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【ミステリ小説】セイレーンの謳う夏(6)

(本作の短編バージョン「夏の終わりのマーメイド」は完結していますので、ラストを知りたい方はぜひ! 
 本編は、3つに別れた「ぼく」の視点から物語が進むパラレル・ストーリー。
 やがてひとつの結末に収束します。)


(あらすじ)民宿兼ダイビングショップ『はまゆり』でバイトする(顔のない)ぼくは、お客さんが不思議な生き物と遭遇したことを知る。
 『はまゆり』美人姉妹の妹、夢愛(ゆめ)さんは鋭い推理力も持ち主。ぼくはそんな夢愛さんが、駅前で男と言い争うのを目撃する。
 
八月の最終金曜日午前――
翌日の金曜日は、龍ヶ崎で行われるダイバーズ・フェスティバル準備のためぼくらは、「遊泳監視」、「水中ゴミ拾い」、「駐車場の整理」のどれかを担当することになる。

 物語は、3つに別れたぼくの視点で語られる。

 1/3

 「遊泳監視」を担当したぼくは、龍ヶ﨑突堤に駐まっている不審な車を調べに向かう。 
 その途中、民宿の宿泊客から預かった携帯プレーヤから助けを呼ぶ声を聞く。 

 ぼくは『カモメ荘』バイトである「もーやん」と共に問題の車のところに行き、車内には倒れている人、そして車の下には夢愛さんのアクセサリーを見つけた。
         

           *

 先ほどの釣り人とその連れが、棹を納めて帰って行く。騒ぎになりそうなので、釣りにならないとでも思ったのか。
 やがて、シルバーのワンボックスカーが駐車場に走り込んで来るや、もーやんが助手席から下りてきた。
「救護センターから担当の人、連れてきたわ」

 運転席から降りてきたのは、見るからに頼もしい感じの屈強な色黒の若い人だ。
「ドアのロックはどうする?」
「解錠ツールも持参してきました」
 駐車場でのインロック・トラブルは毎日のようにあり、子どもが中に閉じ込められるケースもあるので、海水浴場の救護センターでは解錠技術を習った人もいる、とのことだ。

「急ぎましょう。熱中症だったら治療しないと」
 てきぱきと先に立って駐車している車に向かう。
 最初からこの人が来ればよかったのに、とぼくは自らの力のなさを棚に上げて非難がましく思ってしまう。
「ストレッチャーが後部にあるので、出しておいてくれませんか」

 ぼくにも手伝えることがあった。
 ボックスカーのハッチバックを開くと、担架よりも楽に人を運べそうなストレッチャーがあったので、後部へ引っ張り出した。
 突堤のほうを見ると、速くもドアが開いて傍らにふたりが立っているが、なんだか様子がおかしい。

「おーい」
 もーやんが手招きする。
 赤いツーシーターの傍らに立った救護員氏は、ちょっととまどったように運転席の窓から中を覗いていた。
 慌てて走って行くと、もーやんが途方に暮れたように声を上げた。
「中のひと、おらへんで。カギも開いてたし」
 ぼくは驚いて、開いたドアから中をのぞき込む。
 運転席で息も絶え絶えなように俯せていた男は姿形もなく、高級そうな革張りのシートにスマホが一台転がっているだけだった。

               *

 その後、ぼくは本来の仕事である遊泳監視に戻って昼過ぎまでオペラグラスに見入り、トランシーバからの指示に従って、呼び出しの放送を行った。幸い溺れる人もジョーズに襲われる人もいなかった。

 慣れない仕事に疲れ、お昼に『はまゆり』に帰ると、手伝う予定だったツアーダイブはすでにエントリーした、とのこと。
 厨房で昼食の準備をしていた永遠さんが、今日はもう休んでいいわよ、と言ってくれた。

 休んでいいと言われても、何をするでもなくぼーっ、としていることしかできない。すると嫌でも考えは一点に行きついてしまう。
 ぼくともーやんが確認した車の男はいったいどこへ、どうやって消えてしまったのか? 
 あの男は、以前に夢愛さんと口論していたひとなのだろうか? 車の側に夢愛さんのらしきアクセサリーが落ちていたのは、偶然か?

