『哲学』の散歩道 Vol.19『思考のこころみ』 命題1 思考段階(3886文字)
今回から、「論」哲学の散歩道を再開する。
現在、『霊性の彼方へ』『愛の美学』『自由の哲学』の連載をしているが、note『論』では、副読本的に意識に基づく思考の仕組みを『思考のこころみ』として解説を加えていく。
今回は、思考活動と、思考過程、思考作業という三つの思考について、『自由の哲学』の第三章―6内容、さらに『愛の美学』のエピソード1「愛の位置」の参考になる解説を加えることにする。
はじめに
ここでは、整理しやすくするために、こころの立体モデル「マトラー©︎」を利用して解釈を進めていく。
このモデルは、デザインと幾何学のセンスで、シェーマ的に思考の仕組みを知ることができ、言葉の定義を記憶にとどめる一助にもなる。
というのも、専門家でも「主体や客体」、「主観や客観」、「間主観や間客観」などの語彙を、どう理解するか、あるいは私たち専門家自身が、語彙をどう位置付けるか定義付けが難しい場合がある。
そして、単に言葉の仕組みや定義を記憶することに特化した場合も、これから説明する解釈は相応に役に立つはずである。では、本題に入ろう。
1)思考の第一段階
思考の第一段階は、自意識のみの思考で、いわば主(体)のみの段階だ。この段階は、思考の過程は意識されない。つまり、記憶の無い状態と仮定する。この状態は、乳幼児期をお考え頂ければよいだろう。
幼年期以前の記憶については、あまり定かでないことが多い。この段階は、過去の記憶における比較なども想起され得ない段階である。
主体と客体の分割も不明確な状態で、一説によると、乳幼児は視界に映るモノはすべて自分と判断している。その境界は極めて不鮮明だ。たとえばブランケットをかじっても痛くはないが、自分の指を齧ると痛い。この刺激によってはじめて自分の境界を意識するといわれている。
乳児期の延長線上で、幼年期はその時に生きている。その時になりきりファンタジックな世界に没入できる。
上のシェーマ「体の視点」とは、体の感覚的な印象(見えないもの:中央より左側領域:主体的と定義)や、目に映るものや物質、自分の体など(見えるもの:中央より右側領域:客体的と定義)を分かつ中央の緑のラインがあるのみである。(主体と客体の境界とは、本来の自分自身とそれ以外という、視点の位置自体を意味している。一方、主観と客観は、思考の過程を踏まえ過去、現在、未来の時間軸を通して観えてくる、一種の意識のつながりを意味している。)
つまり、思考の第一段階は、自意識のみの思考であるといえる。本来、主体と客体の違いも不明確。いわば意識の視点のみの段階である。
重要なことは、この段階では、思考活動はあっても思考過程は意識されていない。つまり、中央の緑のラインも意識されず記憶の無い状態と仮定できる。したがって過去の記憶における比較なども想起されない。
そして、緑のラインが思考過程(主観的認知)となっていく。ただ、第一段階では、それが意識されず、いわゆるシュタイナーのいう単なる『思考活動』、素朴な主体と客体の観察があるのみの段階を表現している。
2)思考の第二段階
次に、青の領域に、徐々に緑のラインが現れてくる。これが、思考のラインである。これは、記憶と関連し、軸の要素に言語活動が大きく関与する。言葉が主体客体、そして主観客観を相対的に隔てていく。したがって、このラインの醸成には、言語能力が関わる。言語的理解が過去、現在、未来の時間感覚の輪郭を深めていく。その一方で、記憶の領域がここにある。
次に、上記の思考の第一段階のモデルを回転操作する。この際、私(自分)の視点の位置は変化しない。視点は、単純に青い領域の中心点にあり、ゆっくりと回転ドアが回るように、中央の緑の軸を中心に回転をイメージして頂くとよいだろう。操作的には、自らの視点を、左にずらし緑の軸が面であることを認識することもできる。
これは、確認のための働きとでもいおうか。生命の基本的欲求であると考えて良い。創世記「天地創造」の物語と同様、神が「全てを見、そしてそれが満足すべきものであると思われた。」とする行為と同様であり、また、これが思考活動そのものの源泉でもある。
