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「けり」のつけ方

もともと「けり」とか「文語調(古典のことば)」というのは、男女とわず格好いい感じがある。たとえば、現代語で「やめて!」というのと「やめよ!」というのでは言葉がもつ格好良さが全然違う。

ぼくは格調なんて言ってしまうけど、ほんとに格調のある文体を目指すなら完全文語(なるべく口語っぽい言い回しを排除する)が良い。この言い方で、何か非現実のことを歌うと、ものすごく歌が「格好」よくなる。

格調について

 ところで、格調や格好の「格」という漢字はいまでも様々な言葉で流用されていて、なぜこんなに日本語で格という熟語が多いのかというと、古代の律令制の日本で律令を補う法律を「格式」と言って結構使っていたかららしい。現代でいうと「政令」みたいなものか。格、は、語源は「木でできた枠」のことだったりするから、「格納」が一番語源に近い言い方になる。そこから、身分、制度、地位なんてものを表し、その後、「格そのものがかもしだす個性」という感じにも使われるようになった。

いまの人はしないけど、戦前くらいまで「そのひとがかもしだす格調の高さ」を見てそっと自分が下がる、なんてことはよくあった。格が違う、格が高いなんていい方をするけど、現代でぼくらがそれを感じとれる例というのは天皇家の方だけかもしれない。

上皇・上皇后陛下がまだ在位されていたとき、「ニコニコしたおじいちゃんとおばあちゃん」くらいの印象だったけど、震災があると国民の前で膝をついてお話をされる。それを見て思わずぼくは泣いたことがある。ただの「ニコニコおじいちゃん」なのに、被災地の人はみんな涙を流している。国民はみんな平等だけど、何もしてないのに「自然に醸し出す個性」を感じるのは、ぼくらの経験では陛下の存在くらいだった。

天皇誕生日に「あんまり絡んだことないけど おめでとっ!!」というデコ画像をアップした若い女性がめっちゃ叩かれてたことを思い出す。その時、ぼくはそのツイートをみて大爆笑した。
ぼくは女子高生らしくて自由でクールな感じがする。(「もうちょっとキレイにデコってあげたらいいのに」と思ったりしたけど。)新しい若者の感覚を天皇誕生日に見れて楽しかったけど、僕は同時に昔の「不敬罪」のことを思った。天皇の格調におびえて、周りが勝手に「不敬罪」とか言う。天皇は海外ではハッピーバースデーとしか言われようがない。だから海外で結構言われなれてるから平気だと思うけど、若者が言っちゃだめなのか。そんなことを思った。

吉川宏志さんの天皇の歌

天皇が原発をやめよと言い給う日を思いおり思いて恥じぬ 

 吉川宏志『燕麦』

吉川宏志さんの歌だ。ぼくはこの歌ではどう考えても「そんなふうに考えた自分を恥じた」のだと思う。『燕麦』は第六歌集。真剣に福島を取材した歌集で、立場どうこうというより、吉川さんの最大の名歌集だといまもぼくは思っている。この歌で作者は「天皇が政治に口を出してくれればいいのに」と思った。しかし、そう考えたを自分を恥じた。

ぼくもたまにそんなことを思うこともあるけど、天皇制を廃止して天皇に人権や選挙権を与えてしまったら、どう考えても僕たち国民は選挙があるたびに「天皇陛下がどこに投票されるか」を気にするかもしれない。立候補なんてなさったらほとんどの人が自民党より陛下にいれると思う。(雅子さまに外務大臣になってほしかったりして…。)そう考えることがとても危険なことだ。君主制は意外と、民主主義から生まれるのを歴史好きはみんな知っている。だから作者は「恥じた」のだと思う。歌に書いてはいないけど…。吉川さんの社会詠は、こういうナイーヴな「自分を省みる心」が出ると私たちの感情を揺すぶる。解釈は多様になるけど、この歌は名歌だ。  

軌道修正(「けり」の付け方)

いきなり脱線をしてしまった。今日は「けり」を使った名歌だった。けりは「意味」だけいうと「過去」とか「詠嘆」になるけど、効果をいうと「歌を休止する」効果があると思う。