 ぼくはウエストバッグから、拾ったブレスレットを取り出して見た。
 飛び跳ねている図柄のシルバーのイルカと、蒼い色のアクリル玉が交互に連なった意匠だ。
 どこにでもありそうなものだが、夢愛さんが以前つけていたものと同じように思えた。

 今朝夢愛さんが東の﨑に行き、戻ってくることはできたのか? 
 ぼくは今朝彼女を見かけなかった。彼女の愛車であるピンクのミニバイクは、ブレーキの故障で修理に出されている。
 彼が直接迎えに来てふたりであの突堤に行ったとして、不自由な右足を引き摺って『はまゆり』まで帰ってくれば、誰かに見とがめられているだろう。

 そんなことを思いながらぼんやり窓の外を見ると、うっすらともやのようなものが立ち上るのが見えた。煙? 
 民宿はまゆりは、他の民宿と同じように海水浴場に沿って龍ヶ崎に向かう遊歩道に面している。後ろがすぐに丘陵になっているので、斜面に沿って建つ一階部分の横手に階段があって民宿兼一家の居住部に繋がっている。

 煙のようなものが見えたのは、階段だ。万一火事だったら大変だ。
 ぼくは慌てて奥の扉を開けた。
「めっかっちゃったか」
 横の壁に寄りかかりながら、夢愛さんがバツの悪そうな顔をした。
 タンクトップにデニムのショートパンツ。シャワーを浴びた後のように、長い黒髪が濡れて天使の輪っかができていた。
 その手にある細身の煙草から、細い煙が上がっている。

「煙草はお腹の赤ちゃんの健康によくない」
 夢愛さんは、右手の中指を立てて、ファック・ユー! 誰がこんな下品なしぐさを教えるかなあ? きっと親父さんだ。

「喫煙習慣があるとは知らなかった」
「ヤなことがあると、時々ね」
「なんで隠れて吸ってるんですか?」
「親父がにおいが移るから嫌だって。加齢臭のくせに、って言ったら」顔をしかめながら、
「頭突きされた」
 この親にしてこの娘あり、か。「中途半端に伸びた髪の毛が刺さって、めっちゃ痛かったわ」

 挑むような瞳でぼくを見つめて、「煙草なんか止めろって、言ってよ。ホントに体に悪いんだから」
「止めろって言ったら、反発するタイプでしょ」
「つまんない奴。ビンタくらいして止めさせてよ」
 そんな危険なマネできません。倍返しされるでしょ。
「不良学生みたいですね」
 彼女は、鼻で笑うような声を上げた。

「あ、そうだ」ぼくはタイミングを計って切り出した。「これを落としませんでした?」
 イルカのブレスレットを取り出して見せる。「ハワイではドルフィンのモチーフは特別な意味があるようですが」
 夢愛さんは、怒ったようにブレスレットを引ったくると、
「余計なこと、知ってるのね」

 背後に立てかけてあった物を抱えて、そそくさと階段を上がっていった。
 残念ながら彼女が今朝、東の﨑にいたのは間違いないし、その方法もわかったように思えた。
 彼女が膝小僧を赤く腫れさせていたのはそのせいか、とぼくは納得した。(続く)


2/3

 「水中ゴミ拾い」を担当したぼくは、自分の病気である「相貌失認」について思いを馳せる。 
 潜りながらゴミ拾いするぼくの耳に、携帯プレーヤから助けを求める声が聞こえた。 
 ぼくの目の中に、人魚の姿が飛び込んできた。
 

 海から出たぼくは、岸辺にあがる。
 そこには、夢愛さんと言い争っていた男がいた。男が立ち去った場所には、スマートフォンがあった。
 ぼくはバイト友だちのもーやんから、彼が不審者のそばで見つけた夢愛さんのアクセサリーを受け取った。

