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大石順教と木村武山

かつて日本に大石順教という尼僧がいました。
元は芸妓でしたが堀江六人斬り」事件に巻き込まれて、
17才で両腕を切断されてしまう悲劇に遭遇したそうです。

その後、尼僧として仏門に入りました。
カナリアが嘴で雛に餌をやるのを見たことをきっかけに、
口で字を書く技法を習得します。
やがて彼女は、高野山金剛峰寺にて得度し、
仏道の毎日を送る傍ら、京都市山科の勧修寺に移住、
身障者の相談所「自在会」を設立し、
自分と同じ立場の身体障害者の自立を支援する
福祉活動に励みます。また、長年培われてきた
口筆による書画が入選し晩年までその道を全うしました。

順教尼

そして、木村武山という日本画家がいました。
彼は、横山大観、下村観山、菱田春草らと共に、
岡倉寛三のもとで日本画の近代化に努めた人物です。
優れた作品を書いていましたが、脳内出血で倒れ、その後、病のために右手の自由が利かなくなりました。
絵が描けなくなって絶望し嘆き悲しむ武山のもとを、
ある日、順教が訪ねたそうです。

腕の無い彼女は、口に筆をくわえて字を書くと、
武山にこう言います。
あなたには、まだ左手が残っている」と。
彼女の姿と言葉に感銘を受けた武山は、
左手に絵筆を執り、血のにじむような努力を続けた結果、
左手でも素晴らしい作品を書き上げるまでになりました。

木村武山の掛け軸より

人々は、左手で書かれた彼の作品を『左武山』と称し、
賞賛したということです。

アドラーはこのように言っています。
問題は何が与えられたかではなく、
与えられたものをどう使うかだ

私たちは、自分に与えられたものを
懸命に使う努力をしているでしょうか?

順教武山のように気づきを努力に変えているでしょうか。

与えられたものを使おうとする努力もしないで、
与えられなかったものばかりを羨んで
○○さえあれば」と出来ない理由にしていませんか?

この話は、わたしのバイブルでもあります。
アドラーの言葉に加えて「足るを知る」という事なのです。
人と違っていても、努力さえする気があれば
人が認めるだけの力を出せるという事なのです。
欲しがる物は与えられなくても、十分に足りているのです。

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