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自己分析① 何故、他人を恐れるのか
序
筆者は元来、他人の目ばかりを気にして、他人から嫌われることを嫌って、他人の心理をなんとか読み解こうとして、その実現不可能な試行に囚われて、ただただ徒花を咲かすことばかり繰り返してきた人間です。人の心を読めるはずが無いのに、本当の本音を知る術はどこにもないのに、そのような芽吹くはずのない、結実するはずのない試みに固執してしまう主な理由はきっと、「自己肯定の不足」と「他者に対する過度の恐怖心」であると自覚しています。まず自己効力感の欠如によって、他者からの承認、すなわち他者の心理的要素に起因する働きかけが自己に向けてもたらされる承認イベントを、精神安定に向けた唯一の糧として切望する性格が形成されました。しかし、承認欲求とともに存在する他人への畏怖がその障壁となり、承認を求めた人脈の拡大すらできずに、結果として、他者との関わりを避けながらも他者からの肯定を要求する、矛盾の塊のような人間性が形作られたのです。
さて、筆者の人間性について簡潔に説明したところで、ここでは前者の自己肯定感に関する話は一旦棚に上げ、まず後者の要因について触れておきます。他者に対する恐怖心あるいは忌避感のようなものが如何様に生み出されたのか、自己分析の一環として考えてみたいと思います。
残念ながら筆者には、高度な文学的素養も、心理の内奥を的確かつ漏れなく言語化する能力も備わっていないため、このnoteでは、衒学的な文章や詩的な表現を用いることもなく、私の持つ語彙の範疇にある言葉と、極めて平易で単純な文章をもって、いま明瞭にしたい事柄を一つずつ述べていきたいと思います。
一
他人と関わること、すなわちコミュニケーションとは、人間にとってこの上なく重要で不可欠な社会的営みであり、同時に最も困難な課題であるといえます。その場面、その相手、その前後関係によって正解の選択肢が簡単に揺らいでしまう「対話」、それは謂わば解無しの数式を延々と解かされるが如き試練といえるかもしれません。
とはいえ、社会に於いてそれが困難なものとして扱われることは殆ど無く、社会生活の中で毎日のように繰り返されるルーチンワークとして、人々はそれをいとも容易く、そつなくこなしているのが現実なのです。
そもそも、当然の前提として、コミュニケーションにおいて交換される対象物は人々の外面だけであり、そこで「本心」は必要ありません。対話の最中に心の中で何を思考していようが、何か嘘をついていようが、相手にとっては極めてどうでもよく、一切関係のないことです。
つまり、人々は一般的に、他者の内心という解のない問いを追い求めることが、如何に徒労であるかを(意図的に、または無意識のうちに)理解しています。わざわざそのような徒労に囚われることなく、決まった仕事・作業の一環として、毎日のコミュニケーションを遂行しているのです。
ではなぜ筆者は、他者の心理という解のない問いに籠り、無意味な恐怖心に苛まれているのでしょうか。なぜ、いくら考えても無駄なことによって、いつまでも苦しめられているのでしょうか。
その答えは簡単で、他者の心理という問いに解がないこと、それが怖いからです。
二
蓋し、恐怖とは未知であり、未知とは恐怖です。知らないもの、共感できないもの、理解できないもの、それらはすべて未知であり、自己理解の範疇を超えた恐怖でもあります。
死という最大の未知に対して、人々が恐れ慄き、死から逃れる方法や極楽浄土に行く手段を追い求め続けてきたように、あるいは死とは何か解明・理解を試みてきたように、筆者は他者の心理という莫大な未知に怯え、対話から逃れるにはどうしたらよいか、もしくは他者は何を考えているのかを必死に紐解こうとしてきたのです。
その未知(≒恐怖)に打ち勝とうと解明を図っても、当然答えを知ることは出来ません。そうしているうちに空虚な行動パターンから抜け出せなくなり、まるで他者が極めて深遠であり、理解の及ばざる存在であるように感じ始めてしまったのです。
