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エピソード 7 愛の境界(8250文字)

今回は「愛の境界」についてお話していく。

「愛」にも「境界」やテリトリーがある、と興味を持っていただければ幸いだ。

・・・が、この境界は有るようで無い、無いようで有るという摩訶不思議なものだ。その理由は、今回のエピソードをお読みいただければお分かりいただけるだろう。

しかし無いわけではない。

「愛の弓矢」の話からたびたび出る「愛の矢」の存在。

「愛の弓矢」の矢は、見えざる意図 ※1であった。

※1 見えざる意図とは時間概念に関与する。私たちが普段生活するなかで、全ての原因が見出せるわけではない。この矢印は、過去、現在、未来が同時に生起している純粋持続という概念に結びつく。すべての時間について把握する軸であり、一部ではあるがその存在を私たちは察知することができる。これについては、マガジン後半で触れていく。非常に重要な概念だ。

この矢を中心に、「己」が周辺の環境と心境の境界を見通し、体感知覚的に反応を繰り返しながら情動を察知していくモデルだ ※2

※2 このモデルは、基本的に正面から見るが、構造を把握するために、回転状態で概観した。それぞれの感情球と感応面については、以後順次解説していく。まだ、詳説していないが、中心には「礼」が存在し、本当の「自分」、「真我」の存在を自覚できると自ずと生じ、(こころ)を穿つ中心軸と視座にある自分自身の「我」と「汝」を意識することができる。(この「礼」は、現行の「立体モデル」には未だその存在は記されていない)

境界は、とかく(平面的)世界観で、敷地境界線のように意識しがちだが、これを立体的に把握していく。文字通り「空間認識」の世界だ。

立体視することで、フラットランドの認識をより情報豊かに整理する世界観に導くのも、「愛の美学」である「性知学」の新たな視点だ。

では、本題に入ることにしよう。


1)性知学の意


どの学問領域もそうであるが、その学問に主体となるテーマがある。

宗教学であれば、信仰や精神、神学や宗教教義など、医学であれば、身体的構造から心理精神的秩序の把握、社会学であれば、政治、経済、文化、倫理、法律などテーマに沿って幅広いジャンルがオーバーラップする。

今回、「愛の境界」をテーマにするにあたり、まず、このような重なり合う領域にスポットを当ている。なぜ、そのような話をするかと言えば、一つに、私たちの持つ二元的な思考回路を等化・中和 ※3し、多角的に物事を見る視点に立つことが必要だからだ。このView Pointが非常に大切である。

※3 ヌーソロジーの思考概念。負荷、反映、等化、中和があり、以上4段階をベースに思考の基を形成し、その上に新たな概念を生成する。同、ペンターブシステム。

2)心の境界


このシリーズnote『愛の美学』では、陰陽両感情を参考に、感情の地図を作成した。陰性感情は、表面に、嫌、恐、怒、の三大陰性感情があり、その裏に悲、嫉、悩の二次的陰性感情を持つ。これら全体を感情のモジュールと表現 ※4する。

※4 この感情のモジュールは、それぞれのモジュールを形成する球体と面から成り立っている。立方体をなす「こころの立体モデル」を対角的視点からみると、それらは下図のように示され、それぞれの菱形◇の頂点のうちのどれか一つに球体が乗っているように見える。が、前出動画にもあったように、実際は接しているわけではない。現状では、球と面が関連している「場」があるということのみで、今後、トポロジカルにその意義が見えてくるはずだ。

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方や陽性感情は、表面に三大陽性感情、共感、喜び、肯定、そして、その裏にさらに二次的な深い境地の辞譲、惻隠、赦免の六つがあった。

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感情は、驚きをもって周囲の感情の核(球)に受け取られる。反応的で不快な場合は、陰性感情が反応する。中心に存在する驚きから受容に至った場合は、陽性的な感情が生起し、より深い感情によって処理される。

いわば、この中心の動きに『愛』が関わっているが、これらの動きは様々な刺激によって変化する。そしてまた、これらの感情は『自我』の外にある、外的な要因によって様々な影響を受ける。