          *

 昼過ぎに『はまゆり』に帰ると、手伝うはずだったツアーダイブはすでにエントリーした、とのこと。
 厨房で昼食の準備をしていた永遠さんは、大変だったろうから今日はもう休んでいいわよ、と言ってくれた。

 ぼくの手元に夢愛さんのブレスレットと、カレシのものと思しきスマホが揃ったことになる。
 どちらも返さないとまずいけど、どう言えばいいのだろう。

『はまゆり』の食堂でコーラを飲みながら悩んでいると、誰かが正面のガラス戸をトントン、と叩いた。
 もーやんの上半身が覗いて、手を振っている。
「どうしたの、入ってくれば?」
 外へ出て話しかけると、「いや、実はちょっと来て欲しいんや」

 なにやら含みのある言い方でぼくを誘った。
 漁協の事務所で元の漁労長の淸水さんが少し話を聞かせて欲しい、と言っているという。
「なんで、ぼくなんかと?」
「それがな」もーやんは少し口ごもったあと、話し始めた。「今朝方、東の﨑に車が入り込んでた言うたやろ」

 ぼくは頷いた。
「赤いツーシーターのスポーツカーやねんけどな。
実は今朝、漁協の事務所に匿名の電話があって、東の﨑に居る車のなかで誰か倒れてる、と言うたらしい」
 そんな経緯があったのか、とぼくは驚いた。

「そんで駐車場の係りが行って確認したんやけど、たしかに電話にあったような赤い車があったわけや。
 ところが中は空っぽで誰もおらんかった」
 もーやんはそこまで説明したところで、「あ、忘れ物」と声を上げ、悪いけどひとりで先に行っといてくれるか、と言った。

「ぼくは、漁協の事務所の場所を知らないよ」
「あそこの清涼飲料水の看板があるとこ。
 ほら、こっから見ると後ろの人面岩の下あたりに見えとる。あの看板のとこ曲がって山側に行ったとこの一軒家や」
 ぼくが言い返す前に、彼は慌てて『カモメ荘』のほうへ引き返していった。

 清涼飲料水の看板は、この時期やたらとある。
 もーやんが悪意なく言ったのはわかるが、相貌失認のぼくにとって「人面岩」というランドマークは役に立たないのだ。

 ぼくが道に迷った子どものようにうろうろしていると、もーやんが愛用の防水ポーチを持って走ってきた。
「なんや、待っててくれたんか」
 ぼくが曖昧に頷くと、こっちや、と言って先に立って歩き出した。

「なあ、もし間違ってたらごめんやけど」前を向いたまま、冗談っぽく笑みを含んで言った。「もしかして、顔の識別がついてないんやないか?」
 勘のいい男だ。ぼくの相貌失認に気づいていたのか。
 ぼくは返事に窮した。

「わかってたの?」
「うすうすそんな感じがあったけど、今さっき人面岩でまごついてるのを見て、そうやないかと思った」
 また、好奇の目で見られるのか、とぼくはうんざりした。だが、もーやんの見方は違っていた。

「先天的に顔の識別がつかん人は意外に多くて二%程度おる、いう説もある。
 実はボクも人の顔、覚えられんほうや」すれ違ったショッキングピンクのビキニの女の子をしげしげと長め、振り返って、にっと笑う。「ボクが見てるピンクの色と、ほかの人が見てるピンクの色が同じかどうかなんて誰もわからへん。
 ただ識別がついている、いうだけや。自分が見ている物と他人が見ている物が同じかなんて、どうでもいいことや。
 相貌失認もただの個性やろ」

 どうやら彼なりにフォローしてくれているらしい。やがて山道に入るところにある、何の変哲もない海辺の一軒家を指して言った。
「あれが、漁協の事務所や」

          *

 長年漁協のトップだった清水さんは、昔日漁師さんと犬猿の仲だったダイバーとの仲介に乗り出し、現在の龍ケ崎繁栄の基礎を作った功労者だ。
 どこよりも早くレジャー産業の可能性に目を向けたのは、先見の明があったというべきだろう。

