『悪』の根本原理 Ⅰ.罪と悪
『悪』の根本原理 目次
はじめに
Ⅰ.罪と悪
「悪」は「悪」である
Ⅱ.悪の定義
ⅰ)「悪」の意味
ⅱ)「あく」の二面性
ⅲ)現代社会における悪とは
ⅳ)「悪」の否定は「善」か
Ⅲ 悪の本質
ⅰ)西洋と東洋の「悪」
ⅱ)邪惡の意味
ⅲ)悪の意思
ⅳ)聖書の役割「悪」のイニシエーション
ⅴ)「邪悪」と「毒蛇」
ⅵ)天から授けられた二つの摂理
Ⅳ 悪の構造
1)『真』『善』『美』について
2) 心の立体モデル
ⅰ)環境における基本四象限—基本の面—
ⅱ)視点をずらして視野を広げる
ⅲ)マッピング
① 「真」「善」「美」
② 「偽」「醜」「悪」
③ 「刑」「罪」「罰」
3) 立体モデルから見える三者鼎立構造
ⅰ)「真」と「悪」
ⅱ)「善」と「醜」
ⅲ)「美」と「偽」
4) 三者鼎立の巡りと意図
ⅰ)鼎立の巡り—利己的巡りと利他的巡り—
ⅱ)鼎立の意図
Ⅴ.悪の法則
法則を理解する前にー「悪」への助言
1)「悪」の法則 —分断と統合の関係—
2)結果的にギャップを広げる方向性
3)「身」と「実」の関係
Ⅵ.悪の認識
「あく」を悪たらしむる「邪心」内なる惡
1)「惡の認識」と「悪の認識」
2) メンテナンスの必要性
①『悪』を認識する感受性
②『唯識』の教え
3) 悪を認識する
① 4つの根本煩悩
② 善意にもマナ識が潜む
③ 意識における根本煩悩
④ 随煩悩
Ⅶ.悪の浄化
1) 深層心理にある意識の構造
①『アーラヤ識』(阿頼耶識)
② 種子を蓄える蔵
2) 悪の浄化とは心の浄化
① 禅定、そして薫習
② 転識得智 己の観察による得智
③「己」とは、自己を見つめる目
④ 上部「マナ識」下部「アーラヤ識」の検証
3) 浄化の実践 禅定・言動・行動
Ⅷ.悪の役割
1)『己』としての『悪』
①『忌む』こころ
②『浄化』としての『惡』対立の『ガタピシ』
③ 転識の智慧
④ 三者鼎立の智慧
2) 三者鼎立は、「善良悪」の巡りである
①「善」「良」「悪」の役割
② 悪は邪を正す天からの命題である
③「善処」の能力
Ⅸ.悪の命題
1) クリスマスと『悪』
① クリスマスの秘密
② 二つの『悪』の力
③ 危険を孕んだ二つの悪の傾向
④ 悪に対するキリストの働きかけ
⑤ 現代における二つの悪の力
2) 悪に学ぶ その姿勢
①『悪』を知るための課題
②『悪』を理解する最後の課題
③ 基本的ニーズと『悪』の関係
④ 神聖幾何学的『悪』の解釈
⑤『悪』を理解する『悪の命題』
Ⅹ.悪の摂理
1) 宗教と『悪』
① 宗教の変容、教義の解釈
② 教義と神(大霊)
③ 宗教が『悪』を担う一面
④ 各宗教が神(大霊)を支える世
2) 社会『悪』の浄化
① 内面の『惡』の気付きと浄化
② 己の役割
③ 悪の浄化へ向けて
④ 日本という国
3) 悪の摂理を検証する
Ⅺ.悪の再考
私たちの開かれた未来に向けて
(※noteコンテンツ、ボーナストラック)
『悪』の根本原理
『善悪』という大きなカテゴリーから、今回は『悪』について考察していくことにしました。
はじめに
今回の連載の趣旨について、はじめにご説明しておきましょう。
世の中に蔓延(はびこ)る『悪』を退治する!という意気込みから今回のテーマを取り上げたわけではありません。むしろ『悪』の概念的な背景にある様々な解釈や見立て方を知り、私たちの認識の中に潜む『悪』の根本原理を見抜いていこうという試みです。
邪悪なものに対する敵対心。正義を振りかざし、『悪』に対し勇猛果敢に立ち向かう心。社会ではこのような行為は、気高く美しい振る舞いとして間違いなく賞賛されるべきです。そして世の中に『善』が溢れれば、今よりも社会はもう少しマシになるかもしれません。
しかし、その行動の土台になっているものは何か。そしてそもそも『悪』の定義とは。『悪』からもたらされるものは何か。『悪』にはどのような種類があるのか。この辺について、詳しく論説をしていくつもりです。世の中の『悪』をまず知ることで、結果的に『善』が浮き彫りになる。