このように、回転してはじめて、『思考過程』が発動される。思考過程は記憶とリンクし主観的な見立てができるようになる。一方で、主体的な原感覚(見えない体感覚)は図に示すように裏から思考過程を支えるように作用する。つまり、より感覚的な記憶の中に自分を置けるようになる。
すなわち、過去の記憶が次第にしっかりする段階だ。また、客観性も出現はするが、未だ図のように客体の影に隠れる形であり、その全容は見えにくいままだ。
この客観性を見出すには、次の思考の第三段階を待つ必要がある。
3)思考の第三段階(1)
この段階で、「格の視点」を持つ、つまり「自我」が確立する。自分があると自覚できる。あるいは自分とは何者か?という意識が芽生える。この第三段階では、底面に出現する、赤の「感の面」が「自我」の源泉を構成する。「感の面」は「格」を構成するために必要な意識を形成している。
先ほどの「意識水準」の定義をここで示しておこう。
「意識水準」とは、昏睡、覚醒、睡眠、夢見、などの「意識」とは異なり、私たちの普段使う「言葉の理解」の深まりによる変容を表す。したがって、医療分野などの臨床で使う意識レベル(水準) GCS(Glasgow Coma Scale)や JCS(Japan Coma Scale)などとは異なることをご了解頂きたい。
ここで使用する「意識水準」は、様々な認知のラインと考えていただくと良いだろう。例えば、言葉は一度理解すれば、認知的障害などが出現しない限り、またアクセスすることができる。
これを認知の恒久構造というが、ここで言う水準とは、特に概念化された言葉の理解度を表現する語となる。特に抽象的な言葉や認識において、その理解度を水準と表現している。
つまり、「格」とは、「主格」を担う構成要素を生み出す場である。
また、ここで「主格」に対して、あえて「客格(きゃくかく)」という言葉を使う。二つの言葉は、一見すると違いを見出しにくいため、あまり一般的には使われない。
その理由は、このシェーマで後に示すが、主格に対して一部分が同一のエリアを指すことになるからである。
つまり構造上、主格=客格の部分が出現するためで、これについては次の、思考の第三段階(2)で説明する。
4)思考の第三段階(2)
シュタイナーが言う、「思考作業」とは、下の図のように、主格的な認識から、より客格的認識を持つ意識を言う。
この客格という言葉をあえて使うことで、今まで意識されなかった、ある部分を認識することが可能となる。
ここが、『愛の美学』でいう「愛の位置」と関連する。この図では、「中心を穿つ軸」になる、三つの軸が折り重なる中心を通る対角軸でもある。
それが、「愛の弓矢」の正体だ。
主格的な立場から客格的な場へ移る。この主格と客格の平衡術が、「人格」さらに「霊格」にも関与する。本来、自愛とは、単純に「主格」=「客格」の意識のことを言う。
それは他人 を愛おしく慈しむことに他ならない。自己愛は、己を中心に見取る語彙である。そして、「己」の作用は非常に重要であるので、自己愛もまた自らを認識するツールとして同様に大切だ。
現実にこの「=」を認識するには、かなりのハードルがあることも事実だ。愛の位置はもともと、始めから中心にある。しかし、それは、「性」の理解と共に「愛」の位置が変化していく。
結果的に中心に据えられているように見えるのだ。
これは、前回、次元の話で出した図であるが、ビッグバンの爆発により、私たちの世界は、現時点で拡張の局面にあるとされている。
しかし、その前は世界はどのようなカタチであったかを、現代科学は不問に付す。
大きな巡りの中で、もし収縮するフェーズがあったらなら、限りなく収縮しそして爆発したということも考えられ得るだろう。
まさにこの衝動的なパワーを底支えするエナジーの源泉の中心に「愛」の力があると考えて頂いてよいだろう。
それが中心から興(おこ)る力。それが、すべての力の根源「愛」の作用である。
今後は、折に触れ中心を穿つ「弓矢」の正体と、その「的」の解説していこう。
次回は、意味と価値と真実のお話しをしていく。
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