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【メンタルモデル】ここに居てはいけない

作年末、メンタルモデルの紐解きセッションを受ける機会があった。

パートナーと出会って初めて知った言葉の一つ。
彼の世界では当たり前のように使われていて、当時私のいた世界が小さいものだと気づかされた。

私の理解しているメンタルもデルは
「幼少期に自分を護るための言い訳」
だろうか。

その奥には、ほんとうの願いがあった。
でも、その願いが叶わない痛みを隠すために言い訳をつけて今の私がいる。

それを見ていくと言い訳に言い訳を重ねて何層にもなっていて、ほんとうの願いを巧妙に隠しているのですよ。 


彼に誘われて参加したワークショップでまず出会ったのは4つに分類されたメンタルモデル。
「愛がない」
「価値がない」
「欠陥欠損」
「ひとりぼっち」

このページにメンタルモデルの解説とキャラ診断があります。

私は「愛なし」です。
ちなみにパートナーは「ひとりぼっち」。

これを知ってとても楽になりました。
自分にとっては痛みという絶望が、違うメンタルモデルの人と話すと違った解釈があったり、自分が見えていた事だけが「ほんとうではない」とわかったから。

その言い訳をした時にはそれしか見えなかった。
それを「愛がない」の癖の思考で捉えている。
ほんとうでない目線で捉えてるから苦しいんだなって分かったから。

私は「この世界には愛がないから(自分で)生み出して与えていかなくっちゃ」「与えた愛は必ず返ってくる」みたいな感じ。
生み出し、与えなければ愛はないって思って、強迫観念みたいな意識で行動してたりする。
そうしなければ愛を与えてもらえない。
そこで、どんなに頑張っても相手の愛が見えていない(自分の愛しかみえていない)、私が欲しい愛がないと言う絶望的(不本意)な現実が待ってる。
私はその悪循環の中にいた。
与えても与えても欲しい愛で満たされることはなかった。

愛は人それぞれの捉え方があるだろうけれど、たぶん、
「愛はいつでもどこにでもある。」なんだろうと思います。

それなのに「愛がない」「だから愛されない」という言い訳を根底に持っているから、結果「やっぱり愛がないじゃん」の現実しか起こらない。
自分が欲しくない結論に行き着いてしまう。
そこにエネルギーを使っている。
だからがっかりと疲弊がいつも待っている。

この世界は愛で溢れているのに無いなんて。
頭にあるメガネを探しているようなものです(笑)

今回受けたセッションは、この4つのメンタルモデルを特定するものではなく、不本意な現実(何度も起こる嫌な出来事)から、そこに隠れているメンタルモデルを見つけるセッション。

心の奥に痛みがあり、自分を護るための防衛反応があって、それを「不本意な現実」として出現させ、しかも何度も繰り返される。
逆に言えば、何度も繰り返し現れる「不本意な現実」は、自分の防衛反応があって、その反応は自分の中の痛みから来ている。

痛みってピンとこない人もいるだろと思う。
私も中々それをつかむことが出来なかったから。

痛みよりも「傷」の方が分かりやすいかな。

その傷は大人になってからの傷ではなく、幼い時についた(つけた)傷。
そして、その痛み。
個人差はあるし、その経験は人それぞれだけど、その傷の痛みから逃れる(隠す)ためになんらかの方法をとっているというわけです。
そしてその痛みを隠すために何層もの言い訳(私はラベルとか絆創膏、付箋とか言ったりします。)を重ねている。

それは、ほんとうに根深い。

だから一人ではなかなかたどり着かない。残念ながら。

そして私に必要なタイミングで、受けたセッション。

このセッションはこんな感じでした。
メンタルモデルの紐解き(byわこさん)

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こんなふうに見て見てください。
①まずは上から下に読んでください。
    克服/逃避   不本意な現実が起こったときに私がとっている行動や感情
    信念   その行動にある感情を『だって私は○◯だから』という問いに答えています。
   MM   私の持っているメンタルモデル(痛みを覆い隠す信念)

②次に下から上に読んでください。

私は友人にドタキャンされることが多くて、それが何度も続くという現実があります。
まぁそのドタキャンの理由も嘘をつかれたのを知って、さらに落ち込むのです。友人は距離を取ったり、パートナーにも些細なことに反応してイライラしたりして、「どうしてやるって言ったこと(約束)をやらないの!」と攻撃的になって相手を責めたりしました。

