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批評とコメトラ

自分たちはその時、喜劇名詞、悲劇名詞の当てっこをはじめました。これは、自分の発明した遊戯で、名詞には、すべて男性名詞、女性名詞、中性名詞などの別があるけれども、それと同時に、喜劇名詞、悲劇名詞の区別があって然るべきだ、たとえば、汽船と汽車はいずれも悲劇名詞で、市電とバスは、いずれも喜劇名詞、なぜそうなのか、それのわからぬ者は芸術を談ずるに足らん、喜劇に一個でも悲劇名詞をさしはさんでいる劇作家は、既にそれだけで落第、悲劇の場合もまた然り、といったようなわけなのでした。
「いいかい? 煙草は?」
 と自分が問います。
「トラ。(悲劇トラジディの略)」
 と堀木が言下に答えます。
「薬は?」
「粉薬かい? 丸薬かい?」
「注射」
「トラ」
「そうかな? ホルモン注射もあるしねえ」
「いや、断然トラだ。針が第一、お前、立派なトラじゃないか」
「よし、負けて置こう。しかし、君、薬や医者はね、あれで案外、コメ(喜劇コメディの略)なんだぜ。死は?」
「コメ。牧師も和尚おしょうも然りじゃね」
「大出来。そうして、生はトラだなあ」
「ちがう。それも、コメ」
「いや、それでは、何でもかでも皆コメになってしまう。ではね、もう一つおたずねするが、漫画家は? よもや、コメとは言えませんでしょう?」
「トラ、トラ。大悲劇名詞!」
「なんだ、大トラは君のほうだぜ」
 こんな、下手な駄洒落(だじゃれ)みたいな事になってしまっては、つまらないのですけど、しかし自分たちはその遊戯を、世界のサロンにも嘗かつて存しなかった頗すこぶる気のきいたものだと得意がっていたのでした。

太宰治『人間失格』(青空文庫版)


なんか見覚えのあるシーンとおもった人もいるかも知れない。太宰治『人間失格』の主人公たちが、世の中にある名詞をおふさげでコメディ(喜劇)とかトラジディ(悲劇)に分けていく遊びのシーンだ。

こんなに皮肉っぽくなんでもコメディと言ったりするのは遊びだと思うし、人生の歩みにも、生きることにも悲喜こもごもがあったりして、簡単にどっちって分けられる問題ではない気がする。でもコメディ・トラジディという分け方はいまでも魅力的で妖しい光を放っている。

もしこういう区別に意味があるとすると、楽観的(前向き)な考え方、悲観的(後向き)な考え方があるという感じかもしれない。

作品にも文章にも、たとえばSNSのページの装飾でも好む雰囲気が「お花いっぱい」だったりして、「前向き」なイメージをまとっている人っているし、「後ろ向き」なイメージが好きな人もいる。

うちの妻も、人生があまりにも理不尽でずっと苦労してきたのだけど、彼女の絵にはまったく濁りがなくて、とにかくカラフルで明るい感じ。思わず魅入ってしまうような楽しさにあふれていた。

じぶんの人生も理不尽だったけど、妻とは全く対象的にずーっとくよくよくよくよ自分の哀しみばかり歌ってきて、最近「批評」も力を込めて書くようになった。批評の原動力って、猛る心というか、なんか「怒り」のような亢ぶりが自分に兆すことだったりする。怒りそのものではないんだけど、ネガティヴな感情であることは間違いないかもしれない。

ぼくは楽観的な見方で人を楽しくさせることはあまりできないから、自分が悲観的な見方だなという前提でいうけど、「くよくよしていいよ」と最近自分に言う。「くよくよしてる自分を嫌いにならない範囲ならいい」と思う。

たとえば太宰治は、「人間失格」も書いたけど「走れメロス」のようなめちゃくちゃすごい人間賛歌も書いたじゃないか。

ぼくだっていつも、「短歌やってるだけで成功」とか「短歌をやってる人は尊い」とか、根拠のない楽観論を述べるツイートとかでバズを稼ぐようなのって、「え、短歌やってるだけで成功?! それって根拠のない自己肯定じゃないか」とか思ってしまって、すっごい嫌なかんじになるけど、ぼくがいつもいつも「後ろ向き」ってわけじゃない。

ずーっと後ろ向きだった人が、あるとき、なんかの拍子で「周囲を肯定」するようになると、ほんとメロスを一日セリヌンティウスのために走らせちゃうような「信じる力」だったり、とんでもない「馬鹿力」がでることがある。後ろ向きの人は実は、ギアをぐーっとためていて、前向きになった途端ロケットスタートできるんだ、と思っている。

いつも批評でぼくは「悲観的」に、嘘くさい嘘くさい、ほんものはほんものは、なんてことを言っている。でも「ほんもの」なんて周りをキョロキョロ見回してもなくて、自分自身のなかにしかないじゃん。

ぼくは心のふかいところから出す短歌を目指しているので、投稿するなんてすごい勿体ない気がしている。褒め言葉も無く、新聞に1首掲載されるより、その一首を信頼できる人、ほんとうにわかってくれる人に大事にみてもらって、「これは、すごいのできたね」って言ってもらいたい。

なんかガラス細工をつくっている職人が、火からおろした溶けた飴みたいなガラスをそのまんま取り出して固めるみたいな、そういうものだと思っている。

だからそういう体験を初心者のうちから積んでおくと、選ばれる楽しみよりも「自分のこころの奥底」をわかってもらえる感動のほうが強くて、そのわかってもらえるという「希望」のほうが短歌の効果なんじゃないかとかんじる。

最近ぼくは、「ひとが輝いている」のがみたいと思う。「こころを輝かせている言葉」がほしい。当然「誰かの輝き」でいい。そしてその輝きを「あなたほんとにすごいね」って激賞したいし、褒めちぎりたいし、とにかく言葉で「うわっ、すげー」って言いたい。

ぼくは文章好きだから文章でそのことを人に伝えたいんだと思う。


選の仕事なんてほんとぼく一度少しやったけど、小さな選でも、なんか二度とやりたくないなと思った。

雑誌の選なんて小遣い稼ぎのようなもので、うわべだけ取り繕って原稿完成させて終わらすみたいな感じだった。雑誌には雑誌の規定があるし、歌の多い少ないに合わせて評を多くしたり少なくしたりが出来ない。こちらで決める選なんてほぼない。政治的な理由も多いしね。

それで仕方なくのせると「雑誌に載りました」なんてツイートがでてくるんだから、「本気でこの人たち俺の選とかどうでもいいよな」と思って、しらけていく一方だった。

とにかく心が荒む。盗作みたいなのがあると「選者の責任」なんて言われるんでしょう。メンタルやむ仕事でした。

ということで思いついたことをポンポン言葉にしていくんじゃなくて、うわーーすごい輝いている!! っていうことをきれいに言葉にしていきたいから、今後は「心からいいと思った」ものを取り上げたいです!!

ではでは!

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