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陽乃草子「秋」

秋/実りの季節に対する祝福、あるいは自由賛歌

秋は、とかく自由だ。まぼろしのように揺らいで、脳を焼き続ける夏から解き放たれ、やっと自分が自分を取り戻したような心地がする。
世界の自由さを喧伝しては気まぐれに去っていく風、日中の柔らかな日差しの温度、まだ水分の抜けきらない枯葉の香り。夏とは構成色ががらりと変わったカラーパレットが目に新しい。
こと近年に至っては、私が正気でいる自覚があるのは春と秋の短い間しかない。正気の間にやりたいことを全部やるしかない、今こそが好機だ。
読書、スポーツ、食欲云々と、秋には様々な枕詞がつく。その中で「正解」はなんだろうか?
私の思う正解は「すべて」だ。心の向くまま、思いついたことはすべてやろう。
秋は付かず離れず、私たちが勝手をするのを見守ってくれる。なににも恐れる必要はない。

今年の秋のわたしのお気に入りは、気が向いた時間に起き、深く考えず外に飛び出して、目に付いた喫茶店に飛び込んでみることだ。
喫茶店で読書をするのは好きだ。簡単に、現実から切り離されたような心地を覚えられる。自分で選んだ本を持っていくのもいいが、その場に置いてある本を読んでみるのもまた面白い。自分の選ぶ本は自分の思考の延長線上にある。全くの他人の選んだ本を読んでみると、違う人間の見る世界を、視界を借りて覗き見られる。それが好きだ。
しかし、それよりも楽しいことが起こることがある。それは周りの人の話に耳を傾けることだ。活字を追って遊んでいる間、周囲の人は大抵お喋りに興じている。その内容が自然と耳に入ってきて、本に集中できなくなってきたら、遊び方を変えてみる合図だ。
自分と違う人の話はどんな内容でも興味深い。しばらく話を聞いて、悩み相談であれば自分なりの解決方法を考えてみたり、愚痴だったら話者とはまた別の視点を探してみたり、はたまた想像を巡らせて問題の原因を探ってみたりする。もちろん直接確かめようもないので正解がない考え遊びだ。それでも、飛ぶように時間は過ぎる。
そうして、いろんな人の人生を勝手に覗き見て満足した後に喫茶店を出る。元気があれば、そのまま知らない町を歩き回ってみる。気分は小さな旅人だ。旅をすると、自分の知らない知識が体験と共に自分の中に落とし込まれ、定着していく。この繰り返しによって自分という人間ができていくのか、と思うのもまた楽しい。

秋に見つけた、お気に入りの喫茶店のひとつ。

その日の陽気や気分や場所の特性によって、なんだってできるのが秋の大好きなところだ。私はいつも、秋に蓄えた知識と元気と栄養を少しずつ冬に切り崩していくことにしている。そうして細々と、必要があれば強情に生き延びて、春まで辿り着く。
私が過ごしやすい春や秋の時間に今後の夏や冬についてしっかり思索しておき、好きなことばかりして英気を養い、いざ夏と冬に立ち向かうときは、身ひとつで向き合うのだ。自然や社会は時に過酷だ。問題に直面して小細工をしている間に、あっという間に斃される。強敵とはいつでも全力で、勝負できるようにしておかなければ。

ずっとその繰り返しだ。いつか、この環にそれ以外のものが入ってくることもあるだろうか。
もしそうなったら、それのことも、こうして書いてみたいものだ。
こうして、誰かが大笑いするくらい先のことを考えてみたっていい。なにも確かではないことについて、真剣に考えて遊んでみたっていい。
ほら、秋が味方になっているつもりのわたしを止めるのは至難の業だろう。

秋にはなにをしたっていい。それが許されるつもりで生きるのがいちばん楽しい。

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