『哲学』の散歩道 SEASON3 「こころ観のこころみ」 Vol.9(3250文字)
「哲学の散歩道」も秋の装いになってきた。
いつも定点観測をしている桜の葉も枯れ葉になり散り始めた。冬枯れた木々の中に、また来年「花」が開くために、その「核」になる確たる循環の中心がある。それは、今回お話する「己」の構造そのものである。
今回はVol.9であるが、敢えて意図的に回数を区切っているわけでも、このマガジンを進める上でシナリオやシラバスがあるわけでないにもかかわらず「9」というのは何の因果であろうか。
実は、「9」という数字には深淵な意味がある。それは、今回お読みいただければお分かり頂けるはずだ。まさに「己」が生じる数。それが「9」だからだ。
さて、それでは、深淵な「己」を、ご一緒に覗いてみることにしよう。
玉手箱を開く「どきどき」感。好奇心は精神を研ぎ澄まし一点に集中させるチカラだ。「己」自身も、この好奇心と似た働きをしている。
私自身「己」という不思議な言葉に、これまで何度となく触れてきた。
そして今回、確信した。「己」の意味や意義を、余すところなく映しだす表現や創造力を持ち合わせたと。
そして、満を持して、今回のマガジン「哲学の散歩道」で、その構造的解説を始めることになった。今までの話も、特に私のリアル講義を聞いていない方々にとっては、宙を掴むような全く理解に及ばないところが多々あったであろう。いや、講義を聞いたとしても、一回や二回では理解できる代物ではないことは分かっている(笑)。
なぜ、空間を含む立体的な構造に、明確に意味を与える言葉を載せると、かえって理解が難しくなるのか。その理屈が分かると、難解な壁を乗り越えることができるだろう。
各々は、抽象的な名詞の容姿を持っている。
その全ては、言葉の定義に依る。つまりやや大げさだが、とくに抽象名詞に関しては、それこそ外国語を習得するのと同じような壁が存在する。
「愛」「正義」「勇気」「存在」「意識」「知恵」「知性」「理性」「感性」「意志」など。これら抽象名詞にはイメージしかない。そして、一般の名詞とは明確に異なるにもかかわらず、私たちの心の中では、それらは、まるでそこに「ある」かのように振舞うのである。
これら、特に抽象名詞が出現した時節から、私たちにはあるときはこころを満たし安らぎを感じ、そしてあるときは懐疑心が煽られ不安や恐怖を駆り立てられてきた。
その代表が「神」であり、また「悪魔」である。それらが存在する所以が、問われ続けてきた。
たとえば、「善」「悪」、「美」「醜」、「真」「偽」において、これらも、特にマガジン「愛の美学」で触れたが、それぞれの人に映る個々の抽象名詞が持つ容姿そのものが、理解を遠ざけている諸般の理由である。
「1」という文字は、そこに具体的な意味がある。数字は実に分かりやすい。しかし、「神」には、それこそ八百万の解釈があり「神がここに在る」とは言い難い。
つまり、全ては立体モデルの配置の妙を、個々人がどのように解釈するかにかかっている。
立体モデルを作成するにあたっては、西洋東洋の叡智を組み合わせ磨き上げてきた。およそ20年に渡り、公私分け隔てなく見守り続けてきた。今回は、立体モデルのある種の「展開」が行われる。これにより、より開かれた秩序を意識することができるだろう。
だいぶ、前置きが長くなったが、早速「己」の構造をみていくことにしよう。
「己」の構造
先にも書いたが、「己」の働きや構造については、今まで何度となく解説してきた。それを今回、もったいぶって「初めての試み」と銘打っているのは、その立体構造の把握についてである。
「9」の数字が持つ構造を見ると、今回の構造的理解が進むだろう。
立体モデルを参照してみよう。
立体モデルの構造
詳細な説明は、他のマガジンでもしているが、ここでも初歩的な解説をしておく。
まず「立体モデル」は、立法体をイメージする。そして、それを八等分する基本の「面」が3面ある。それらをアスペクトと呼び「側面」「位置」「向き」「方向」などの意味をもつ。下図にそれを示す。
それぞれの面自体が分割した「場」を最初からイメージするのは難しい。はじめに触れた通り、これらの把握は非常に抽象的であるため慣れが必要だ。大まかに自分と周囲の環境に表出する「領域」と考えるとよいだろう。
上図の青い矢印の方向からの眺め「青い面」を「理の面」と呼ぶ。この面が、生活環境を反映する三つの面の中で最も意識しやすく分かりやすい面である。上図の矢印方向から見ると「理の面」の四つの象限を眺めることができる。
この面は、私たちが生活していくために必要な基本的な領域を示す。全体で私を取り巻く周辺環境と言える。
たとえば、中心の青い点を「私」としてみよう。「私」は一個人としての個々の人間であるから当然「個々人」であるし、また私は「集団」にも属している。そして「身体」「社会」的な「外面」も「精神」「心理」的な「内面」も持ち合わせている。
私たちの周辺は、これら全体が揃ってはじめて環境を形成する。
論理の飛躍があるかもしれないが、実はここには自分は存在していない。領域展開「呪術廻戦」ではないが、自分の領域を展開しなければならない。
考えてみよう。「自分」は、今もそしてこれから先も「存在」するだろうか。この四象限に見える景色は、それぞれの人に当てはまりはするが、自分自身のことを指してはいない。ある人が生まれ死するまで、その人生には時節が関与している。その時節は限られている。限定されている。
この世に生を受けたときから、死に至るまで。それが自分自身の領域を展開している時節に他ならない。桜にも花の咲く時期がある、それはまさに神聖な結界を結ぶ限られた時間なのだ。神聖な領域を確保する。これが「自分」を持つということだ。
これを「領域展開」と呼ぶ。自分のテリトリーを占有するという意味だ。事実、「おぎゃ~」と生まれた瞬間から、私たちは見える形で空間を占有している。それ以前は、お母さんのお腹の中に居るときから、精子と卵子が結合して細胞分裂を起こしはじめた瞬間に生命が育まれ、領域展開が生じている。
これを模式的に図示しよう。
図は少し複雑になってしまったが、単純に横の赤い線と縦の緑の線が「幅」をもって拡張するイメージだ。
すると、身体と社会、社会と心理、心理と精神、精神と身体の間に、あらたな「領域」生まれてくる。これを「緩衝帯」と呼んでいる。
さらに、緩衝帯部分を強調してみよう。
これは、九つのパートに分かれている。その中心部分が「己」の正体としてよいだろう。または自分、あるいは「私」でもよいが、自分は「身体」を持ち、「社会」の一員として生活し、「心理」的な関与もあり、「精神」的な存在でもある。
「己」は、特に、「精神」「身体」「社会」「心理」を内外公私から見通すチカラが内在している。
白く抜けているところが、結局のところ、「自我」や「自己」と呼ばれる「コア」な部分になる。
これから、これを立体にして検証していくのだが、今日の所は、この平面的な解釈を理解できればよいだろう。