『品の正体』 第五講 品の原理
第五講 『品』の原理
前回、PDCAサイクルのお話をしましたが、そこで、自己研鑽モデルと集団の振る舞いは異なるという問題に触れました。
確かに、これはPDCAというスキルにとって大きな問題となるのですが、その他にもいくつか根本的に見ておくべきことがあるのです。
それは、そもそも『改善』しようという『意欲』や『意志』の問題にも関連するのですが、特にPDCAサイクルのAct(評価)の『改善』に結びつける(こころ)がどのように生じるのか、ということです。
この『美意識』と申しますか、それらをもたらす『善』や『良心』の(こころ)が生じる仕組みを知ることで、『改善』の意味を深く理解できるからです。
ですから、今回はもう一度『善』や『良心』が『品』の水準を規定していく根本的な原理を『品の原理』として見ていくことに致します。
『善』に至るためには、『結果』ではなく、その『過程』を見る必要があることはお話しました。それによって、『善』や『良心』という(こころ)のディテールを観ずることができるのです。
そのヒントとして、以前お話したように、否定形で語られる、あるいは否定形が結果的に『善』を為す、その根本原理をひも解いてみていくことにしましょう。
そのような『不善』『不正』の根本原理を、内なる目を通してみていくためには、どのような仕組みがあり、実際どのように関わっていくべきなのでしょうか。
『善』と『良心』のお話は、シリーズ『悪の根本原理』のところで少しお話していますが、ここで、 『品』にまつわる関係として、もう一度理解を深めておくことにいたしましょう。
『善』や『良心』、あるいは、その他の道徳的な言葉、たとえば『尊厳』や『敬意』あるいは『愛』や『慈悲』などの精神を表現する言葉について、少し考えて参ります。
Ⅰ.『善と良心』の関係
『善』と『良』はとちらも『善(よ)きこと』『良(よ)きこと』として社会的にも称賛され、受け入れられる言動や行動の結果、もたらされる言葉です。
この二つの言葉は、実際にどのような違いがあるのでしょうか。
それを知るためには、否定形にしてみるとよくわかります。
例えば、はじめにご説明した『善』は『不善』として、『良』は『不良』としてみるのです。
『品』を定義するときに、私たちは『不善品』とは言いません。『不良品』という言葉を使います。
すなわち『良』とは、結果的にモノに関与していく場合に使われる傾向があり、心情の変化によって結果的にモノゴトが変化することを指すのです。
それに対し『善』は、心そのものの心情や心模様を示すことが多く、『良心』や、『良識』とは、『善』の(こころ)から結果的に生み出されている心の様相を指す言葉なのです。
ですから『善意』とは言いますが、『良意』とは言いません。これは、『善』が心の意識や意志と関連し、『善』が『コト』を起こす基となっていることを示しています。
『良心』や『良識』とは『善』の(こころ)に依って生じる事柄を映し出す、『モノゴト』の結果を表す言葉と考えられるのです。
『の』という助詞を加えて『良』と『善』の(こころ)との関連を見てみましょう。『善の心』というのは馴染みますが、『良の心』という使い方はあまり聞きません。
『善性』や『良性』というような言葉を比較してみると、より(こころ)に馴染むのはどちらなのかもお分かりになると思います。
『善性』というのは(こころ)から派生し、『良性』というのはとくにその気質や物質など、結果的な特性を表現しています。
『良心』や『善』の関係は堂々巡りのようですが、このように詳細な『善』と『良』の違いを見てみることで、(こころ)との関係性が明確になってくるのです。
では次の命題に参りましょう。
『善』の心とは何によって培われているのでしょうか。
この関係を維持するのは、人間性を支えているともいえる、『自覚』というものです。
特に、自分にある感覚が生じることにより、『善』の心、もう少しかっこよく言えば、『心根』が生じることになります。
では、そのある感覚とは、いったい何でしょうか。
Ⅱ. 『自覚』とは何か
とくに『善』を規定するものとして、『自覚』があります。
前のお話にでてきたように、否定の言葉、『不善』や『不正』という行いに対し『気持ち悪い』という感覚が生じるか、という(こころ)の様相が、『善』を規定しているといえます。
これは、世に「良心というものがあるならば、それは人間の本性に公平に存在するものである」と、かのデカルトの著作『方法序説』にも記されているように、善そのものの性格上、あるいは善の特性からしても、この思索は当然であるといえます。
心根の中に、常にそういった『良心』が存在するとしています。
それは性善説や性悪説のどちらに傾くこともなく、いつも集団における公平性というものが、善良な考え方を導くものとして存在する基盤となっていることを示しているのです。
私たちの生活の中で、とくにこの感覚を強く持つときがあります。それは、公平だと感じる瞬間よりも、自分が不公平だと感じることの方が多いのではないでしょうか。
しかし、このように自分が不公平と感じる心だけでは、『善』の(こころ)を生じさせることにはなりません。
本来の『善』の『自覚』とは、自らの心情が自分自身に対して極めて詳細に「公平性」をチェックしていくようなある種の厳しさが必要で、それが『善性』を見据える『自覚』として相応しいのです。
他人が辛いときに、自分の事として捉えることができるのか、自分が得をしたと思う時、それが公平性にどのように値しているのか、そのようなことを自らの心情によって詳述できるか、という自分を観察する意識が『善』なる『自覚』へと導くのです。
Ⅲ.徳性という意識
つまりそこには『徳性』という意識の芽生えが必要です。
これは『得』ではなく、『徳』の方です。英語ではValuではなく、Virtueです。
徳分として考えられることが、『善性』を『自覚』させるために必要な項目として、仏教ではダンマ、あるいはダルマとして掲げられています。
それをもう一度、ここでお示ししておきましょう。
1. この上ない寛容さ
Supreme forgiveness
2. この上ない謙虚さ
Supreme humility
3. この上ない率直さ
Supreme straightforwardness
4. この上ない正直さ
Supreme truthfulness
5. この上ない純潔さ
Supreme purity
6. この上ない自制
Supreme self-restraint
7. この上ない苦行
Supreme penance
8. この上ない放棄
Supreme renunciation
9. この上ない無欲
Supreme non-possessiveness
10. この上ない独居
Supreme celibacy
以上になります。これらについてこれから、『善性』との結びつきについて検証していくことに致しましょう。『品』の問題とどのような関わりがあるのか、次回、第六講、『品の徳性』について解説して参ります。
※このマガジン『品の正体』に連載されている他の記事はこちらから
本日も最後までお読みいただき
誠にありがとうございました。