「ソーシャルワークのまなびかたー原因と結果のあいだの話―(仮)」2
事例のプロセスを通じて、改めてソーシャルワークを考え、まなぶとはどのようなことを言うのでしょうか?先の例をもとに、考えてみたいと思います。今回、考えてみたいのは、困っているのは誰なのか?ということ。
再掲になりますが、もう一度相談内容を振り返ります。相談の内容は、父、母、10歳になる息子の家庭。父は会社員で、母は専業主婦。息子は忘れ物が多く、担任が言っても直らず。担任が何度も言うと、息子は癇癪を起してしまう。息子の発達障害を疑い、家にいる母に連絡を入れるが、繋がらず。父に連絡を入れると、「母親と息子に言っておきます」との返事はあるものの、状況は変わらず。学校から子育て支援課に協力要請があり、日中の時間帯に自宅へ訪問すると、母は起きたばかりと思われる状態。案内され、家に入ると、缶ビールの空き缶が数本、置かれ、母に「お酒、飲まれるのですか?」と聞くと、「眠れない時があるので、その時に」との返事。室内は物が散乱としており、掃除ができていない状態。学校がその日の夜に父に連絡を入れると、母がお酒をよく飲むこと、そのため掃除などの家事ができず、父もそのことに困っていたこと、父が母に話をしても、母は行動を改めないとの話あり。子育て支援課は問題の原因は、母のアルコール依存症にあり、その解決を私に求めてきました。
皆さんだったら、どうしますか?私は上記のような相談が入ると、話された内容のうち事実だけを抜き出します。事実としては、①児童は忘れ物が多い、②担任が言っても、直らない、③何度も言うと、癇癪を起こすことがあった、④父に連絡を入れるが、状況は変わらず、⑤訪問すると、缶ビールが数本、置かれていた、⑥室内は散乱としていた、⑦父より、母がお酒をよく飲み、掃除などの家事ができず、父も困っているが、母に話をしても、行動を改めないとの話があったことが挙げられます。
児童に関連する①から③について、発達障害というワードを入れて繋げて読むと、問題があるように読めてしまうかもしれません。でも、一つ一つを読むと、これらは問題なのか?と私は思います。忘れ物が多いことは問題なのか?言っても直らないのは、児童に発達障害があるからなのか?担任のことを児童が嫌いだから、担任の言っている内容が児童に伝わっていないだけなど、他の理由はないのか?何度も言われたら、嫌にならないのだろうか?ましてや、人として成熟していない児童が何度も言われ、嫌になるのは普通なのではないだろうか?
④にしても、言われてすぐに改善することはないようにも感じ、⑤空き缶があっても、室内が汚れていても、それを問題だと判断する基準は人によって違っており、アルコール依存症というワードを入れて、繋げるから問題として読めてしまうと思います。
発達障害にしても、アルコール依存症にしても、それを裏付ける根拠として乏しく、この話だけで、判断することはできないと私は思います。
私がそのことを伝えると、⑦を挙げ、「父が困っている」との話になります。⑦についても、母のアルコール依存症に父も困っているという文脈での話になっていますが、母がお酒をよく飲むことに困っているのか、掃除などの家事をしないことに困っているのかは分かりません。お酒を飲むことと家事をしないことを結び付けて問題だと話しているのであり、父はお酒を飲んでも、家事をやってくれれば良いと考えているかもしれません。それはこの話からは分かりません。
そのことを伝えると、「私たちの相談は受けてくれないのですか?」との話になります。勿論、相談は受けます。ただ、よく考えなければならないのは、支援とは何を指すのか?ということ。支援とは、困っている人が困っている状況に対して、必要な手助けをすること。
そう話すと、本人が困っていなければ、家族や関係機関が困っていても何もしないのか?と、そんな意見が出てきそうですが、本人が困っていなければ、本人の状況に困っている家族、関係機関が本人の何に困っているのかをはっきりさせ、それを本人に伝えていく、その上で本人を支援のレールに乗せる作業を手助けしていくことだと私は考えます。周りから見て、困った人から困っている人にしていく。それが支援であり、本人以外の誰かが考えた方向に無理やり本人を誘導していくことではないと思います。
大事なことは、自分たちが考えた方針に本人、家族を無理やり乗せるためにどうすれば良いかを考えるのではなく、自分たちがどうしたら良いか分からないことを認め、どうすれば良いのかを一緒に考えてほしいという相談をする、自分たちが困っている人となり、相談することだと考えます。
そして、それを伝えても、自分たちの考えを話す場合は、自分たちの考えの根拠として挙げる、父が困っているとの話から、困っている父から私は相談を受け、話を伺いたいと話すことにしています。
私たちは見たいものを見て、聞きたいことを聞き、話したいことを話します。また、自分たちの感覚は普通であり、自分たちの感じることは他の人も同じように感じるはずだと考えます。自分たちの問題を自覚しておらず、自分たちが正しいと考えてしまう。それを支援という言葉を使い、正当化してしまう傾向があります。そのため、支援に入る前に、自分たちの見方の偏りを把握することが大事になります。私たちは自分たちのことを一番分かっているようで、一番分からない。私はそう思います。
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