人の言語化手伝ってたら、認識してなかった自分のことが言語化された
特段変わりはないのだけど、
5月から毎日書いてた日記が途絶えていました。
その間に緊急事態宣言がもう一度出て、お店はどこも20時に閉まってしまう。
うっかり話し込んで会社で22時までいるような生活をしてる人間は、23時にコンビニ弁当を食べながら思い出す…「深夜のコンビニ弁当が懐かしいって日記に書いたこともあったなぁ」
体壊して、復調して、しばしば経ちまして
自分のこと自分でやる、という当たり前のことが出来るようになったので、前ほど体は崩れない。
食べ物って偉大である。
と、言っても、デリバリーもコンビニ弁当も食べるけど。お味噌汁は常に手作りにするとか、コンビニ弁当でも品目が多いものや体に合った食材がとれるように選ぶとか、小さな心がけを続けてる。
たったそれだけのこと。その“選択肢”さえも、弱ってるときは出てこないのだ。
コンビニの棚の前で、選べなくて立ち尽くして、結局なにも買えなくて、家に帰って(しかも一旦倒れ込む)冷凍うどんと卵をチンして食べるだけ、という食事を選択してしまう。
それでも、ちゃんと卵も入っていて偉い!
あったかいもの食べてて偉い!
そう思おう。
決断出来なくなったら、考え過ぎずにやってみる
今、新しい事業つくりを手伝っているのだけど、これが中々に手強くあるのだ。
私の言葉ではきっと伝わらなくて、代表が一生懸命“言語化”したり、“ビジュアライズ”したりしているが、心は無垢な子供のようでいて情報収集のスピードは速く、目を離した隙に簡単に迷ってしまう。
でも、絶対に最終的には自分でビビっとくるワードに落とすことろまで、きてほしい。
迷うこと自体は悪いと思わない。
あなたのやりたいことが形になればいいと思うから、壁になったり手になったりするけれど、やっぱり心はね、代わってあげられない。
心が迷っているうちは、なかなか脳ミソは決断出来ないのだろうと、経験上分かる。
じゃ、決断出来ない時にはどうするか?
それはやっぱり、やってみるんだと思うんだよね。
経営者って孤独だよね。一人でたくさんの決断をしないといけないんだよね。
決断出来ない時って、情報が足りないか、情報が多すぎるか、やりたくないか、どれかだと思う。
やりたくない問題はさておき、、。
あたらしいこと、予測できないこと、一言で言い表しにくいこと
それを誰かに伝えないといけないとき、やり方は一つじゃない。
だから、やってみて、ちょっとあててみて、小出しにしてみて
相手方の反応をよく観察して、
徐々にパターン化していこう…という段階にきたら、情報収集も情報整理も出来始めてる。
「これあってる?」「考えすぎてわからなくなった」
とかゆうてるなら、小さく試していこう!
書こう!話そう!やってみよう!
自粛生活がなんともやりにくいのが、そのちょっとした試しの場が狭くなっちゃうこと。
創業期は、色んな角度、流動で、人と話したほうが良いと思っている。
飲み会でも、ランチでも、
「そういう反応もあるのか」「そういう発想とつながるのか」「この人はAよりもBの語り口なら聞いてくれそうだ」
とかとか、やったほうが良いのになぁ、、。
完璧なんて無理なこと。
だって正解がないものつくってるんだもの。
卵一緒に食べるようになっただけでも偉いし、
あったかいもの食べるようになっただけでも偉い!!
あと人に話すと逆説的に、
反対されてもやりたいと思うのかどうか、
どういう人と一緒にやるか(やらないか)
自分の意志をはかることもできる。
画一化される社会の中でゼッタイに模倣されないもの
事業創出や採用を手伝っていると色んな人と深い話をする。
知り合ったばかりだけど身の上話を聞かせてもらったり、人生に対する問を聞かせてもらったり、90歳でどんな生き方をしたいか、とか、、、
それはつまり「原体験」につながる。
私にも、障害者の生活安定やファンドレイジングと領域を重ねる会社で学生インターンを始めた頃、私の原体験を根掘り葉掘り聞き出してくれ、私がその業界に身を置くことを応援してくれた方がいた。
(今や原体験ワークを通して個人にとどまらず、企業ブランディングでもご活躍である。)
直感的に楽しく、分かりやすく、拡散されやすいものをつくる“ノウハウ”は集積されている。
テクノロジーが進化して使うツールが変わっても、そのノウハウは一つの“学問”として活きるレベルまであると思う。
それでいいのか?