 その功に報いるためか、彼は漁協の事務所に使われている民家に、専用の個室をもらっている。
 やや広い十畳ほどの部屋には壁一面にダイブ・フェスの宣伝ポスターが貼り付けてあって、清水翁は机に突っ伏してこっくり、こっくりと舟を漕いでいた。

「今朝は釣れましたか?」
 もーやんが耳元で言うと、清水さんはゆっくりと身体を起こした。片耳から緑のアイポッドがぶら下がっている。

「得意の演歌ですか?」
「いんや、レデー婆。孫に勧められての」
「ガガですね。レディー・ガガ」
 もーやんが訂正する。
「今日はミキちゃんもダイブ・フェスの手伝いなんですね」
 事務の女の子とも親しいらしい。
「最近釣果もさっぱりでの。セシウムとかのせいかのう?」

 職業としての漁師は引退した清水さんだが、雨が降ろうが台風が来ようが早朝の釣りはかかさないらしい。
 眠そうな顔をした、いかにも若い衆、といった風情のお兄さんがお茶を運んできてくれたのを機に、淸水翁は畳の間に置いた椅子から降りて、側にあった座布団を勧めてくれた。
 ぼくらは座布団に車になって座った。

「すまんな。サブちゃん」清水さんがお茶を運んできたお兄さんをねぎらう。彼が退室すると、「原田さんとこの次男坊だよ。次男なのに三郎なんだ。流行りのキラキラネームとやらかな」

 それは関係ないと思う。
 彼の容姿には見覚えがあった。二級小型船舶の免許を持っているので、時に『はまゆり』でも船でダイブするときにプレジャーボートの操船を手伝ってもらっている関係で、御子柴さんとも親しいようだ。

「長男が勤めに出たので、あとを継ぐそうですね」
 如才なく情報収集能力に長けたもーやんは探偵向きだな、と感心した。
「まあ修行中だな。あいつ眠そうだったの。また夜遅くまで女の子のケツ追っかけてたかな」
「最近夜釣りに凝ってるって言ってましたよ」

 ぼくは苦笑して、淸水翁が話しを切り出すのを待った。
「実は今朝東の突堤に違法駐車してた車があってな。知っとるかな、この話?」
 ぼくは、もーやんのほうを見ながら頷いた。
「もーやんから聞きました。運転していた人は、姿を消したそうですね」

 淸水翁は、湯飲みをラッコのように両手で抱えてすすりながら、うんうんと頷いた。
「レッカーで車は最寄りの所轄まで運んだんだが、持ち主に連絡が取れん」  
 話の先が見えないので、ぼくが返事できないでいると、
「海に飛び込んだ可能性があると、捜索せんといかん」

 なるほど、自殺を図ったかもしれないと考えているわけか。でもなぜぼくにこんな話をするのだろう?
「ほら、あのブレスレットの持ち主を知ってる言うてたやろ」もーやんが助け船を出してくれた。「その話をしたら何かほかに知ってないか、言うてな」

 それで、ぼくが呼ばれたのか。仕方なく、ブレスレットを出して白状した。

「このブレスレット。前に『はまゆり』の夢愛さんがしていたのを見たように思うんです」 さらに、彼女とあの赤い車の運転手が一週間前に話しているのを見たことを付け加えた。
 またその男らしい人を、今日の水中ゴミ拾いのあとで見かけたことを話した。

「今日、見たのは間違いなく夢愛ちゃんと会ってた男かね?」
 ぼくはもーやんのほうを見ながら、曖昧に頷いた。
 相貌失認者の証言である。なにか捕捉しないと、と思っていたらスマホのことを思い出した。