「けり」をつけると、うねうねっとした歌をふっと止めることができる。この「けり」にも上手い下手があって、戦後の歌人で「けり」がべらぼうにうまく見えるのは、葛原妙子の「あの歌」を置いて他に考えられない。

奔馬(ほんば)ひとつ冬のかすみの奥に消ゆわれのみが累々と子をもてりけり

葛原妙子『橙黄』

「この歌に「けり」が使われている」ことを知ったとき、椅子から転げ落ちた。だってこれ、「われのみが累々と子をもてり」で、十分意味が通じる。私自身、この歌を「もてり」の歌として暗誦していて、かなりあとになってから、「もてりけり」の歌だ、と知ったのである。「えええっそんな破格なあ」とのけぞったら椅子から転げ落ちてしまった。

この「けり」は破格だ、と思う。べらぼうだ、という意味もあるけど、「型破り」だと思う。でもうまくいえないけど、「もてりけり」からけりをとってしまったら、なんか不足感がある。

これは詠嘆のけりだけど、「もてり」の「り」で歌は完了していて、本来は助動詞の「り」に助動詞を重ねるなんてしないと思う。作者はそこに「ああ」みたいな詠嘆を「チョイ足し」したのだ。インパクトとしては、「もてり」で歌はだいぶストップしているけど、もうちょっとだけなんかほしい、そんな「チョイ足し」の「けり」のような気がする。

この「けり」の詠嘆の効果を考えると、「累々と」という異常な名詞の使い方をさらに引き立たせるため、と言っていいだろう。「先祖から未来までつらなりあっているようにずーっと」というのが「累々」だけど、子を累々と持つ「私」の行為が連続することにたいして「ああ」とやや目眩を覚えた。累々を活かす言葉として、この「チョイ足し」された「けり」ほどふさわしいものはない。

戦後歌人の「けり」~森岡貞香さんの歌


戦後歌人で、「けり」の用法が上手い人というと、意外と女性な気がしていて、「格好いい」止め方で葛原妙子さんの他は、森岡貞香さんとか花山多佳子さんがまっさきに思い浮かぶ。花山さんはまた最新歌集を後日書くとして、森岡さんについて話をしてみよう。

歌集『珊瑚數珠』の頃の森岡貞香さんは、とにかく「けり」をつけまくってるなあ、という印象があって、ぼくが久しぶりに全集を開いたら「けりけりけりけり」ってもう4ページに6つも7つも見つかった。

みつめられその眼の奥に棲まむとき愕きてわが立ちあがりけり

「黄葉ふりしく」

雪塊の漾ひたれば空うつるみづのうへ道のうへをゆきにけり                      

「水のうへ」

弱火なる食のぬくもりけものめき待つとふことの永くありけり

「水餅」

立葵咲きあがりゐて日面はゆれやすくあれば目をつむりけり

「逗子の舊居邊」

全集(「定本:森岡貞香歌集」(砂子屋書房))をえいっとどこか開くと、けりのオンパレードなので、一番少なそうなページを選んだ。しかし、なんというか森岡さんの気息を考えると、けりが多いのはとても自然な感じがする。けりは猛スピードで動く心を「止まれ―」と急に止める感じで使うときにはふさわしくない。

もともとが「た」。くらいの意味だ。もし、歌のなかで韻律を急停止させる感じで使うなら「なり」の方が良い。

みつめられその眼の奥に棲まむとき愕きてわが立ちあがりけり
                    筆者注:愕きて(おどろきて)

同上

たとえばこの歌を見て欲しい。これらの歌のなかでは一番好きな歌だけど、森岡さんにとって、「歌の調べ」というのは一気に言い切る感じではなくて、常に「うねうねうねうね」しているという印象がある。

人間って何かを見つめることって多いけど、自分が見つめられることって少ない。この歌はなにか(だれか)に見つめられて、なんと目の奥にいるのが自分かもしれないと思って(推量して)しまった。基本、みつめるときというのはじーーっと息を凝らしている。自分が見つめられているときを想像してみて欲しい。「あれ?なんか見つめてるな」みたいな感じで、最初はきょとんとして「様子を窺う」のではないか。