自分で事業を起こす人の中には、「自分が求めるものは市場にない!つくる!」と、思っている人が一定数いるよね。
私の周りは、そういうタイプが多いけど、そうじゃないパターンも知ってはいる。(笑)
でも良いサービスは、目をつけられてサッと模倣されてしまう、こともある。
ベンチャーが先駆けて、そのあとから大手が参入して均衡が崩れる様子はちょっとやるせない。
しぶとく残るパターンもある。
その違いはなんだろう?
ノウハウも、テクノロジーも模倣できる。
模倣出来ないのは、唯一無二の原体験。
創業者の想い。
それが組織の細部、サービスの細部まで、PRの細部まで、行き渡っていたらとっても強い。
べつに直接的に語れば良いという訳ではなくて。隠し味のようにさり気なく、それでいて効かせる事ができたら。
サービスに効かせるってなんや
例えばの作り話。
母子家庭で育った女性は、子供の頃に一人でご飯を食べることが多かった。急に母親が仕事の時には食事の支度もままならず、お金だけ渡されて自分でコンビニ弁当を買って食べることもあった。
母親は忙しく、また疲れている様子だったので一緒に遊んでもらうことも我慢した。学年があがると勉強に徐々についていけなくなり、一人で宿題を終えられないことも増えたけれど母親には「勉強をみてほしい」とは言えないでいた。
なんてことがあったとして、
その女性は紆余曲折して地域で子供食堂をはじめよう!と思い始めました。
振り返ると、やはり子供の頃の原体験がそれを決心させたようです。
さて、原体験をサービスの隅々にも…となると、どんなサービスの工夫があるのか?
『母子家庭のお子さんにあたたかい食事を』
なんて正々堂々とコピーにして良いものか?
→恥ずかしさから逆に遠慮されるかもしれない
→父子家庭は?
◎例えば、
子供一人でも、親子ででも食事ができる空間にするのはどうだろう?
親子間の分け隔てなく、みんなで楽しめるようにする
→孤食の寂しさがなくなる
→忙しいお母さんも支度の手間が省けて一緒に食べられる
→親同士のつながりが出来て助け合える
食事の支度中も出入りOK!にしよう
→宿題をやる場としてつかえる
→一人で留守番する時間を減らせる(防犯)
→お手伝いを覚える
てゆう妄想。妄想ですが、子供食堂ってこういうことだよね?
ここからたぶん深堀をさらにすると、
本当に解決したいのは「孤食?」「学習?」「つながり?」「防犯?」とかテーマがでてきて、
そのテーマの核みたいなのを、そのサービスで追うのか、他の方法を探すのか、みたいなことになるよね。
学童との違い、塾との違い、とかを分析するきっかけにも。
やってみて分かることも多いし、実際甘いもんじゃないけど、涙
実際のサービスに落とすときにはどうするか?