「実は、その場でスマホを拾ったのですが」
 ぼくが拾ったスマホをウエストバッグから取り出すと、淸水さんは、「預からせてもらっていいかな?」
と訊いてきた。
 スマホの持ち主があの男だと特定されれば、ぼくの目撃も信憑性が高まり、少なくともあの男が自殺を企てたわけではないことがわかる。

 ぼくは頷いてスマホを淸水さんに渡した。
「秋月さんとこの、夢愛ちゃんか。なるほどな」淸水さんが独りで納得した様子だったので、ぼくから質問した。
「あの運転者はだれか、ご存じなんですか?」
 うーん。と淸水さんはスマホを眺めながら口ごもる。
「個人情報だからなあ」

「やっぱり観光客なんですかね」
 どうやら、もーやんも彼の正体を知らないらしく、探りを入れている。
「車のナンバーから身元は割れたが、実はな」清水翁は身を乗り出しかけて、ぼくをちらっと見た。「おっと、これはオフレコだった」

 何か訳ありらしい。
「教えてくださいよ。気になるじゃないですか」
 もーやんが手を代え品を代え尋ねても話そうとしないので、切り口を変えることにする。
「あの車が東の突堤に来たのは何時ごろなのか、わかっているのですか?」

「ああ、それならここでわかるよ」淸水さんは立ち上がって、机上に設置してあるモニタのスイッチを入れた。「定点監視カメラに写っていてね」
 一昨年突堤で観光客が揚げた打ち上げ花火が、釣り船に引火する事故が起きてから、監視カメラを備え付けたのだという。
 清水さんは慣れた様子で、問題の時刻の映像を見せてくれた。

 定点カメラは数カ所を撮影するよう設置され、そのうちの一カ所が東突堤全体を俯瞰する形で、入り口の臨時駐車場を捉えていた。
 マルチウインドウの該当部分をクリックすると、その場所が拡大されて画面いっぱいになる。

 映像の左下の時刻表示が六時三十分過ぎを表示した時、赤い車が画面を右から左に一瞬横切った。
「拡大できますか?」
 解像度はあまり良くなく運転者はわからないが、助手席にはだれもいないようだ。

「安モンだからな」解像度が悪いことを気にしているようだ。
「今朝ここに電話があったそうですね」
「ああ、ミキちゃんが電話をとった。九時半頃だったよ」
 相手が言ったのは、東の崎に駐まった車の中で人が倒れている、ということだった。

「通報者は名乗らなかったのですね? 電話をとったミキちゃんは、声の特徴とか何か言ってました?」
「それが声色を変えていたらしくってな。男だったか女だったかも判然としないらしい」
 番号非表示だったとのことだ。
 なにか手がかりはないかと、未練がましく監視カメラの映像をいじくっているぼくに、
「安モンだからな」そんなに卑下することもあるまいに、清水さんは繰り返した。(続く)


3/3
 

 くじ運の悪いぼくは、外れの「駐車場整理」に割り振られ、知り合いのもーやんと共に仕事を始めた。 
 もーやんの話では、東の﨑に入り込んだ不審車の運転者は見つからなかった。また夢愛さんが以前つけていたイルカをモチーフにしたアクセサリーが落ちていたという。

 レンタル機材を片付けるため倉庫に入ったぼくは、隠れてタバコを吸っていた夢愛さんと遭う。
 彼女にアクセサリーを返し、不審者の中にいた男と会っていたのか訊くと、時間的にムリだという返事。
 ぼくは、モノフィンを使って海を泳げば、脚の悪い夢愛さんでも短時間で行き来できることを見抜いた。

          *

 ひとり取り残されたぼくは、改めてモノフィンを手にとって見た。人魚姫の尾ひれだ。
 頬ずりこそしないが、なぜか切ないような気分になった。
 そのとき、誰かの影が動く気配がした。他のスタッフが手伝いにきてくれたのか?