その外的な影響とはなにか。普通に私たちが生活している社会において、それらを取りこぼすことなく、見ていく方法がある。

それが、これから示す、『基本四象限』(基本観察面)である。

ケン・ウィルバーにより提唱されたもので、縦軸を中心に、右側に「外面」左側に「内面」、横軸を境に上が「個々人」、下に「集団」を置いたマトリックスである。以下ご紹介していこう。

3)『インテグラル理論』


これは、ケン・ウィルバーの『インテグラル理論』を基に定義している。

第3章『「インテグラル理論」とは何か』(p102~)から、以下、簡単な概略を示す。まず下の図をご覧いただこう ※5

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※5 図中、Iは私だが、この場合、一人ひとりの個々人を指し、自分おのれがその領域に居るのではない。個々人、一人ひとりが内面を持っているという意味。IとWeとIt/Itsをビッグスリーともいう。

本書p123に「四象限」の解説がある。

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他に「人間の領域における四象限」では、私たちの意識の段階的モデルが示されている。

また、これとは別に、全人的医療の枠組みとして、それぞれの領域に相応しい語彙を配置したのが下の図だ。

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個々の内面は「精神」、個々の外面は「身体」、集団の内面は「心理」、集団の外面は「社会」としてある。これらの語彙はWHOの健康憲章を網羅する。

4)境界を意識する


次に、それぞれの境界を意識する。それは単純な問いかけだが、四象限を理解するために、非常に大切な視点だ。

① 縦軸(内面と外面)の境界

左右の関係性は、言語(言葉)何らかのサインなど共通理解の概念によって隔てられている。内面の精神心理的な意識と外面の物質的なモノは、概念的なイコールで結ばれている。これは、認識や認知の軸といえる。

② 横軸(個々人と集団)の境界

上下の関係性は、何らかのコンタクトに関与している。内面の上下間には『察知』、外面は『触知』という語彙が相応しい。また内面の境界には感情的な接触が、外面はモノ同士の直接的な接触が影響する。

以上の軸は、存在の基盤となる要素を生み出す。それはキャンバスに絵を描く、筆と絵具のような役割だ。そしてその中心に意志を生む。ここで初めて「自分」の存在が生まれてくる。

5)自分を意識する


ここから、ウィルバー理論の骨格はそのままに、「基本四象限」から『自分』を認識する作業をしていく。

十字の中心部から円周を描いてみる。その円周の境界が、精神、身体、社会、心理の影響を受けながら徐々に大きく育っていくイメージをする。円の大きさが成長した自分を表現している。

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円は現状の能力パフォーマンスを表す。誰もが身体を持ち、精神活動を行い、社会的な帰属集団(家族)に守られ、その中で心理的な関りを持っている。人間は、これら四象限のすべてに関わっている。

この構造が、『自我』を構成する外的な要素となっている。いわば、この構造から感情も表出する。

6)もう一つの関係性
「公人性」と「私人性」


人間社会の環境には、「内面」「外面」「個々人」「集団」の枠組みがあるが、これらの他に「公人性」「私人性」の側面がある。基本的姿勢を漢字の成り立ちから解説しよう。

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網掛け部分は「公人性」を示す。
白抜き部分は「私人性」を示す。

「精神」の
「精」が私人性、
「神」が公人性を示す。

「身体」の
「身」が私人性、
「体」が公人性を示す。

「社会」の
「社」が私人性、
「会」が公人性を示す。

「心理」の
「心」が私人性、
「理」が公人性を示す。

これを以下、それぞれ漢字の成り立ちと意味からその理由を解説していく。

(以下「常用字解」を参考に一部加筆)

① 精&神(個々人の内面)

精(私)えらぶの意味で、神に供えるための米・麦など五穀の優れて美しいものを選ぶ精神をいう。モデル内では、『精』こころの働きとして捉え、ここでは「精」「私人性」マインドの形と定める。

