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嶋稟太郎さんのこと

嶋さんは未来短歌会の唯一の「後輩」といってもいい人だ。何度かうちに来てもらって、妻の絵を見てもらったこともある。ご夫妻が主催する歌会にも出席させていただいたことがある。

いまぼくはあまり公の場にもでてないから、そんなに人との交流はないけど、ほんと3ヶ月に一度くらいLINEがあると嶋さんだったりする。「密(みつ)かはわからないけど交流は続いている人」である。

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最初嶋さんを知ったのはいつだっただろう。大辻さんの歌会だろうか。彼は桜井登世子さんの欄だったから、もっと前かもしれない。ぼくは彼の謹直な人柄にとても好意を抱いていて、出会ったときからなんとなく気にかけていた。

自宅に佐太郎の『帰潮』の文庫がたまたま二冊あったので差し上げたことがあった。彼は真剣に近代短歌を読もうとする意欲を持っていて、その姿勢にぼくはさらに好意をもった。

ぼくが「社会復帰と創作のジレンマ」に悩んでいたとき、他の結社の「土屋文明合評」などの連載を引き受けていたけど、結局体調不良で投げ出した事がある。そのとき、後任には嶋さんを推薦した。

その時嶋さんは「これから」という時期で、今みたいにパネリストとかの仕事もなく、まだ一つも未来の賞をとってもいなかった時期だったと思う。でも「できる人は嶋さんしかいない」と思った。その折も、無事大役を果たしてくれたようだ。現在は社会人としても歌人としても順調そうで、今後もなにかと表にでて安定した実力を発揮してくれるだろう。

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今年彼は「未来評論・エッセイ賞」を受賞した。その前もよく未来や短歌研究などで賞に絡んでいたから、「文章も書けて歌も上手い人」というカテゴリーに入っていそうだ。

そういえばぼくは「未来の賞を全部とった人」でありながら、一度もパネリストや座談会に誘われたこともない。しかし彼は引っ張りだこのようだ。

実際ぼくは「体調の悪い人」と公言しているし、「何を言い出すかわからない人」と思われているかもしれない。嶋さんにはそういうハラハラ感はない。ぼくは今知名度も嶋さんより低いので、このnoteを毎日頑張って、嶋さんに追いつけるようになりたい。

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………という殊勝なことを言って、このnoteを終わらせれば、ぼくの印象も少しはアップするだろうなんてよこしまな計算をしたがやめた。

今日はそういう僕の「短歌界での微妙な立ち位置」や「これからの抱負を話す回」ではないのだ。評論・エッセイ賞受賞をきっかけに、僕は彼を歌人としてみることに決めた。

既に『羽と風鈴』という歌集が2022年に刊行され、今年の評論・エッセイ賞も嶋さんだった。現在の未来の時評担当も嶋さん。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いである。

まず歌集を手がかりに、嶋稟太郎という歌人はどんな歌人なのか、すこし深堀りしていきたいのである。

誰に対してもそうだけど、僕は「プライベートな交流」に懲りてしまったので、「後輩としてみる」のではなく、「歌人として見る」と嶋さんにも宣言しておく。それは、いいたい放題言わせてもらうということだと思うけど、まあそれで僕らの交流が途絶えることになっても、ぼくはいいと思っている。

ぼくはAさん向けの顔とBさん向けの顔を使い分けられるほど器用じゃないし、文学者がもっとも大事なのは「自分の見解を守ること」である。別に戦うわけではないけど、おもったことをはっきり言わせてもらうと心に決めて、歌集を読んでいくことにする。 

『羽と風鈴』について


まずぼくは『羽と風鈴』が出版された頃から読んでいて、長いこと、今いち読解する気持ちになれなかったことを告白しておきたい。嶋さんへ感想を書くと前から伝えておいて、ぼくは長く答えに窮していた。

「最近の若い歌人の範型」というと、たとえば土岐友浩さんを思う。

「永井祐さんみたいな文体だから悪い」というつもりはないけど、シンプルで抑制的な表現で、かつ内省的な歌が特徴というか、そういう歌ばかりが有名になっているように見える。ぼくは「ひかえめの表現」ってとてもニガテな人なので、「ひかえめが流行」しているように見える口語短歌の現状を、すこし苦々しく見ていた。

嶋さんもそういう系列の歌人かもしれないという不安があった。だからぱらぱらとめくっても「なんとなくいい感じにまとまってる歌集なのかなあ」と、当初の私の「期待値」は低かった。読むスピードが遅くなったわけではなく、読む順番がどんどん後になった。