そして、その延長線上にある『正義』なども同様に、『不正』や『不義』を知ることによりさらに『正しさ』が鮮明になっていきます。
今後、生きていくために必要な力を身に付け、知恵を洗練させるために、どのようなスタンスで社会に広がる『悪』を把握していけばよいのかを検証していく予定です。
それは、『悪しき』行いあるところに『善き』行いの芽があり、『善き』行いあるところに、『悪しき』行いの芽があるといわれる論拠をも検証することになるでしょう。
全体で、10回程度の連載予定となります。お楽しみに。
『悪』の根本原理
Ⅰ.罪と悪
今回から「善悪」シリーズとして「悪」の根本原理をお話して参ります。はたして「悪」を理解できるか、皆さんと御一緒に検証して参りたいと思います。
さて、今回は、いつもと違って結論の一部を先に申し上げておきましょう。大体いつも何をお話しするか考えてはいるのですが、結論は最後にする傾向があります。しかし、今回の「悪の根本原理」については、結論の一部を先にお話しましょう。
理由として、「悪」の捉え方や印象があるからです。「悪」というと、極悪非道な酷い暴力や苛めや虐待など、いわゆる犯罪的な関わりを連想する方も多いと思います。しかし、考えてみていただきたいのですが、そのような行為が世の中から無くなれば「善」がこの世に溢れるようになるでしょうか?。
その是非はともかくとして、それだけでは、この世に「善」を生じさせることは出来ないと私自身は考えています。少なくともこの世の「悪」とは何かを理解した上で、はじめて「善処」することができるのだと考えているからです。
ですから「善悪」とよく言われますが、それはたとえば「昼と夜」や「陰と陽」などのような二極対比ではない、ということです。このことを踏まえた上でこれからのお話をお読みいただきたいのです。つまり、
結論の一部を申し上げれば、
「悪」 は 「悪」である
すなわち「悪」の対比や反語が「善」ではないということです。仏教では、「三毒」というものがあり、その習性を煩悩や随煩悩、身口意などとして人々に説いてきました。仏教では、「悪」を「不善」と表現して、「悪の道」に迷い込まぬよう、先達の方々の尊い知恵がそれらの教えに生きています。
このようなことを考えると、私たちには基本的な認識に「不善」があり、結果的に「悪」を作り出しているともいえるでしょう。しかし、これすら「悪」を「不善」と言い換えただけで、実質なにも変わらない、とお感じになるかもしれません。確かに仰る通りですが、ここで少しお話を深めて参りましょう。
仏教ではこのように否定をして「善」や「徳」の意味を伝えることがよくあります。
たとえば
「施す」といわず「貪らない」
「やさしくする」といわず「憤らない」
「賢い」といわず「愚かでない」
「勤勉」といわず「怠けない」
「治療する」といわず「傷つけない」
という具合です。非常に消極的ですが、実際に「~しないでいること」を実践するには相当な自覚が必要であることが分かります。
「悪」と「不善」を「善」の対比という表現としてとらえれば「不善」に勝るものはありません。「悪」という表現が、「悪」の根源そのものを意図している場合は、その表現も妥当ですが、一般的に言うあれが「悪い」これが「悪だ」、あいつが「悪者だ」という表現は、本来適切ではありません。
それは、言葉はある事柄やある人物のみをターゲットにするので、その背後にある「悪」を成り立たせている関係を無視しがちになるからです。本来「悪」は様々な要因が関係しており、自分以外のことを「悪い」と一言で言ってしまうとその他の「悪」を成り立たせている要因を無視してしまうことになります。
「悪」の構造を理解すると、この表現自体が「悪」を作り出していくことに気付きます。そして、自分以外の、というところも大切なポイントで、これは、次回「Ⅱ.『悪』の定義」でご説明します。