パートナーに関しては「約束」とは思っていないのです。
私とパートナーの約束の定義が違うことを知ったのですが。。。

でも、その時の私の思考は悲しみで一杯になります。

それが信念の部分ですね。
大切にされない存在だって思うことで、この悲しみを無かったことにするのです。
「そんな私が悪い」
幼い時からそんな風に思っていました。

もう少し深いところを話すと、
「必要とされていない」
「居てはいけない」
それを他者に言われることが怖い。
実際に言われたわけではない。
けれど、約束が守られないと過剰反応して、疎外感みたいなのを感じてしまう自分がいます。そう考える癖がついているんですね。

それでね、
「私は必要とされていない」
「私は居てはいけない」
にある、私のほんとうの願いは
「必要かどうかではなく、この存在で愛されたい」
「私が居たいところに居たい」
なんだと思います。でもなかなかこれが難しい。

そこには、また別な傷の痛みで、とても深いところまで根を張ってる。
居たいけれどイジメられた痛み
居たくないけれど居なきゃいけなかった苦しさ
居たいけれど居させてもらえなかった寂しさ
居たいけど守ってもらえない悲しみ
理由をつけないと居心地の悪い感じ
そんな根深い痛みを、二度と感じたくないから沢山の言い訳を重ねてきた。

2020年末にやってもらったセッションだけど、最近またここにたどり着く不本意な現実が現れてる。
「上手くに説明できないと居てはいけない」
「伝わらないと居てはいけない」
これ、本当にしっくり来ている。
でも、今までと違うのは、それが冷静に見えているということ。
上手く説明できない自分を責めなくなったし、伝わらなくてもいじけることもなく、何度もトライするようになった。

なんでそんな風に考える癖がついたかって、自分を護ってきたんだよね。
ただ、この防衛は幼いときに「この方法を選んだ」に過ぎなくて、その時には必要だったんだと思う。

でも、「今も必要だろうか」と見直す必要はある気がしていて、不本意な現実はそれを教えてくれてるんだと思う。
不本意な現実自体もそうだけど、その根っこにあるメンタルモデルに行き着くまでは、見えないものに怯えて、見えないのなのに痛くて苦しい。
でも、不本意な現実は「頑張ったんだね」「もう手放していいんだよ」っていう自分からのメッセージだと思うんだ。

直ぐに手放す必要はなく、ただそれを受けとればいいのだと思う。

メンタルモデルは誰かのせいにしたくなるけれど
「だれも、なにも、わるくない。」
とパートナーが教えてくれたことがある。

深掘りしていった時に、心の中で親を攻めるしかなくて、でも、なにか違うような気がして、辛い麻婆豆腐を、泣きながら食べてた時にメッセンジャーで言われたのを覚えてる。
そして、その言葉に感動してまた泣いた(笑)

私を育てていた親の年齢と同じになった今、
親(大人)も完璧じゃないって思うのです。

誰かを責めても何も解決はしないんだよね。
「その時、自分がどうして欲しかったのか」
「その時、自分はどうしたかったのか」
そう思えたら過去を変えられる気がする。
事実は変えられないけれど、見ないことにした願いに繋がることができれば、今の自分が自由になれる気がする。

私の場合の願いは
『ありのままの自分を受け止めて欲しい』
『私の話を聞いて欲しい』
その願いを叶えてあげられなかったから、それが痛くて痛くて、その痛みから逃れるために何かをしてきて、今の私がいるのだな。

それを否定したり、卑屈になったりする必要はない。
「私はあるべくしてここにいる」
みたいな感覚でいる。
どれか1つでも否定したりすると、私は私でなくなる。

でも、ほんとうの私は、その私ではなく、もっと深いところに願いをもった私がほんとうの私で、そこと繋がれるようになるとありのままの私になるような気がしている。
まだこれは探索中でわけわかんなくなってきた(笑)

私は、このメンタルモデルを知ったことで沢山の痛みと向き合ってきた。
沢山の防衛反応もあったし、まだまだある。
でもこのストーリーが見えると、他人に過剰反応して攻撃的にならなくてすむし、ほんとうの自分と繋がれる感じは安心感に繋がる。
自分との対話は、自分を大切にしている気がする。
他人に、ここ居てもいいよと言われなくても、
自分がいたい場所に居られる。
これって自分を大切にするってことだよなぁと思うのです。
そして、愛する人も大切にできる。
わたしはそこに幸せを感じるのです。

みんなが同じストーリーではないけれど、みんなが自分らしくいられるヒントになればいいなと思います。

居ちゃいけない人なんて一人もいないんですよ。
みんな必要な存在なんですよ。
みんな愛しいのですよ。

メンタルモデルが見れてても見れてなくても。

最後まで読んでいただきありがとうございます。


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