『愛の美学』 Season3 エピソード 7 「愛の知力」(2917文字)
「性知学」と「哲学」
先の標題に示した通り、このシリーズで提唱している『性知学』という新たな学問領域は、『愛』とは『知』であることを謳っている。
まさに、『愛』と『知』で「哲学」 、英語で「哲学」フィロソフィーとは『知を愛する』ことである。
つまるところ、『性知学』は哲学領域であり、『愛』も『美学』も『性知学』の一領域である。
しかし、どうも「哲学」というと、堅苦しくなってしまう。その元の意味は「知を愛する」こと、そして、「賢くなることを希求する」ことなのだから、向上心や知への飽くなき興味、関心、憧れがある限り、そこには既に「哲学」があるはずなのだ。
『愛』と『知』は、『愛の美学』の骨格であり、屋台骨である。とかく「愛」は感情的あるいは情動的に捉えられがちだが、それは「愛情」や「性愛」という感覚的、情緒的な面に影響を受けているからだろう。
それらの影響の発端は、西洋キリスト教からきていることは否めない。
以前、『愛の美学』 Season2 エピソード 2 「愛の領域」愛の源泉はいずこに、で「愛」と「知」のことについて触れた。
キリスト教が、愛の宗教としてイメージを確立し、布教のために選んだスローガンが「愛」だったのだ。
新約聖書「コリント書 第十三章 <至上の愛(Supremacy of Love)>」には次のようにある。
このフレーズは愛の賛歌として有名で、キリスト教を愛の宗教として印象付けた。しかし、実際のセンテンスは「ナグ・ハマディ文書」の中に収められた「フィリポによる福音書」に記されている。
ここに「愛」の真髄が記されていたのだが、パウロ派による意図的な削除により、「愛」の源泉が抜け落ちてしまった。
このように、「ナグ・ハマディ文書」では、愛の説明が追加されていた。これは「失われた福音」にも記されているが、パウロ派がグノーシス派 と対立関係にあったことも関連している。
イエスは「愛」とは、知識の結果だと唱えていた。パウロの目論みは、協会による民衆の先導であり、結局は民衆に賢さを望んでいなかったのだろう。
民衆を子羊のごとく先導するためには、賢くなってもらっては困るのである。グノーシス派との対立も、そういった意味ではうなずける。近代の信仰に、希望の源泉として智慧を欠いた抜け殻の「愛」が残存しているのはこの影響が大きい。
したがって、ここで本来の「愛」の視点を元に戻す必要があるのだ。
これが本来の「哲学」であり、そのものが「知」を「愛」する姿なのであろう。「愛」の視点を元に戻し、抜け殻の「愛」に生気を漲られせ、「快活な愛」を営めるよう「知恵」や「叡智」を「愛」に注ぎ込む必要があるのだ。
「愛」は「知識」の「結果」
さて、「愛」は「知識」の「結果」である、とはどういう意味なのだろうか。「知識」は蓄積される。豊富な知識は現代の「AI」に代表される「知」の巨人としてそこにコンピューターやITの技術が関連しているようにも思える。
そう捉えると、「愛」がとても機械的な冷たい印象となるのも事実だ。果たして、「愛」は「機械」や「コンピューター」で代用が可能なモノなのだろうか。
得てして産業革命以来、資本主義社会の現代の経済的発展の立役者は、コンピューターやインターネット、つまりIT技術の発展とともにあるとしてよいだろう。
これは翻訳にも目を通す必要があるが、「愛」を支えるのは単なる「知識」ではないはずだ。人間の「知」を測るには「IQ/知能」と、もう一つ、「知性」がある。
「知能」と「知性」は全く異なる。
イエスが唱えた「愛」を担う「知識」とは、一般に「知性」のことだろう。
これを「知能」と「知性」の位置で解説しよう。
単なる「知能」は下図のように、「知の面」を担う「能」を重点的に把握する力である。
一方「知性」は「感の面」の「性」の領域を担う。いわば、「愛」が「情動」や「感情」の澱としての上澄みのように見えるのは、「感の面」の感覚的感性のせいなのだろう。
しかし、本来「知性」とは「知」と「性」の両方持っているということである。マッピングで言えば、「知の面」の「能」と「感の面」の「性」を共に持つということだ。
「性知学」のネーミングが同じ文字の羅列から成るのも、これが本来の「愛」を担う「場」であるからだ。
更に完結に立体モデルを、「理の面」つまり「結果」が見える相として下図をご覧いただこう。
「性能」という言葉がある。これは単なる能力のように使われているが、基本的にはパフォーマンスを示している。様々な能力があるのだが、その中でも「知性」は「性」を重んじている。
この感情的な解釈やコミュニケーションの土台になっている「性」を抜きにして「愛」の「知識」を語ることはできない。
つまり、「知識」は単なる「知能」ではなく、「知性」を担うのだ、ということを再認識することが大切だろう。
イエスが唱えた言葉を現代的な解釈に変換するとしたら、「愛」は「知性」の結果、ともいえるかも知れない。
次回は、「愛」のパフォーマンス、「愛の体力」について解説することにしよう。