 背後で音がして気がついた。
 逆だ。光が射す窓の外に誰かいる。開きっぱなしの倉庫の窓から、誰かが覗いていたようだ。
 御子柴さん? 呼びかけると、影は慌てたように引っ込んだ。
「だれ? 何か用?」
 下生えを踏む足音が遠ざかる。窓のところに行って外を見ると、不審者の影は雨の中すでに小さくなっていた。どこかで見たような感じのシルエットだったが、思い出せない。

 ぼくは窓の鍵を点検した。クレセント型の鍵がずれていて、いくら頑張っても締めることができない。
 あとで御子柴さんに話して、倉庫の窓の鍵を修理したほうがいいかもしれない。龍ケ崎の浜辺には、高価なダイビング機材がごろごろと放置されている。
 ダイバー性善説に基づいて放置してあるのだろうが、悪意を持った人間にとってはおいしい話だ。

 なんとかこの場で直す方法はないだろうか、と悪戦苦闘してはみたがらちが明かない。
「どうかした?」
 振り返ると、手伝いに駆りだされたらしい永遠さんが、両手いっぱいにフィンを抱えて立っていた。
「いえ、何でもありません」
 心配させてはいけないと思い、ぼくはそう言った。

 永遠さんとふたりきりのシチュエーションに少しドキドキしていると、向こうから話し掛けてくれた。
「あなた、彼女はいるの?」
 な、何ですか、一体? ぼくは突然の質問に舞い上がる。
「最後につきあったのは今から三年以上前、高校のころです」
 我ながら何を言ってるのだろう、と思ったが、永遠さんは面白そうな表情で耳を傾けてくれている。

「同級生のまりちゃん。気の強い女の子でしたが、一ヶ月ほどつきあったあと一方的に振られたときは、呪いをかけてやりました」
「呪い?」
「おまえは将来、水田さんと結婚する」
「・・・・・・?」
「結婚後の名前は、みずたまり」
 永遠さんが微笑んだ。
「でも実際は小田さんと学生結婚したみたいです。おだまり! って、気の強い彼女にはぴったりだと思いました」
 永遠さんは、ころころと笑った。

 やった、ウケた。
 ちょっと翳のある永遠さんだがいつも笑顔でいてくれればいいのに、と願うぼくである。残念ながら、笑顔がどのようなものかわからないのだが。
 彼女は軽く睨むと、「ネタね?」
 事実に基づいた脚色、ですけどね。
「夢愛ちゃん、あなたのことは気に入ってるみたい。あんな優しい物言いするのは珍しいわ」
 とてもそうは思えませんが。

「あの子は私と違って人を見る目があるのよ。面食いでもないし」
 それはフォローですか? アゲインストでしょうか。
「最近明るくなって、泳ぎも始めたみたい。水着が干してあったわ」
 幼い頃はいじめられ、長じては気を遣われた。薄幸の美少女扱いだ。
 どちらも本人には苦痛だったらしい。
 一時期荒れていた夢愛さんは、一巡して昔の名残のタトゥーと自然な黒髪をもったアンビバレンツな人魚姫になった。

 でも、今朝彼女が泳いだのは別の目的があった。
「あれ?」永遠さんが窓のほうを見て、「また窓が開いてる。鍵が壊れてるのよ」
 ぼくは彼女に訊いてみる。
「この窓、開きっぱなしでしたけど」
「変ね。鍵が壊れてるから、せめて締めておくように御子柴君には言ってるのだけど」

 強面の御子柴さんも、永遠さんにかかれば「御子柴クン」か。
 窓を閉めようとした永遠さんが、外を見ながら言った。
「携帯落とした? あそこにあるのは、あなたの物?」
ぼくは裏手に回って窓の辺りを探してみた。
 男の姿はすでになかったが、ついたばかりの足跡があった。下生えの陰を見るとスマホが落ちている。永遠さん、よく気がついたな。

 そこで思い出した。さっきの不審者をどこかで見た、と思ったのは肩にタトゥーがあったからだ。駅のロータリーで夢愛さんといっしょにいた男の人だ。
 このスマホは、あの人が落としたのだろうか?
「セイレーンの謳う夏(7)」に続く)

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