『愛の美学』 Season3 エピソード 2 「愛の伝達」(2776文字)
今回の『愛の美学』 Season3 エピソード2「愛の伝達」は、私たちが普段使用している基本的なコミュニケーションに必要なツール、「話す」「聞く」「読む」「書く」の中で、伝えることに関与する「聞く」「読む」について話を進めていく。
1)愛の告白
「愛してる」この一言は、多くの心情を含む言葉でもあり、またその情緒を伝えるためのセリフでもある。
伝達とは、伝えることを前提とし、基本的に「話す」ことから始まる。しかし「伝達」は、単に話者が伝えるという観点からだけではなく、受者に「伝わる」ことが大切になってくる。
かの大天使ガブリエルは伝達の天使として有名だが、それは一方的に「話す」ことではなく、話者と受者の間における関係性を含んでおり、むしろ受者側への伝わり方が大きな命題となる。伝達は、その御言葉が「聞いた側」に深い印象を与え、情動の波紋を生じさせることこそが真の伝達といえるのだろう。
したがって、ここで示す「愛の伝達」とは、単なる「告白」を指すのではなく、その「告白」を授かる側の、より大きな情動変化と意義に関与すると定義する。そこに情動的な力が働くからこそ「伝達」の意義深さがあるのだ。
より大きな「愛」の元に「告知」はなされる。これは「話す」という動作による結果ではあるが、話者側は、常にそのときいかにして伝えるかを配慮することが必要なのである。
いわばそれが前回話した「尺度」と表現した「場」を示している。
一つひとつ言葉を選び、話者が相手に伝えるためにこころを砕く。その作業自体が、既に「愛」であり、それが「伝達」に必要な本当のエッセンスであろう。
2)「伝達」の主体
前回は「愛」の位置について、下図のような解説をした。これは「尺度」と「気力」そして「精神」の三つの側面によって支えられていることを示した。
さらに、「知」は「活力」と「肉体」にも影響を受けている。
そして、この三つに囲まれた「場」が「身体」の、特に「身」に関係するところであり、この「身」から「知」の「尺度」や、活気という「愛」のチカラが巡り、「精(愛)」を生むのだ。
それが、下図の「理の面」の「精神」の境界を動かしていく。
また、「知の面」を下図のように赤の矢印の方向から見ると、「知の面」の「知」とする部分は、左側(私人性)にあり、同時に「場」として「精(愛)」と「身」が存在する。
このように、「尺度」の元は、「身」から「知」へのアプローチに伴っていると同時に、それが「精」に及んでいくことを示している。
3)伝達の原動力
今回の『伝達』は、下図のように、正に「知力」と「精神」そして最終的には「神」という「天」の領域に関与する部分が顕れてくる。
上図のように「精(愛)」から「神」への伝達が生じるのが分かる。ここでの「神」は、模式的な表現であり、「人格」的な「場」である。
一般的には、「神」からの「お告げ」のように、一方的な「伝達」のように考えられるが、この「神」とは、むしろ自分自身と相手を通した「対話」の主体なのである。
最も身近な例で言えば、独り言や呟きのような、内面の「お小言」や「詰問」に真摯に答えようと、常に冷静に自分自身の「己」を見据える態度としてよい。
自分自身の問いに、果たして自分自身が嘯くであろうか。もしそのようなことがあり、自分に嘘をついたとしたら、おそらく何らかの違和感をともない「己」自身に不協和音を生じるに違いない。
まして、自分の問い掛けに驚いたりはしないだろう。それら問いかけの全ては、その問自体を行う主体となっている。
一方、話者から話を「聞く」ことによって生じる、一種の「驚き」は、昔話や「おとぎ話」の効能であろう。
ややスピ系な解釈にもなるが、チャネリングなどを一つの「対話」としてみれば、自分がした問いかけに対して、奇想天外な返答があった場合など、そこに驚きが生じる。
「人格」の形成は、この「お告げ」をどう理解していくかに依り、全く形の変わったものになりうる。
自問自答も、他問自答も、自他の違いはあろうが、こころで生じる反応はいずれも似ている。 そしてこの境界を取り仕切るのは、『理の面』である事に気づく。
ここは、公私の境界でもあり、自覚すれば見出すことがある程度可能である。立場、境遇、世間体などによる境界、その場による境界は様々な反応を惹き起こす。自分の意志とは異なる言動をすることもあり得るだろう。
理知的な判断とはそのようなときに自分がどう告げるのかを内的に察知している状態を指すのである。そしてその時、より注意深く『感の面』の関りについて見ていく必要がある。
大きく見落とされることがあるが、これは単なる『力』ではなく、価値を担うさまざまな『チカラ』の元になっている面なのだ。
つまり、『感の面』に位置する『活力』『気力』『知力』『体力』は、自分自身がそれぞれの『チカラ』の『価値』をどう評価しているかを同時に満たす面でもあるのだ。したがって「能力」でもなく、単なる「動力」でもない、その『チカラ』は既に価値観を纏っている。人は気力を込めて物事に挑むとき、それ相応の覚悟や気合を入れていくものだ。それが『チカラ』である。
どのような『活力』が価値を持つのか、どのような『気力』が、『知力』が、『体力』が価値を担っているのか、各々を無意識に自問自答し、それを無意識に取捨選択した上澄みの『チカラ』が、この 『活力』から『体力』まで滲みでるエッセンスとなっているのである。
『伝達』とは、『尺度』を基に話者が受者に配慮をしながら、神の御言葉を伝えること。つまり、既に『尺度』の段階で、その方法やプロセスが発生している。
では、この『尺度』を生み出すもととは何か。
それは、過去の記憶であり『蓄積』である。この『蓄積』は、多くの『表現』をもとに生み出された、過去の経験則の集大成である。
言葉の巡り、『尺度』『伝達』『表現』『蓄積』は全てが円環状に繋がっている。『尺度』が『伝達』を、『伝達』は『表現』を、『表現』が『蓄積』を生む。 そして『尺度』のもとは『蓄積』であり、『蓄積』のもとは『表現』であり、『表現』のもとは『伝達』なのだ。
この巡りの中から、磨かれた愛の言霊が奔出する。
次回は、『愛の表現』として話を進めていく。