※ は上部に、下部にを組み合わせた形で、下部の丹は『丹』を採取する井戸の形。『丹』は硫黄を含む土石で絵具の材料。青い色は鉱物質であり、長い間変色せず美しいので器の聖化などに用いられた。

神(公):示す辺に申す。稲妻(電光)の形。稲妻は天にある神の威光の表れと考えられたので、もともと『申』が神のもとの字であった。ここでは、神に対する自分自身「神」とし、「公人性」マインドの形と定める。

※ 「申」が神以外の「もうす」の意味に用いられるようになり、祭卓(神を祭るときに使う机)の形である「示」を付け「神」となった。もと、神の御前で嘘偽りを申さぬ「言」とは、神への誓いそのものになる。

② 身&体(個々人の外面)

身(私):妊娠して腹の大きな人を横から見た形。身ごもる(妊娠する)ことをいう。「みごもる」の意味から「からだ、みずから」の意味に用いる。これより、ここでは、自らの意より「身」「私人性」マインドと定める。

※ また、熟語として「身が持たない」「身から出た錆」「身の毛がよだつ」「身を切る寒さ」など、より「私」の心情感情に近い表現が多くあることから、「身」「私人性」マインドであることが分かる。

体(公):もとの字はに作り、音符は|豊《れい》。もと犠牲いけにえの「からだ」のことをいう。「神」に捧げ供える「体」として捉えることができる。この意味から、ここでは「体」「公人性」マインドと定める。

※ 人偏に本と書き「体」。基より体である。この本体は形ある物を指し、物体、具体、遺体など、公共で確認できるような物を総称する語彙が多くある。これより「体」「公人性」マインドとして定める。

③ 社&会(集団の外面)

社(私):示す辺に土と書いて「社」。土で作った標識の象形。「やしろ」は、「神」を祭る場所。「神」を祭り私たちをお守りくださるこころの「やしろ」を形作る。ここから「社」「私人性」マインドと定める。

※ 標識は墓標の役割もある。「社」(墓)に赴けば家族「ルーツ」があり、そこに先祖への感謝の気持ちが生じる。「社会」公人性「会社」私人性に根差す。祖先先祖も、社会会社と同様の仕組みである。

会(公):会はに作り、のあるの形。上部は蓋、下のは鍋の台座。色々な食材を集めて煮炊きし「あつめる、あつまる、あう」の意味となる。様々な人や物が出会うことから、「会」「公人性」マインドと定める。

※ 一例として、「学会」は、先に学問があり後に「会」が成り立つ。社会には「祖先」という「ルーツ」がある。会社は人々の出会い「会」が先で、その後に代々続く私人性の「ルーツ」「先祖」が創りだされる。

④ 心&理(集団の内面)

心(私人性):象形で心臓の形。古くは心臓を生命の根源、思考の場所と考えていた。金文に「なんじを敬明にせよ」とあり、徳性の本づくところを意味したことから、「心」「私人性」マインドの形と定める。

※ 「心理」は集団の内面であるが、その原初は公の関わりが作用している。ここでは「心」「私人性」と定義し、次の「理」「公人性」と定義した。集団と個々は「私人性」「公人性」の両面を持ち合わせる。

理(公人性)は「玉を磨く人」とされ、磨いた玉の表面の筋を表し、「おさめる、みがく、ただす」の意となる。は田の神を祭るで、ここでは社に供える玉を磨く心「理」「公人性」マインドと定める。

※ 「理」は「ことわり」と読み、熟語には、定理、原理、摂理などその法則規則規律の側面がある。これらの真理は、もとより「公」に根差すもので、また「公」「理」を醸成する「公理」的な相補関係がある。

ここでもう一度『環境の基本モデル』を確認しておこう。

四象限にはそれぞれに『公人性』『私人性』が存在している。四つの熟語の八つの文字で、これら八分割された基本的なマインドモデルが完成した。

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内部の神、身、社、理、の四つは自分軸として調整するツールとして働く。これについては、後ほどご説明しよう。

