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『哲学』の散歩道 SEASON3 「こころ観のこころみ」 最終回 Vol.12(4194文字)
哲学の散歩道 season3「こころ観のこころみ」では、身近な話題を通して「こころ」を見つめ直す、その世界観を提言する。それは、主観と客観の景観、主体と客体の正体それぞれを見出す作業だ。
前回Vol.11にて、桜の咲く前に「こころ観のこころみ」を終わらせるはずだったが、想定外のことが生じて少々記事を書くのに難儀を生じたため、最終講が遅れてしまった。そして、この記事を書き終わる頃には、次の命題に気付いているだろう。
人生は、ときに予期せぬことが起こる。手前味噌な話で過去に結構波乱万丈もあったので、少々のことでは落ち込まないのだが、やはり日常生活に支障があるというのは、かなり辛いことでもある。
そう、だから、今こそ与えられた御霊を磨き切ることが大切。それができるように、この最終講で締めくくりたい。
こころを見つめ直す世界観の提言
導入にもある、「こころ」を見つめ直す世界観の提言とは、主観と客観の景観、主体と客体の正体のそれぞれを見出す作業であった。そしてその景観と正体とは、最終的に「主格」と「客格」の認識にあった、と言えるだろう。
「身鏡」の「他者視点」
「現身」の「自己視点」
前回、「他者視点」のお話をした。これらの、「他者視点」とは、「身」の周りの全ての「場」にある、特に「理の面」 に映り込む「背景」である。
*1この面は「結果の面」であり、言語的にも心象しやすい。
これらの「場」は、自分を取り巻き、「自分」を自分足らしめている背景である。
それらを、あらためて解説していこう。
周囲を取り巻く「場」
「身」と「理」が対峙しているというのは、「立体モデル」を通して解説してきた通りであるが、その最も興味深い仕組みは、自己と対峙するのは身鏡であり、それが「現身」でもあることだ。
「身鏡」とは、鏡に映った自分自身。だが、明らかに自分自身と、鏡に映った自分が異なることは理解できる。鏡に映る自分は、本当の自分の姿ではない。しかし、鏡が無ければその姿を認識することはできない。
「身」の心象を生み出しているのは「鏡」である。その鏡が自分ではないように、自分を生み出しているのは、「他の存在」、それが「他者存在」である 。
※2 他者存在も周囲を取り巻く「場」の一要素である。
一方「現身」とは、古文などでは、さまざまな解釈があるが、単純に「我が身」と言っていいだろう。
したがって「現身」は、現に我を見る、我そのものを観ずることである。より「切実に」自分自身を感じられるように、「身」を動詞化して、「身る」としてもいいだろう。
むかし「タバコする?」ってコピーライトが流行った時期があった。
「身」を動詞化するのはもちろん一般的ではないが、つまりはダイレクトに我が身を案じることを込めた表現だ。
これら一つひとつを意識的に判別していくことは、とても大切なことである。
最初は感覚的に、そして知的に、最後は理性的に…。
この「身鏡」と「現身」が、どのように「場」と相関しているのか、それをまず見ていこう。
取り巻きの解説
「主体」「主観」「主格」
簡単におさらいしよう。
三つの面の主体、主観、主格の位置関係である。
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見て取るように、この三つに囲まれた部分が「身」である。そして、このような思考になるまでの意識段階にも変遷があった。
その変遷は、はじめに「理の面」の「体」が、そして次に「知の面」の「観」が、最後に「感の面」の「格」が出現する。ここにはじめて「主格正面」という「主座」が生まれる。そして「格」と同時に「自分」そして「自我」も出現する。
一体この時期が、いつ頃なのかについては、あまり触れなかったが、およそ「9歳~」と言われている。自分自身を自覚する、自分に目覚める時期。成長発達段階においては「9歳の危機」とも言われるが、この時期に、同時に「死」に対する恐怖や、大いなるものへの畏敬の念などが生じるとされる。
この中心の位置から奥行を透視する方向に現れる景色によって生み出されている。単純だが、この「主座」が、自分本来の「視座」となる。したがって、「主格正面」は「視覚正面」と同じ意味だ。最終的な「主」が出現する。
「主格」は、「身」一つ。これが「現身」
「客格」は、それを支える周囲の7つの「場」を持つ。
この「客格」の7つが「主格」の「身」に関与していくことをもう一度確認しておこう。この「客格」それぞれが「身鏡」となり「現身」を作り出す。
それぞれの配置を
「運命」と共に
今回はなるべく「身近」な話題を提供するこをと念頭に置いてきた。最後に今までの解釈が、より身近に感じられるよう、私たちの「運命」との関わりを仄めかせたいと思う。
何事にも「自分軸」を持つことは大切である。「自分軸」とは立体モデルの中心軸のことを言う。「こころの立体モデル」においては、それが「運」の構造に関与すると考えてよい。