ぼく自身はいい意味でも悪い意味でも感情的な歌を作るので、「喜怒哀楽」がはっきりしている。ところが一読、嶋さんの歌集は喜怒哀楽がかなり抑えられているというか、「歌の情報量は十分なのにどんな感情で書いたかが丁寧に消されている」ことのほうが多い。きれいめに作って、感情を読者に想像させるのが、口語短歌の「現代調」なのかもしれないと不安になる。

                ※

巻頭はこんな歌で始まる。

しばらくは地上を走る電車から桜並木のある街を見た

「大きな窓のある部屋に」

これは上の句の「しばらくは」を味わう歌なのだろう。ぼくは横浜に住んでいて東急などの「私鉄事情」を知っているから、この地上は高架のことなのだとなんとなく予測する。

用地買収などの問題があって高架と地下がまだらになっているのが最近の首都圏の私鉄である。事故や交通渋滞を避けるために、「踏切を作らない工夫」をしている。近年も東急東横線が、大規模な高架化工事を終えた。

この歌の「桜並木のある街」は高架橋を走る電車の大きな窓から、街を見渡すようにいっぱいに広がって見えたのだ。しかも、「しばらくは地上を走る」という言い方で、やがてこの電車が地下に入ることも作者は理解している。

「時間限定のうつくしさ」

というのをほんとに過不足なく歌にできている巻頭の歌である。見立てもいいし、読者へ示す情報の量もちょうどいい。

午(ひる)すぎの静かな雨を通り抜け東急ストアでみかんを選ぶ

「大きな窓のある部屋に」

二首目で作者は東急ストアで買い物していることがわかる。そうすると東急沿線だ。

これは色の鮮やかさを見せた歌だろう。「午(ひる)すぎの静かな雨」だから、当然空は白っぽい。しかし、雨を通り抜けてたどり着いた東急ストアで、冬ごろになるといきなり目玉商品みたいにみかんが並ぶ。これは私たちも体験したことがある。スーパーは大体入口近くが青果売り場で、あの鮮やかな色のみかんが袋詰めにされてずらっと店頭に並べてある様子はちょっと「おっ」と思う。それを色の対比として、作者の目を通して読者に見せようとする。

一首目もそうだけど、「ある光景」をみて、「わーきれい」とか「あっ、みかんだ」とは作者は決して言わない。作者はまるで読者の目の代わりというか、感官の代わりを果たしているようだ。

「読者のこころが動くような風景をしつらえて、どう感じるかを読者に委ねる」

これが作者の役割だとしたら、若い歌人の考える現代短歌の作者はだいぶ昔と違うことになっているかもしれない。そんなふうに考えながら読み進める。

円柱が人の流れを分けている南北線の地下のホームは

昨日より流れの増した多摩川を見下ろしている窓にもたれて

地上までまだ少しある踊り場に桜の花が散らばっていた

赤い火がときおり起こるうなぎ屋の小さな窓を雨の日に見た

「大きな窓のある部屋に」

だんだんこの連作の水準というか、こんな感じの歌が並ぶんだろうなというのが見えてくるのが10-11pの4首である。もちろん時系列ではなく連作に沿って並べてあるのだろうけど、不思議と単調な感じがしない。

円柱が、人の流れを分けている、南北線の地下のホームは。

昨日より、流れの増した多摩川を、見下ろしている窓に持たれて。

地上まで、まだ少しある踊り場に、桜の花が散らばっていた。

赤い火が、ときおり起こるうなぎ屋の、小さな窓を雨の日に見た。

読者のぼくがどう読んだかわかりやすいように「リズムの切れ目」で句読点を入れてみた。短歌の韻律と噛みあっているから初句のあとはなんとなく「、」(一拍空き)になる。リズムの切れ目だけみると綺麗に「三句の分かち書き」のように見えるし、どの歌もみな定型で読まれていて、リズムの切れ目が揃えてあるから、「単調」だとは思われないだろう。

ただ、歌の意味の切れ目はそれぞれ違うようだ。

昨日より流れの増した多摩川を見下ろしている/窓にもたれて

地上までまだ少しある/踊り場に(/?)桜の花が散らばっていた

韻文も文なので、文章として意味が変化しているところを「/」で区切ってみると、引用2首目は「~見下ろしている」までが風景で、「窓にもたれて」は作者の様子に変わる。3首目は「~踊り場に」でリズムどおりに切るという意見もあると思うけど、ぼくは2句目「~まだ少しある」で区切るとおしゃれだと思う。

