秘密から見つけられるもの
最近の私の状況
ここ数日忙しさと眠気に負けて投稿できない日が続いてしまっていた。なるべく毎日投稿したいのだが、一度ベッドに寝っ転がってしまうといつねたかすら記憶がないほどである。対策としてはベッドに寝っ転がらずにデスクにつくということをしようと思う。
そんな目まぐるしい毎日の中で、ある出来事があった。みんな生きていれば必ず遭遇する事態だとは思うのだが、「○○に言わないでって言ったこと言いふらされちゃった(泣)みんなに噂が広がっちゃったよ~。」という相談を受けたのである。この出来事を通して、口が堅い、口が軽いとはいったい何なのか。ふと出てきた疑問だったので書きながら整理しようと思う。
口の堅い、軽い
口の堅さの主体
口の堅い人は誰のことを指すのだろうか。一般的には、そのいわゆる秘密を聞いた人のことを指すはずである。しかし、この出来事を通して考えたのは口の堅い人の主体はもう一つあり、それは秘密を持つ側も含まれるということである。
秘密を持つ者、知るものの義務
私がその相談を受けた時、不思議に思ったのはそんなに知られたくなかった秘密をどうして人に話してしまったのかということである。本当に知られたくない秘密は、本来人に話すべきでないと私は思うのである。私はこの点で、口の堅さというのは秘密を話す本人にも適用されるのではないかなと思う。それは、誰でもなく自分を守るための口の堅さである。
つまり、秘密を持つ者もそれを何らかの経緯で知ってしまった者もその秘密は自分のため、そしてその人を思うならその人のために黙っておくのが義務ではないかと考える。そして、大前提であるが秘密を言うのも、知るのも責任を伴うことを忘れてはならない。その秘密が自分やその人の人生を大きく変えてしまうきっかけになってしまうのだから。
皆のいう秘密
口に出せる秘密と思われるものは実は秘密ではないのかも…
この小見出しを見ると今まで論じてきたことに矛盾が生じてしまいそうである。しかし今まで述べてきたことは、本当に知られたくない秘密を持っている人がその秘密を人に話してしまいそうになっている人へ、本当にその人に話すことが適切かどうかの最終確認的な意味合いを含んでいる。そして、秘密だよと言われた人に対して、ほかの第三者に話そうとしている方々へ本当にそれでいいのかの最終確認的な意味合いも含んでいる。
しかし、一般的にみんなが秘密事として話すものは本当の秘密事なのだろうか。実は、本当に知られたくない人々の秘密というのは実はあまり世の中には流通していない可能性があるのではないかという仮説を立てたい。その仮説の根拠というのは実際に私のように本当に知られたくな秘密は人に話すべきではないと思っている人々が私だけでなくもっと多くいるのではないかということである。
つまり、友人間などで共有されるような秘密は実は本当の意味での「秘密」ではないのではないかと考えている。
秘密は孤独を生む
この上記の仮説が正しいとすると、人間はみな孤独である。秘密を持たない人間などこの世の中に存在しないと私は思っているからである。秘密はその人そのものかもしれない。
しかも、基本的に秘密という言葉に私はプラスのイメージを持たない。だからこそ、人間の本質ともいえると私は考えるのである。つまり、秘密がもしマイナスなら、きっと人間は寂しい生き物である。だからきっと、誰かにその秘密を話したいという衝動は避けられるものではないと思うし、話せないその寂しさは図り知れないものがあると私は考えるのである。人は、誰かとつながっていたいものだから。
秘密を共有、背負ってくれる人
それでは、人間は本当に秘密を共有できずに一生孤独であり続けるのか。
私の答えはNOである。理由は、この秘密を逆手に取れば自分が秘密を話したいと思う衝動をぶつけられる相手は人生において超重要人物であるという指針にもなりうることである。つまり、自分の秘密を知るだけでなく一緒に背負ってくれる人を人生の中で探せばいいのである。他人の秘密を背負うということは、責任をも負うということである。そして、秘密を一緒に背負ってくれる人はきっとあなたを愛している人だと思う。そういう人は、秘密をやみくもに話したりすることはきっとない。
きっと、自分の中の最大の秘密を話すのにふさわしいかその人を見極めるのに時間はとてもかかると思う。しかし、秘密によって大事にしたいと思える人を見つけることもできる。人探しの時間は無駄にはならない。大事な時間になる。
これを踏まえて聞きます。
それでも秘密を話したい、聞きたいと思いますか?