
STORYはPart.2へと続きます。
Part.2では、
大学〜実業団時代について
書いていきます。