”前提”はみな違う
そんなこんなで個人的に濃い夏を過ごした私。そのシメ?!となるようなWSに参加した。
そのWSは「誤読勉強会ー自分の読み方のクセ、見つけよう」というもの。
帰国してから、同じ日本語を使いコミュニケートしているのに、どうも噛み合わないと感じることが時折あって、
こ、これは!と参加を表明したのであった。
参加してみて、改めて、全ての人は それぞれの前提のもとに全てを理解し、判断しているのだなぁと再認識。
当たり前のことだけど、あまりに当たり前すぎて意識しないと普段の生活の中ではなかなか気づけない。
そして前提は人それぞれなのに、気づかぬゆえに自他の境界のバグりがそこここで起こっているのでは?という話に、なるほどそういうことだったのかと唸った。
バグっているという自覚がない限り、おのれの前提からの不毛なジャッジは止まらない。
挙げ句の果てにその不快感を払拭するために、
「あの人はああいう人だから」 と分離する。(これって案外家族とか近しい関係でも勃発しまくって、諦め案件になっていたりするのではないだろーか?)
自分の価値観は自分だけの大切なもの。そして相手にも自分と同じ、その人だけの大切な価値観がある。
だから(私はこう感じるけど、あの人はどんな風に感じているのだろう?)と互いにわかり合おうとしなければ、始まらない。
そして何よりの学び?気づき?は、
そもそもそういう(わかろうとする)意図を明確に自覚して生きることさえしていなかったということ。
帰国し、自分が一緒にいて心地良いと感じる場所で、そこで繋がる人たちとだけ過ごしてきたから、
あまりそのことについて感じるようなことも起こらなかったのだなぁと思い至った。
居心地の良い場所は大切だけど、居心地が良すぎると、それ以外への感度が鈍る。
私は特性として、人との境界が危うくなりがちなので(月・魚)、それはちょっと怖かったりもするんだけど、
互いに気持ち良い、いやそこまでは贅沢でも、せめて無理なくわかり合おうと話をすることを諦めたくない。
だから自分の発する言葉、相手の発する言葉を、丁寧に、その時、私の、そしてあの人の前提はどこにあるのか、を考えながら、確認しながら、コツコツその体力をつけていこう!と思うのだった。