見出し画像

自己紹介「ひきこもりでいいみたい」


 「ひきこもりでいいみたい」、そんなタイトルの文章を書いたのは3年前。ソーシャルワーカーとして経験を重ね、それなりに仕事が出来ていると思い込んでいた私が、人事異動先で出会ったのが「ひきこもり」に悩む本人とその本人を様々な理由で心配する家族だった。

 出会いから7年、私にとっては上手くいかない日々の連続。本人を心配し、相談の場に家族が訪ねてきても、アドバイスができない私。事前に本などで知識を得て、それなりにアドバイスをしたと思っても、状況は変わらず。運よく、本人に会え、話ができても、話は続かず。私がこんな方向に進めばと説得しても、本人は動かず。時間ばかりが流れ、支援に勝敗をつけることは適切ではないかもしれない。でも、私は敗北続きだった。

 無力さを抱えながらも、相談に訪れる家族、本人から逃げることはできず、その場に居続けることしかできない私。初めは負けたことを認められない自分がいた。どこかで挽回できるのではないか、次に本人、家族に会う時は今の状況が変わっているのでは?などと現実逃避をしていた。それも長くは続かず、辛く、自分の存在価値を自問自答する日々。悩みに悩み、それでも本人や家族が来てくれる相談の場に居続けると決めた時、私に起きた感情は、私にとっては辛い今の状況を受け入れようとの気持ちだった。

 私は相談に訪れる本人、家族のためと表では言いながら、ソーシャルワーカーであるという自分自身の体面を気にしていた。ソーシャルワーカーである私自身を自己認識するために、相談を受けていた。そう考えると、私は私のために相談の場を利用していた。私のために相談を受け、上手くいかない理由を本人、家族に求めていた。そう思った。

 そう思うと、私は相談に来てくれている家族や本人の今の状況を受け止めていないことに気づくようになった。話を聞く。それだけで状況を理解したつもりになり、本人、家族に今の状況ではダメであることを伝えていた。

 私がそう伝えていたのと同じように、本人、家族も今の状況ではダメだと思っている、思っていたのではないか、そう思うようになった。今の生活の話をしているのに、今を認めず、ダメだと思っている過去の話をし続ける。そこから、今の状況からは実現が難しいと考えられる将来の話をし続ける。真ん中が何もない。そう思った。

 休みの日、近所の公園に出かけた。赤ちゃんを抱っこした母親、芝生でサッカーをする子どもたち、ジョギングしている高齢の夫婦。それぞれがそれぞれの過ごし方をしていた。公園に誰も座っていないベンチをみつけた。ベンチを何気にボッーと見つめた。そこに「ひきこもり」に悩む本人と支援者が横に二人で座る後ろ姿を想像した。

 私は本人や家族の前に居た。本人や家族が困らないように、先頭に立ち、先を示す。それが支援者。そうどこかで思っていた。その後、当事者という言葉と共に、問題は当事者が担う必要があると考え、本人、家族から一歩後ろに引いて、本人、家族がどう行動するのかを後ろから見ていた。でも、見ているだけで、傍観者だった。私は横にいる必要がある。そう思った。

 「ひきこもり」、社会ではダメなことだと認識されている。それは相談に来てくれる本人、家族も、そして私も。でも、ダメだとの認識からスタートしても、話は進まない。では、ひきこもりで良いと言えるのか?私自身に問いてみると、良いとは言えなかった。良いと言った後の本人、家族の生活はどうしたら良いのか?私には答えがなかった。

 良い、悪いの二者択一の議論からは何も生まれない。まずは現状を受け入れ、これからの生活を考えていく、そんな気持ちを表したい。そんなことを、公園内を歩きながら、考えている時にふと浮かんだのが、「ひきこもりでいいみたい」だった。

 「ひきこもりでいいみたい」と、本人、家族、私が受け入れるところからスタートしたい、そんな思いから。そして、敗北続きの私でもいいみたいと私が本人、家族から受け入れてもらいたいとの思いから。「ひきこもりでいいみたい」、あれから3年、今も私のスタート地点。noteでは、私がひきこもり支援の現場で出会った出来事、またソーシャルワーカーとして感じる様々なことを綴っていきたいと思います。宜しくお願いします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?