作者がこころのなかで「地上までまだ少しある」と自分に向けて言うと読めば、作者の視点がくきやかになる。なぜなら、地上から「踊り場に桜の花が散らばっていた」から。これは「希望を表している」と心情を汲んでもいいし、因果関係をとってもいい。いずれにしても「意味の切れ目」をたどってみるのも、韻文にとってすごい大事な作業だと思う。

              ※

Ⅰの連作「大きな窓のある部屋に」をこうして読んでいくと、やはり作者の意志が強く介在していると感じる歌は少ない。むしろ私が重要だと感じている「作者の感情」や「できごと」が目立たないよう、丁寧に消されている。

しかし、作者はその作業の過程で故意に「消し残している」箇所があり、それと消した部分とのギャップが、読者にある種の驚きを生ませる効果があると言える歌もある。

そういった歌も紹介する。

透明なボックスティッシュの膜を裂く余震のあとの騒ぐ心で

大きめの地震のあとは電話しない走る時間を減らしたくない

「大きな窓のある部屋に」

これらは、本来はメインテーマとなってもいい「地震」の歌である。嶋さんは1988年石巻生まれとあるから、「東日本大震災」について縁のなかろうはずがない。(さらに嶋さんはぼくより10年年少で、36歳だということもわかる)

恐ろしいことに、連作の中で、彼はこの「余震」とか「大きめの地震」という言葉で連想される震災をそのまま描くのではなく、「震災を気にしながら生きる日常」を書くと宣言しているように見えたのだ。

それは透徹した態度のように見える。

あれだけ悲惨なできごとも、嶋さんの日常のなかではただの風景にすぎない。これは、例えば日常のなかにゴジラが出現しても、ゴジラを見るのではなく「ゴジラが横切った街にいるわたしの日常を書く」といっているようなものと考えればわかりやすい。

人間だからふと「大きな事件」に振り向いてしまうこともあると思うけど、この歌集からそういった様子は丁寧に消されており、事件があったという痕跡だけが残っている。

それが「うつくしい」態度かどうかは私にはわからないけど、なにか主知的で、とてつもなく理性的な態度のように思った。

予定より早く会議を終わらせて大きな部屋にわたしは残る

長生きをしたいと思う目を閉じて開(あ)くそれだけの祈りのあとは

「大きな窓のある部屋に」

作者は感情を抑制しているのではなく、「感情を読者に追体験させるように
道具立てをしつらえている」ように見えると指摘した。

これらの二首では、一首目と直後の二首目の差を指摘したかった。一首目は、「大きな部屋にわたしは残る」という提示をすることで、その感情を読者に追体験させる仕立てになる、嶋さんのオーソドックスな技法であると言えるかもしれない。

しかし、もちろんすべての歌をそのような主知的な歌にしているのでは?という私が考える「作者像の推測」に作者自身がとらわれるはずもない。

作者は「読者は作者の心情を察知しようとする」のをどこかでわかっていて、もっとも効果的な形で感情を読み取らせようとする。

長生きをしたいと思う/目を閉じて開(あ)く/それだけの祈りのあとは

ここまで意味の切れ目をいれてぼくは最初、誤用かな?と思った。「目を閉じて」は「作者の意志」と考えれば、「開く」というのは「自然とそのようになる」といういわゆる「文法でいう自動詞」だからだ。「閉じて」に対応する言葉なら「開ける」を選択するのが自然だと思う。

しかし、これが文語だったり誤用ではなかったとしたら、恐ろしいことになる。

まず作者は自分の意志で「長生きをしたいと思う」と願った。当然それは「祈りのあと」である。そして、目を閉じて(自分の意志とは関係なく勝手に)「開く」スパンの間のことを「それだけ」と言っている。こういう仕掛けを読むと、なんか異様な感じがする。開くが勝手に目をあけたような印象があるからだ。

             ※

今回は『羽と風鈴』の第一章を中心に嶋さんの作品を鑑賞してみた。また書きたいことがあったら追加するけど、字数的にはこのくらいだろう。あとは余裕があったら、文章なども見ていくこともできたらと思う。
長いのでとりあえず終わりにしたい。悪口が書けなかったので、また追加すると思う。


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