また、次にご説明する「罪」にもヒントがあります。
今回は、先に結論を申し上げていますが、ここまで踏み込んだ結論をお話すると混乱してしまわれるかもしれません。それはどういうことかと申しますと、本来この世には『悪』は存在しておらず、この世の成り立ちは、全てが「真」「善」「美」の世界観である、ということです。
…しかし、このようなお話しをすると、矛盾だらけと思われるでしょう。
一体、いままでの長きに渡る戦争や、数々の常軌を逸する事件やもろもろの犯罪はどうなのか。それも全て「真」「善」「美」なのか。ましてや被害者や事件に巻き込まれた当事者の方々は、このような悠長なことを考える余裕はないと思いますし、被害者のやり場のない怒りや悲しみをどこにぶつければいいのか?とお感じになると思います。
そこで、この際、お怒りの方々に少し気持ちを整理していただきたいことがございます。ドストエフスキーの長編小説は「罪と罰」でしたが、「罪」と「悪」の違いをご認識いただきたいのです。一言で申し上げれば、このような戦争や犯罪は全て「罪」であり、それらは「悪」とは異なる、と…ひとまずご理解下さい。
宗教でも特にキリスト教では、邪悪な悪魔、サタンの存在が言い伝えられており、この世の人間で罪のない者はいない、全ての人間は罪人だと言われています。そして、その罪を償うためにキリストの御言葉(みことば)に耳を傾けるよう説かれています。
この「罪」とは、
アダムとエヴァから始まります。
彼らは楽園エデンの園で蛇にそそのかされ神との約束を破ります。そのことで彼らはエデンから追放されます。これが原罪だとされています。そしてエヴァをそそのかした蛇とは、天使のルシエルでした。
このルシエルの行った行為が
「悪」
であり、それを受けた人間が
「罪」
を負ったのです。
この摂理は、「悪」の根本原理を考える上で、とても大切な出来事です。実はここに「悪」の全ての答えがあるといっても過言ではありません。
ここで、あまり説教じみたことは言いたくはないのですが、このシリーズはまだ始まったばかりですので、この摂理について必ずまたお話しする機会があると思います。
「悪」の根本が、ある摂理の基となる行為であったことが分かると、「悪」の本質が理解できると考えています。聖書が述べていることは、御伽噺(おとぎばなし)として、あまり耳を傾けない方もいらっしゃるかもしれません。私自身も敬虔なクリスチャンではないので、聖書は寓話として世の中に知られているだけだと思っていました。
しかし、聖書に書かれていることの全てが事実でないかもしれませんが、真理を突いていることは多々あります。次回以降少しずつ「悪」の根本原理と本質的な「悪」の摂理について習熟して参りましょう。
先ほどのお話のように、もしこの世に「真」「善」「美」が溢れているなら、私たちの住む世界は、既にパラダイスになっていることでしょう。ところが、私たちにはまったく、そして一向にそのような世界に自分たちが居るという感触もなければ、実感もないと思います。
それも、当然といえば当然なのですが、ここにはある絡繰りがあります。この「悪」と「罪」そして「刑」と「罰」の関係性を見ていくと、「真」「善」「美」の裏に、どのように「偽」「醜」「悪」が潜んでいるのかが見えてきます。
今回は、仏教の教え特に仏教の深層心理学の「唯識」や、キリスト教の聖書や聖書偽典に記されている寓話などから、「悪」の本質と根本原理にお答えしていこうと思います。「悪」の根本原理を知れば、「善処」ができます。そして、それを知った方々から行為が改められ、自然の摂理が巡りはじめるのです。
次回は、「悪」の定義について、
お話しを進めてまいります。
ここから先は
『悪の根本原理』ー悪を探るー
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