最近、同人方面でとても調子がいい。 表に出てないから好きな妄想ができて。好きなものがかけて。他の人から見たら解釈違いやキャラ崩壊と言われてしまうものでも、誰にも見せなければ安心して描けるし妄想できる。この平穏を手離したくない。 今日は、特に大きな変化もなかったけど、ノート書きたくなったから書いている。 見出しもつけずにゆるーく書く。 私は、推しカプの同人が見れない状態にあった。しばらく。数年ずっと。 それは、他人の作品を見たら自分自身の解釈が間違ってると思ってしまうから。私の
考えすぎるな 思考力を下げろ 気を使うな鈍感になれ
なにもかもどうでもいい。もう生きたくない。生きるのめんどくさい。趣味が全部どうでも良くなった。つらい。
不快になる方も多いだろうから、次の一文が受け入れられない人は読まないでください。 私は腐女子でしたが、攻めの夢女子になりました。というかもともと、腐女子ではなかったことに気がつきました。攻め推しだし、攻めのことが最初から世界一大好きでした。でも、それが自分の気持ちだと受け入れるのには時間がかかった。自分の気持ちを受けに代弁させていた時間が長かった。でも、受けのキャラクター性と自分の性格を重ね合わせることに無理を感じ、攻めへの自分自身の恋心もはっきりと自覚し、夢女子だと自覚した
私:推しと推しカプがちょっとと、友達がふたりいて、恋人はいたことがない。 人間関係諦めて最小限で生きる恋人と友達を作ろうと思った。 私は学校でさんざん1人だったくせに、社会人になってその事を忘れて、私も頑張れば、友達や恋人ができるんじゃないかなんて、思い込みというか勘違いというか、虚勢をはっていた。でも、やっぱり出来なかった! 無理してサークルに行って、人間関係を作るどころか、その場に一定時間そこで存在していることすら辛くて仕方ないことを再確認して私は、ああやっぱり無理なん
推しはなりたい姿。 そう思ってる。 夢でも腐でも2次元でも3次元でも。 それだけじゃなく、「共感できる」存在なんだと思う。 そういう人を好きになりやすい。 どういうことかと言うと、例えば私は自分のだらしないところが嫌いだ。 だから、私の推しになる人はたいてい、清潔感があってきちんとしている。私はそういう人が好きだしなりたいから。だけど、それだけじゃなくて、本当は雑な部分があるところが垣間見えたり、大人に振舞っていても何処か幼い部分が合ったり。こんなに理想で完璧で素敵な人でも、
創作をなぜするか? 自分の欲望を紙に書き起こして妄想でなく作品として摂取したいから。 創作をなぜ見せるか? 私の頭の中のいちばん恥ずかしい部分を共感や肯定してもらうことで、私はひとりぼっちでは無いと思うことができるから。 というか、私のこの気持ちの悪い好きと妄想を、他にも好きな人がいるという事実が面白いし興奮するからいいんだ。 ところで、絵が上手いとどのようなメリットがあるのか。絵が上手くなくても、文字さえ描いてあれば、漫画という形で話を伝えることは出来る。表情と体を大きく間
冷めることに罪悪感を感じるのは推しが人間だから?たとえば推してるコスメブランドとかのものをしばらく買えなかったからと言って罪悪感を感じることは無い。私は、ただ推しを好きなだけなのに、推しも私が好きだと心の中のどこかで勘違いしているから、罪悪感なんてものが生まれるんだろうか。
あの子になれない人生なんて。。と思っていたけど、制約があるからこそ、自分なりの目標、自分なりのやり方、が出来てくるのかもしれない
⚠腐女子、夢女子の話題あり 推し活の弊害推し活、オタ活をしていて、弊害だと感じることがある。それは自分の心の動きや行動が、その○○推しという自分の所属に制限されてしまうことだ。自分の中での理想の○○推しの姿、というものが出来てしまい、それに寄せるような考え方、行動、発言をしてしまう。そして、自分の本心が疲弊し、その推し、ジャンル自体嫌いになってしまうのだ。 例1) 𝖢𝖯解釈を1つに定めようとする 𝖢𝖯の解釈。どっちが攻めでどっちが受けかという基本事項から、相手と関わる時
二次創作(いや、自分の解釈が偏りすぎてもはや一次創作)をネットにあげてもあまり共感が得られず落ち込んでしまう私、そして私と同じ人に提案がある。 人は他人に興味無い。 神絵師以外は交流しなければ感想もいいねも貰えない。人に見せれば見せるだけ、人からの共感が得られない孤独を知るだけだ。 評価なんて求めるないって人はネットに載せないと思う。載せてる時点で何らかの反応を期待していること前提だ。 そして、私は自分の偏りすぎた解釈を捨てて王道王手解釈に萌えることも出来ないから、みんなにと
他人に何かを期待して行動するのを辞める。まずはSNSを辞める。noteは反応無くても気にならないけどそれ以外のSNSは心が死ぬから辞める。もう二度と投稿しない。心のために。
生物として生まれた時点で孤独が確定していて、孤独を埋めるために他の生物と関わる。自分と同じ存在はこの世に存在せず、だから、自分を本当に理解することが出来るのは自分だけだ。 寂しい、誰1人私と同じでは無い。 運命的に心が通じ合うなんてない。 人間は孤独なんだ。 共通の話題がなければ、創作物がなければ、言葉がなければ、共感し合うことは出来ないし、それらを共有したとて、解釈や感じ方は完全に一致することは有り得なく、心に近づけば近づくほど、違いを認識する羽目になる。違うことはなぜ怖い
不足物もまた私の財産だということに、私は気がついたのに、いつも忘れてしまう。 例えば私に友達があまりいないのは(1人いる)友達を得る行動の代わりに私が選んできたものがあるからだ。 誰かの話に相槌を打つ時間ではなく、自分の心の中で一人妄想に浸る時間を選んだのは私自身で、そういうのの積み重ねで今の私の状態がある。何か足りないということは、その代わりに何かを得たということ。私にとってはそう。 そして、何かが欲しい、何か足りないと思う気持ちは生きる原動力だ。 生物には必ず欲がある、生
この記事、下書きにあったから公開してみる。 今は、他人と関わらなくていいじゃん、楽に生きようぜ!なスタンスになってるので、そうじゃなかった時の私の心。↓ 私の人生に圧倒的に足りていないことは、他者との関わりだ。 人間関係が不得意だ。 人と話す時間が少なかったから、その分自分と話して生きてきた。だから、自分のことを考えるのはとても得意。だけど、他者と関わらないと自分と話すネタも頭打ちになる。 他者と言っても人じゃなくて本や映画などの創作物、旅行などでもいいんじゃないか、という
4回目の再燃推しカプにさよならした日から1年ほどたって、私はあっさり推しカプに再燃した。さよならした理由については、前の記事に書いたが簡単に言うと自分が受けに自己投影しており本当の意味で推しカプを愛せていなかったことに気が付き絶望したことと界隈に疲れて推しカプ自体にも疲れたことだ。そして、再燃したきっかけは、推しカプがよく行くであろうバーと言うものに初めて訪れて軽いお酒を飲んだこと。そこに居る推しカプを感じて会話やシチュエーションが久しぶりに頭に湧いてきて、漫画を描きたくな