たとえば、「身体」の「体」を「健康運」、「社会」の「会」を「仕事運」、「心理」の「心」を「金銭運」、「精神」の「精」を「愛情運」とする。
それぞれ残った「神」を「人気運」、「理」を「成功(秩序)運」、「社」を「家庭運」、「身」を「財産運」とすると、中心の縦軸にくる「運」とは「人気」「成功」「財産」「家庭」と相関する。
![](https://assets.st-note.com/img/1712741527238-YIEL3pkrHy.png?width=1200)
それを模式的に見立てたのが上図である。「縦の中心軸」は自分自身の軸になる部分を示している。私たちを取り巻く「健康」「仕事」「金銭」「愛情」はそれをサポートしてくれる「運」である。
それらは、中心軸を生み出す養分みたいなものであり、中心の「自分軸」が、結果的に成長していく柱だ。
そして、縦軸の「自分軸」のほかに、「身」と「理」を貫く軸がある。「運」で言えば、「財産運」と「成功運」だ。それらは、本来周囲の「運」に触れ、その存在を感じ、働きを見出し、最終的に知ることで巡らすことができるようになる。
「成功運」とは「理」に映る結果に過ぎない。だから本当は「秩序」や「規則」という方が分かりやすいだろう。内なる「秩序」、自分自身になるべく嘘をつかない姿勢。たとえ嘘をついたとしても、それが「方便」であり、常に本当に目指すことに焦点を合せていくこと。
そして「財産運」とは、今ある金銭的なものや、土地などの遺産だけではない。本当に大切な「財産」とは、我が身である。「身」が全てである。この「財産」と「成功(秩序)」のつながりが「運」を運ぶわけだが、そのサポートをしてくれているのが、周囲の6つ、「成功」を入れれば7つになる。
これら7つは、全てが「他者視点」から成っている。その際たるものが、「身」と対峙する「理」である。
ここで断りを入れておくが、世の「成功の法則」や、「引き寄せの法則」などを強調するつもりは全くない。個人的には、むしろそのような思想は感覚的に疎んじている。
「成功」というものが、どのようなことなのか、あえて言えば、全ては「成功」している、と考えるのが妥当と思えてくる。私たちは既に常に「成功」しているのだ。なぜなら、それが「理」の秩序だからだ。
運命とは変えるもの
ではなく成長するもの
これらの「運」を、すべて「運命」として考えるならば、「運」自体は「自分の中心」を持つことで「成長」していく。運命は変えられるというよりも、
運命は成長する
たとえば、その成長が変化することと見做すなら、それが変わっていくということなのだろう。
個人的に、私たちは使命(ミッション)を持って生まれてくる、と考えている。その使命に忠実に、そして
使命を「活かす」ため
宿命に従い
天命を訊き
立命を巡らせ
運命を動かす
おわりに
最初は感覚的に、そして知的に、最後は理性的に…。
不思議なことに、深く理解するには、この逆の印象で進むような気がする。
まず、「理の面」で結果を把握し、「知の面」で過程を見通し、最終的に「感の面」でその価値や基本的な力の源を悟る。
本当の意味で理解を深めるとは、その源泉を確認することである。
今回はこの最終段階の到達を目指して、今まで語ってきたことの総集編となった。
全体を見通し、最後に認識したことは、「感の面」の出現により初めて認識できる「客格」であった。
この「格」と命名したのには、ある経緯があった。
それは、「主観」「客観」「主体」「客体」の対はよく知られているが、「主格」の対の「客格」はあまり聞いたことがなかったこと。
そのことを後になって調べたのだが、どうやら、「客格」とは、わが国の日本語学の中で、「動詞の客語になっている体言がその動詞に対してもつ関係。「賓格」「目的格」とほぼ等しい」(日本国語大辞典)とされている。
個人的に、それまでこの「客格」の存在を知らず、「立体モデル」の構造から自然に「客格」の存在に辿り着いた。
前出の説明にもあるように、目的格とほぼ同義であるが、「客語になっている体言」とあるように、成り得る品詞が決まっている。およそ、名詞、代名詞、数詞などが挙げられるが、学者によってはその捉え方が異なり、母国語もここまで専門性が高い領域にくると、解釈にかなりの違いがあるようだ。
まだまだ、解釈には幅と揺れがあるようだが、それも、立体モデルを使用すると、ある程度ではあるが、構造定義な把握ができるのではないかと感じている。
また、「格」とは、グリッド「格子」の「格」でもある。個人的には、このグリッドには思い入れがあり、今考えれば、「場」と呼ぶそのキューブのことを「格子」と呼んでいた時期もあった。
そのような不思議な関連もあり、今後の展開が期待される。
最後になるが、まだ次の命題が思い至らない。少し休息をとりながら、リラックスして思案してみるとしよう。
なにしろ、私たちは、常に既に「成功」しているのだから。
最後までお読みいただいた方々に、深謝申し上げる。
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