7)公人生と私人性の境界を意識する


ではここで、改めて公人性、私人性の境界を認識しておく。下の図のように、四つの境界が存在していることが分かる。

私たちの棲む現実世界では、この境界はどのように認識されるだろか。

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本来は、少し時間をかけて、それぞれをイメージして頂きたいが、先に概略図を示す。

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① 精神の内部外部の境界 意識境界
② 身体の内部外部の境界 皮膚境界
③ 社会の内部外部の境界 構造境界
④ 心理の内部外部の境界 心理境界

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このそれぞれ色の付いた境界が、実質的、つまり意識的な自分の領域になる。

少し解説をしよう。

① 精&神の境界

私たちの精神は、意識の土台の上に成り立っている。その意識を分かつ境界は、眠りと覚醒である。意識ある覚醒状態の時に、精魂を使い身体を働かせ、心身、特に精の休息のため「神」の稲妻(電力)で充電している。

② 身&体の境界

この境界は比較的分かりやすい。私たちの外面には皮膚を境に、内部の『身』と外部の『体』に分かれている。しかし、内部の感覚は正に喉元過ぎると暑さを忘れるように圧倒的に情報が少ないことが特徴である。

③ 社&会の境界

私たちの周囲には様々な情報があるが、実質的に影響を及ぼすことのできる範囲は極めて限られている。自分が接するリアルな領域、それが社と会の境界である。この領域は特に自分が所有するモノとの境界に関与する。

④ 心&理の境界

この境界は普段はあまり意識されない。極めて不鮮明な境界である。しかし、構造的に明らかに境界は存在している。特に組織の色合い、チーム全体の意識、集団の活力などの表面上の意識と潜在的な意識の境界とされる。

8)マインドの調整
メンタルはどこに?


先ほどの図をもう一度示そう。

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マインドは円の内部、そして色の付いたところが、実質的に環境と接触できる部分、すなわち『自分』領域である。

そして、実際にこの『自分』を始動させるには、模式的にもう一工夫が必要だ。実は上に示す図は、いわば睡眠状態の図であり、マインドも働いていない。

陰陽の太極図は巡りを表すように、この状態からマインドを働かせ、メンタルを励起させなければならない。そうするためにマインドを動かす必要がある。それは、

内部の回転

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この状態が実質的な覚醒状態を惹き起こす。電源が入り、すべての象限が巡り始める。この状態で初めて『神』の部分が、メンタルとして働き出す。

9)一連の流れ


一連の流れをご説明しよう。

『身』と『心』は『私人性』が強く、『会』の様々な情報や『社』の理念に翻弄され、その評価を、過去の倫理を基に『心』で整合性を見ていく。

自分の内部の『理』を以て、活かせるコトを『精』に映す。そして実質的な『神』、を動かし『身&体』を使い、モノ『申』すことにより、世の中の『会』(世界)が変化していく。

その変化した世界から、再び『心』への影響があり、『理』を以て『精』へ写していく、という一連の回転がある。


おそらく、恣意的な部分もあると思うが、日本人である限り、まずはわが国の言葉で(こころ)を感じ取ることが大切だろう。漢字の仕組みは非常に面白い示唆を私たちに与えてくれる。

今回は、『基本四象限』の成り立ちを解説したが、次回は立体視を用いてもう一度仕組みを解説していく。

10)二元論を越えて


私たちの意識する判断基準は、いつも「善悪」のみならず「美醜」「真偽」 「白黒」「有無」など二元的な解釈を基本としている。その方が分かりやすいからだ。そして現実の世界では、実際このような判断はスピード感があり効率的でもある。

しかし、今世紀変革の時代に、これら二元的な解釈に疑念を以て向かう必要がある。人間は報酬系や低きへ流れる習性がある。楽な方へいく。これはある意味完全肯定なのだが、私は楽をしたい、といつも考えている。

では、現状に疑念を持っているのはなぜか。それは単純に「楽ではない」からだ。なぜ、こんなに苦労しなければならないのか。なぜこんなにも悩みが多いのか。なぜうつ病は病気とされてしまうのか。