を考えることで、また原体験が強化されて、そしてまたサービスへ、、、。
もしかしたら、その原体験の表現はサービスじゃないかもしれないけども。
そしたら、どの程度注力するのか、どんな規模でやっていくのかを今度は見定める、ことになるのかなぁ。
思想をサービスにおとすことがしたかった
思いだけでも、力だけでもだめなんですよね。
非営利組織に近いところ(非営利組織を助ける株式会社)から社会人生活をはじめて、NPOに関わったり、株式会社に関わったり、個人でお仕事をしていたりもする。
一人200円の寄付をどう集めるかの話をしたり、1食800円の定食を売ったり、時給1000円の雑用をしたり、1回8000円の講座の売り方を考えたり、3ヶ月数万円の開発を何人ではじめるかの話をしている。
あれ、こんなに色んなお金の流れを考えてるのに何でお金たまらないんだろ。あーあー。
非営利組織は思いがあってこその業界だ。
低賃金にはなりやすい。
けれどだからといって動かしてるお金は何億にもなる団体も多い。
NPOは儲からないなんてのは視野が狭い。
なんせ思いがあるのだ。それを達成させるお金は是が非でも集めようという意思がある。強い。
みんなが目指したいと思える社会像を見せていくこともできる。
でも、オペレーションが悪かったりする。
業務が非効率なので、結果低賃金化してしまったりする。
あと日本だと、ファンドレイジングの過程に正しい分析を出来てないので、結局社会にきちんと根付く形に出来てない場合もあるようだ。
これについては、ちょっと個人的に興味がある&今の仕事につながるから調べたい。
ビジネスの世界には、サービスをつくって世の中に浸透させるノウハウやメソッドがある。
調査分析をして、施策をうって、改善して
より磨きをかけて、いかに買われるか、社会に浸透するのか日々繰り返される。
賢い人はいかに利益率をあげるか、効率化するか、数字だけで経営することも、できるのかもしれない。
そういうビジネスに、思想はあるだろうか。
消費者が心から共感し、その思いがお金に変わるようなサービスなのだろうか。
「思想」「筋道」「方法」3つがそろってはじめて社会に生かされるサービスになる。(※一部改変)
そう言ったのです。代表は、思えば常にそう言ってたのです。
で、「うんうん、そうですね」なんて返していた。
・・・いや、それだわ!私がやらなきゃいけないなぁと思ってたことがつまりそれだわ!!
って、打ち合わせ中に勝手に一人で脳内でビリビリってなった。(笑)
人の原点探してたらまさかの自分が原点回帰した。
非営利組織を支援してる株式会社って、だからそういうことなんですよね。
それを中間支援というのですが、中間支援という言葉をはじめて聞いた時におー!って言ったの忘れてたわ。もう10年以上前か。
(そういえば雇用環境整備士の勉強してて「中間支援」でてきたな…神様になんか仕組まれてるな…)
そういうことってどういうこと?ってなりますかね。
とある社会課題に対して取り組む非営利組織がいて
でもなかなか成果を出せない状態の時に、その組織内の課題解決に貢献することで、間接的に社会課題の解決にお役に立ってる。
というのが中間支援。(一例)
たとえば人材の確保とか、業務改善とか、外注仲介とか、色々あるよね。
今ってどんな感じなんだろうか?
そんで曰く、
「思想」と「方法」だけが強くて「筋道」が作れない人も結構多いぞ、と。
なるほど、なるほどでございます!!
これが日本でいう分析出来てないNPOが多い問題にも繋がりそうだなぁと。
「貧困の子供たちを助けたい!」→「寄付だ!」「クラウドファンディングだ!」
「人が集まることがしたい!」→「フェスだ!」
みたいな、慣例的になってしまっていたら勿体無い。
現状の会員の情報とか、これまでのPR結果の分析ができていたら、その次の施策の方法がもっと変わるかもしれない。
(よくよく検討された上でやられてる団体様ごめんなさい。まだまだ自分の中での仮説なのです!)
しかもこれが、ビジネス現場においてもそうだろうとおっしゃられる。
ほんまか。。。確かにそうかもしれない。
あなたマーケ出身だよね?
リサーチできるよね?
というような人でも、実際自分のビジネスとなるとすっ飛ばしてきたりするから人間は不思議だ。
あとは、正しい分析になっているかどうかは別の話ってことらしい。
その次元になると私はまだ判断が出来ない…。
踏まえまして
そんな感じで日々モヤモヤを投げ合いながらサービス作りをしているのですが、
頑張れ頑張れ!書き出そう!
とか言ってて、伴走してるつもりだけど、
いややめるか!っていう気づきも。
というのは、中心になる人が決まってる時には私は自分の考えを出していくの辞めておこうって、思っていたのですね。
だから、出てくるの待ってた。
でも、そんなの伴走じゃないや。
見せるかどうか、使うかどうかは別にして、私も書こう!
1回失敗したからって、まるっきり辞める必要ないや。
少し変えてやってみたら上手くいくかもしれない。
あとは私のやる気の問題。
朝です、おやすみなさい。。。
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