【ミステリ小説】セイレーンの謳う夏(7)
(本作の短編バージョン「夏の終わりのマーメイド」は完結していますので、ラストを知りたい方はぜひ!
本編は、3つに別れた「ぼく」の視点から物語が進むパラレル・ストーリー。
やがてひとつの結末に収束します。)
(あらすじ)民宿兼ダイビングショップ『はまゆり』でバイトする(顔のない)ぼくは、お客さんが不思議な生き物と遭遇したことを知る。
『はまゆり』美人姉妹の妹、夢愛(ゆめ)さんは鋭い推理力も持ち主。ぼくはそんな夢愛さんが、駅前で男と言い争うのを目撃する。
八月の最終金曜日午前――
翌日の金曜日は、龍ヶ崎で行われるダイバーズ・フェスティバル準備のためぼくらは、「遊泳監視」、「水中ゴミ拾い」、「駐車場の整理」のどれかを担当することになる。
物語は、3つに別れたぼくの視点で語られる。
「遊泳監視」を担当したぼくは、龍ヶ﨑突堤に駐まっている不審な車を調べに向かう。
その途中、民宿の宿泊客から預かった携帯プレーヤから助けを呼ぶ声を聞く。
ぼくは『カモメ荘』バイトである「もーやん」と共に問題の車のところに行き、車内には倒れている人、そして車の下には夢愛さんのアクセサリーを見つけた。
しかし、救護員を連れて車に戻ると中の男は消えていた。
ぼくが夢愛さんに確認すると、彼女はアクセサリーが自分のものだと認めた。
海関係のスポーツは一切やらない、というもーやんは、
「なんでこのバイトを選んだの?」という問いに、綺麗なねーちゃんがいっぱいいるからな。と明瞭な答えを返したものだ。
「男は顔や。イケメンやないぼくら一般男子がモテるには、努力が必要やねん」
ぼくも同じカテゴリにくくられてしまった。
中肉中背平均顔、透明人間のような特徴のない人、と言われ続けてきた身では反論のしようがない。
「花屋さんの店頭に、って曲があるやろ」もーやんは言った。
個性が大事っちゅう解釈で、みな普通に謳ってるけどな。
生花店に並ぶことを許されるのは品種改良されたうえで陶太され、葉っぱや花びらに虫喰い穴のない選び抜かれた花なんやで。どれもみんな綺麗なんは、当たり前や。
ミスユニバース世界大会で、だれもみんな綺麗やね、いうてるのとおんなじや。ブスは人間の範疇に入らへん、ちゅう訳や。
ナンバー1にならなくとも、どころやない。賛美しとるのは、ナンバー1中のナンバー1やがな。
そんな歌を個性が大事やっちゅう感性で、ブスどもが喜んで歌いよんねん。
うーん! うっかり頷くと、禍根を残しそうだ。
「ぼくらブ男は、花屋さんの店頭に並ぶことすらできへん」
顔のいい男だけが、この世に存在する価値がある。顔の悪い我々が遺伝子を残そうと思ったら、それなりの努力が必要だ。
「子どものころは傲慢で、ふつうに生花店の店頭に並ぶことや、ふつうに働いて家庭を持って子どもを育てる、のがどんなに大変なことかわかってなかったなあ・・・」
もーやんは、ひとしきり力説したのち、けだるそうに、
「あの後も忙しかった」
『カモメ荘』のロビーで、長椅子に寝そべりながらそう言った。
龍ヶ崎に並ぶ民宿ではもっとも古く、築二十年以上は経っていそうな玄関ホールには冷房がなく、天井で大きな扇風機がゆっくりと回っている。有線からは、コテコテのビーチサウンドが流れていた。
「レッカーであの車を運ぶのに時間が掛かって・・・」
もーやん自身はその後も炎天下で、自動車の誘導を続けたとのことだ。ぼくは雇い主に恵まれたことを感謝した。
「ひとつ訊きたいことがあるんだけど」
彼は眠たそうな目をこちらに向けた。
「今日駐車場で配置に付いたのは、九時前だよね」
「くじで大はずれを引いてもうて」
「そのとき、もうあの車は突堤に入り込んでいたんだね?」
「そうや」おもむろに体を起こすと、「なんや、事件の捜査かいな」
「少し気になることがあって」
「ボクが駐車場に行った時、立ち入り禁止のトラロープが緩められてて、あの車がおったんや」
もーやんはロープを張りなおして、配置についたと言う。
「そのとき、あそこには他に人はいなかったんだね?」
もーやんはぼくの問いにそうや、と答えたあと尋ね返した。
「人間消失ミステリの謎解きか?」目が生き生きとしている。「それやったら、現場検証やらんとな」
*
午後の日差しの中では東の﨑まで歩くのは苦行なので、チャリを借りた。
もーやんがちゃっかり確保したマウンテンバイクなら途中の坂も苦にならないだろうが、変速のないぼくのママチャリだと坂を登るのにひと苦労だった。