この辺を語りだすと、専門家としての血が騒ぐので、少し話題を遠ざけるが、気を取り直して少しだけ、話をしておこう。問題は意識にあるという根本的な病理に気付く必要性を感じているからだ。

どういうことか・・・。

お釈迦様は仰った。「一切苦厄」と。すべては苦であると。けだし人生が「苦」であることは承知している。しかし、楽になることも仰っている。それは仏教の掲げる最重要の「四諦」にある。

「苦・集・滅・道」を極めよ、と。

 「苦」は「煩悩」、悩みだ。それを集めてくる原因があり、それを滅する道を歩め、と。すなわち、人生は苦しみだが、それを滅することができるとも仰っている。そのこころは楽になりなさいという、「苦楽行」のすすめである。

お経やありがたい説法など、語りとして説かれる教えは一元的である。そして、「善悪」の境地に至り、一方が良いと他方を除く二元的な見方をするようになる。

さらにお釈迦様は、「苦」、すなわち「煩悩」を滅却すること自体が目的ではないことを悟っておられた。これは悟りというより諦めである。それが「四諦」の、四つの諦めの心意。仏教の最も重要な教えだ。

仏教で「諦める」ことは、「明らかにして極めること」をいう。

ちなみに、諦は次のような象形表意がある

「諦」とは、言に帝、「帝」は神を祭るときに使う机のこと。神に供える酒食を載せる台。一般的に祭卓の形は「示」であるが、天帝を祭る大きな祭卓は交叉させた脚を締めて安定させる。この大きな祭卓の帝を使用して祭るものを帝といい、「あまつかみ(天にいる神)」をいう。帝は自然神であり、その最高神が上帝。金文(古文書)によると、祖先の霊は天にあり、上帝の左右に仕えるものとされている。帝を祀る祭祀(祭り)はまつりと呼ばれた。祀るときに唱える祝詞を入れるさい、口を加えた形が「啻」てきで、帝を祀る身分のものを啇、ちゃくという。<常用字解>

つまり自然神に関与する、自ら然る神の言である。

煩悩の滅却は修行によりある程度効果はあるが、万人ができることではない。しかも、そもそも「苦」の滅却が目的ではない。すべては諦めであり、自ら然る神の声を聞くこと。それは、お釈迦様の教えの通り、説き方に命題があることを示す。「苦」を「滅」することに主眼が置かれ、大切な「道」が思考停止になっている。

その「道」とは。

つまりどの時代にも「苦」を「滅」する「道」を考えよ、ということ。仏教では昔から「唯識」、ただしきのみ、という教えがあった。これは、意識により行動が変化するように、人間の本性は「意識」にあることを説いた学派である。また、「どの時代」という表現の中に、「愛」の純粋持続の概念が既に含まれている。

意識を変革させること。そのために多くの先達の方々は苦行を行った。「苦」と「滅」に意識を集中し続けた。そしていつのまにか「苦」を「滅」すること、それが目的となってしまったのである。その道を究めることが悟りといわれている。

しかし、実際は悟りが目的ではない。

目的はいつの時代も自ら然る神の声を聞き「道」を見出すこと。そして、常に諦めること。それが本当の目的である。いつも明らかにする。つまびらかにする。それは「愛」のチカラだ。観察し検討し精査する。その目は明らかに「愛」の眼差しだ。

いつもずっと見ていたい。それが愛の根本原理だからだ。

『愛の境界』には、『自分』『自身』を受け容れ、それを享受しつつ、『自我』の『われ』を、『』の『分身』の『汝』に映し込むところにある。『汝』に向けられる、その視線が境界を炙り出す。

この語彙全体の意味が明らかになるのは、さらに後半のエピソードに向かう必要があるだろう。このマガジンは、やっと中盤に差し掛かったところだ。

次回、エピソード8『愛の欲求』として、『愛と性』を『性』の側から見ていくことにする。



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Dr.「こころから研究所」Co-colo-color.Labo.
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