他者の思考回路が自分の理解の範疇にないこと、すなわち自身が持ち合わせている知識体系の埒外に在することは、確固たる恐怖とともに、一種の神格化のようなものをもたらします。単に「理解できない」他者のことが、まるで高尚な上位存在のように見えてしまい、他人を避けてしまう原因をさらに作り出してしまうのです。この悪循環に巻き込まれて、精神は一層暗い闇の中へと迷い込んでいきます。
ここで、先ほど棚上げにしていた自己肯定感の欠落、すなわち自己嫌悪が重要な鍵となってきます。
三
まず、筆者は本心から、自分こそがこの世で一番醜い人間であると考えています。なぜなら、自分が知覚できる「心理」あるいは「性格」は、自分自身のものしかないためです。サンプルが1つしかない以上、自分の清廉さ、あるいは醜さが定量的なパラメータで表されるならば、唯一の標本として値は最大値をとり、同時に最小値もとることになります。よほどの自信家であれば、それ(己の心が唯一の取得可能な統計量であること)を根拠に「自分こそが最も潔白な人間である」と主張できるかもしれませんが、残念ながら筆者にはその勇気も気概もありませんでした。
そして、ここで生じるのが、過剰なまでの自己認識の悪化、そして他者に対する過度な神格化・美化です。自分自身の心理が如何に醜いものであるか「だけ」を自覚しているがために、認識できないブラックボックスである他者心理に同様の醜悪さが備わっている事象が想像できないがために、もしも自己の価値基準のうえで「醜い」とされる行為や言動、振る舞いが他者によってなされる光景を観測すれば、自分の所有する醜悪とそれが重なり、相手に向けた嫌悪感のベクトルが無意識のうちに自己方向へと変換され、「他者に対する自己嫌悪」という、またしても矛盾に包まれた心理状態が発生するのです。
こうした精神状態のもとで考えうる最悪のケースが、自己と同一化された他者に対して、ふだん有り余るほど胸裏に抱いている自己嫌悪のエネルギーが加害性を帯びて襲いかかる、という事態です。先述の価値観によって作られた、非常に強い自責思考のエネルギーがそのまま他者に降りかかることで、ふつう誰にも迷惑を被らせるはずのなかった自傷行為が、明確な加害・暴力と化してしまうのです。
すなわち、倫理的・人道的に好ましくない行為を見たとき、あるいは自分とよく似た過ちを犯す人を認識したとき、自分以外に存在するはずのない醜さが他者に在する事実を受容できず、自分と対象人物が同化するような感覚に陥り、相手が己の保有する恥部の一角として、または単なる自己嫌悪の対象、その一部として認識され、果てしない憎悪の感情に襲われるのです。
結
他者を恐れ、人混みを避けた人生を送ったとしても、単に自分の殻に閉じ籠もって陽の光から逃げ続ける生活を続けたとしても、それはただただ自分が苦しむだけで済むと考えていました。なぜなら、そこで自責思考が中核を担っている以上、敵意や憎悪を他人に向ける機会は少ないと感じていたからです。
しかしながら、その恐怖の根源から影響までを深く鑑みると、この極端な感性は基本的に有害であるどころか、場合によっては強力な加害性を纏うリスクを孕んでいることが明らかとなってきました。
解決策を講じるならば、人の心は分からない、という未知を単なる恐怖として避けるのでなく、「自己と他者は異なる存在である以上、それは当たり前のこと」として上手く消化するべきでしょう。普段暮している世界の中には当然、自分の理解が及ばない技術によって作られた製品や数多の制度が存在しており、その存在に疑問を感じず日々過ごしているように、「未知」を「未知」として処理している事柄は幾つもあるはずです。
それらと同じように、一見果てしなく難解に見える他者の内心という神秘も、「そういうもの」として上手く噛み砕くことができれば、より健全な精神を手に入れられると信じています。今実行することが難しくとも、いずれは。
今回の記事は以上とします。この駄文に最後まで付き合ってくださった方がいれば、心より感謝いたします。