(みつめられるのは自分が食べられる前と想像するとホラーが入る)

この「窺うこと」はきわめて静かな動作だけど、やがて「目の奥に自分がいる」ことを感じて驚いて立ち上がる。韻律はこの行為に沿っている。

「窺っていた」行為がまさに、

みつめられその眼の奥に棲まむとき/

であり、

急に立ち上がったのが

/愕きてわが立ちあがりけり

となる。

立ち上がりけりは、その静かな所作から「立ち上がる」という急な「動きに変わる」とき、「ちょこん」と「けり」が載っている感じ。ほんと「ちょこん」という感じの用法だということがわかるだろう。

同じような感じ、他の歌にも言えるのだけど、たとえば4首目の立葵(たちあおい)はそれがはっきりわかる歌だ。

立葵咲きあがりゐて日面はゆれやすくあれば目をつむりけり

同上

この歌も変な歌で、上の句から下の句へ一気に歌が流れたという感じとは全く違う「うねっとした感じ」を味わう事ができる。

「咲きあがる」というのはどんな感じかわからないけど、立葵という種は花がたくさん咲くそうで、下からだんだんだん上に花がさいていくそうだ。ある日作者は立葵が下から上に咲いている途中なのを見つける。

そして、日面(ひおもて:日の当たる場所・ひなた)は、揺れやすい(すごく不安定な状態)ことに気づく。ゆらゆらゆら、花が満開ではないから風などが吹くと不安定なのだろう。これは僕の推測だけど。

そんな不安定な状態だったので、目をつむったよ。

という因果関係が3つもくっついてくる歌になる。

意味の切れ目で切ると

立葵咲きあがりゐて/日面はゆれやすくあれば/目をつむりけり

と3つに分割できるのだけど、立葵の句、日面の句、目をつむる結句に分割すると、なんか変な因果関係だ。ある日、立葵がだんだん咲いてきて、ひなたはゆれやすいので、目をつむった。そんな感じになる。

なんで?

と野暮なぼくは思う。

模範回答としては、たぶん「ゆれやすい」というのは「作者の心」と密接にリンクしていると答えるのだろうか。作者のこころもすこし不安定だったので、これ以上みつめていると自分も心配したり不安になってしまう。だから「ふっ」と目をつむったのだ。

このとき、うねっとした韻律をとめるために、ちょこっと「けり」がつく。こんなふうにちょこっとつけるのが「けり」の付け方だ。

「昔、男ありけり」なんてのが伊勢にあったけど、この「けり」は、「昔、男がいた」、みたいに「~だった」の過去である。57577は長いので、結句にけりをつけるときは、すべてのことばを全部「けり」で止めるより、すこし思考がうねうねっとして最後にちょこんと「けりが付く」ほうがうまい「けり」の付け方だと僕は感じる。

こんな「けり」の付け方は現代でも受け継がれた。

楊のいふ海がわれの海とは異なるを別れてをのち気付きたりけり
筆者注:楊(ヤン:中国の人。前にルビあり)

高木佳子『玄牝』

近年の歌集でずばぬけて文語の品格の良さを感じさせるのは高木佳子さんの『玄牝』だ。この歌の楊さんは中国の方なので、同じ海でも、地図で見ている海が違う。そのときにすぐ気づいたら、「り」を使うだろうからこんな感じになる。

楊のいふ海がわれの海とは異なるを気づきたり~

となり、あとは歌としてなにか別の言葉を埋めるだろう。この歌の場合、けりは「別れてをのち」という時間の経過があるから、「けり」になっている。そのときは、作者も楊さんと口論していたのかずーっと気づかなかった。しかし、けっこう経過してから「気付いた」。この時間の経過をうまく「けり」で表していて、さすが。おもむきが違う。

『玄牝』はまたいつか取り上げたいすごい歌集なのだけど、誰もこの歌集の良さを言う人がネット上にいなくて僕は困っている。またいつか「ニュアンス」とか「動き」を僕なりにとりあげた鑑賞を書きたい。

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