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私の「海の歌」(1)

実は今日わたしは、高木佳子さんの歌集『玄牝』の鑑賞をしていたのですが、どうしても以前に書いていた評論が発表にならないと使えない批評用語があり、今日は文章を組み立てられませんでした。変わりに最近刊行されたらしい『海のうた』を私は買ってはいませんが、そこに載っていないであろう口語短歌で、「海の歌」を思いつく限りセレクトして、私の力で鑑賞してみます。

まひるまにすべてのあかりこうとつけたったひとりの海の記念日/本田瑞穂

                「すばらしい日々」(2004年:邑書林)


わたしは実は以前、穂村弘さんの熱心なフォロワーでした。『短歌という爆弾』を買ってからしばらく、穂村さんが総合誌で提示する概念にハマり、穂村さんがいいと言っている歌が入っている歌集、推薦している歌集は必ずといっていいほど買っていました。いま、穂村さんのフォロワーでないことが、とても寂しいです。

永井祐さんの「月をみつけて月いいよねと君がいう~」の歌のあたりで、穂村さんは「批評のリアルの底が抜けた」という話をしていましたが、そのあたりから穂村さんは「何かを見た」か、「何かを見限った」のかもしれません。なにを見たか私にはわからないですが、もう穂村さんのところでは「孤独を売ってない」ことは確かだと思います。

歌集『すばらしい日々』で穂村さんが解説で取り上げていた歌。著者の本田さんは「短歌人」から「かばん」へ参加した歌人でした。                

ここにあるのは、例えば、「たったひとり」で夜の闇に溶けてしまうことよりもずっと深い〈暗さ〉ではないか。「まひるま」の強い陽光に消された「あかり」、さらにそのなかに溶け込んでしまった〈私〉の姿は、船を知らない燈台のように孤独にみえる。                         

「孤独のひかり」穂村弘 「すばらしい日々」所収

穂村さんはそのころ「とっても深い孤独」がテーマで、その孤独の質をずっと語ってくれていた。

この解説を言い換えれば、
「夜の部屋にひとりぼっちでいることが孤独ではない。その孤独は光を浴びれば消えるよ。実はまっぴるまの強いひかりのなかで孤独を感じることがほんとうに深い孤独なのだ」

と語ってくれているように聞こえます。

いま、わたしは昼夜問わず、自分が死ぬかもしれないことを意識して慌てて文章を書いていますが、まさにいまこんな孤独を感じています。私は誰も聞いていない演説を、まっぴるまから夜までしている政治家のようです。

私は短歌のためにそれでもやめないと決めました。
更新が途絶えたら、入院しているか死んだかどちらかでしょう。

               ※

この歌は、たとえば「かっと目を見開く」とか、そういう言葉を連想してみるとわかります。擬態語の「かっ」や「煌々(こうこう)と」のように、自分が強く意識しているものは、日本語では「か行音の擬態語」が多いと思います。

まひるまに「こう」とつけたもの。

それは、「すべてのあかり」でした。作者は家のあかりをつけたのでしょうか。それとも世界のあかりをつけたのか、その辺は推測ですが、ぼくは世界よりも、「薄暗い海沿いの家」を想像したほうが、よりコントラストが際立つ気がする。もちろん、それは読者の解釈に過ぎません。

ただ、この「こう」はおそらく、あかりを作者は意識してすべてつけたのです。わかっていてつけたのです。その「あかり」をいままさに浴びながら、海の記念日にひとりを感じる作者のこころを、私はつよく感じたのでした。

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