駐車場はすでに満車になっている。午前中にもーやんがいた椅子には、日に焼けたおじさんが座って居眠りしていた。
突堤まで自転車を走らせると、例の車体はレッカーで移動させたあとでなんの痕跡もない。
「このあたりやったな」
もーやんが突堤の先端あたりで自転車から降りた。
ぼくの視線は、どうしても夢愛さんのブレスレットが落ちていた辺りに行く。
湾内を横断して上陸すれば、三十分くらいで着くだろう。満潮だったから、右足が不自由な夢愛さんでも上陸はたやすかったに違いない。
「あの車の所有者はわかったの?」
ああ。ともーやんは答えた。
「ナンバーを照会して、持ち主はわかったようやな。拾得したスマホの持ち主も特定されたやろ」
駅のロータリーに駐車して夢愛さんと言い争っていた男の車のナンバーまでは覚えていないが、車種は間違いない。持ち主はあの男だろう。
「袋小路。デッドエンドやな」
突堤の先を見ながら、もーやんが言った。
「なんで、こんな所に車で乗り入れたのかな?」
「ワイダニット(Why done it?)は可能性が多すぎて推理の材料に乏しいから、いま考えるのはハウダニット(How done it?)に絞ろうや」
ぼくは、もーやんの提案に頷いた。意外に整然とした考えをもっている。
「車の運転席側ドアがロックされてたのは間違いないんやな? なにかが噛ましてあって、それをロックと勘違いした可能性はあらへんか?」
ぼくは今朝方、ここでドアを開けようとしたときの感触を思い出した。
「間違いなく、ドアがロックされていたと思う」
「そうか。まずはその証言を信じるとしたら、ロックを外したのは本人だと考えるのが妥当やろな。そのあと、外に出てなんらかの理由、方法で姿を消した。ぼくはあの男の顔を見いひんかったけど、顔はちゃんと見えたか?」
ぼくはちょっと言葉に詰まった。
以前にあの男を見たことを打ち明けるべきか迷ったが、結局いいそびれた。
「ずっと俯せていたから顔はわからないけど、服とかで体の特徴でわかるよ」
服は紺色の襟付きのシャツだった。サングラスが頭の上にかけてあったと思う。なにより右肩には特徴のある紺色のタトゥーがあった。
「まあ、そやな。で、あのとき車の側にずっとおったんか?」
「突堤の先の方で、釣りをしている人にロックされた車のドアを開けるのに使えるものを持ってないか、尋ねたよ」
「なんや。そのときにドア開けて逃げだしたんちゃうか?」
「いや、そのあと車に引き返して中を見たけど、同じ姿勢で俯せになってた」
そうか。もーやんは辺りをぶらつきながら考えをまとめているようだ。
「そのあとは?」
「今度は逆方向に湾側の傾斜面を駐車場のほうへ引き返しながら、針金かハンガーのような解錠に使えるものはないか、探してた」
「そのあと、駐車場で会ったわけやな」
うん、とぼくは頷いた。
「すると、その間に運転者は目覚めたわけか。でもどこへ行くにしろ突堤の付け根におれらがおったわけやから、そこを通らんわけにいかんわな」
「外海側に出て、テトラポットの間を抜けてぼくらを躱したんじゃないかな」
もーやんは、防波堤となっている外海側の壁に手を掛け、よっ、と一声掛けて登ると防波堤の上に立って外海を見た。
「なるほど。こっからテトラには降りれるし、テトラを渡って突堤の付け根までは行ける」けど、と駐車場のほうを指差して、「結局、駐車場から陸に上がらんとあかんな」
「テトラポットの間に隠れてぼくらをやり過ごしておいてから、逃げたんじゃないかな」
うーん。ともーやんは唸った。
「できひんこともないやろけど。ぼくらが先行して車のほうに言ったとき、ワンボックスの側におったよね?」
ぼくは頷いた。頼まれて後部からストレッチャーを出していたのだ。
「あの場所から、テトラのある外海側が見える思うけど、誰かおったか?」
ぼくは首を横に振った。確かにだれもいなかった。
「ぼくらが何人で来てたかわからんから、もしやり過ごす気で隠れてたのなら車の側に誰か来た時点で駐車場のほうへ行くと思うで」
なるほど。
「海に飛び込んで、突堤の先端に回った可能性は?」
「本気で言うてる?」
いや。とぼくは首を振る。海に飛び込むような音は聞こえなかった。
台風の影響か、テトラポットに打ち付ける波は荒く、外海側はかなりの泳力がなければ危険だ。それに先端には釣り人たちがいた。
「もしかして自殺を図った、という可能性は?」
「それやがな、一番の懸念は」もーやんは海を見ながら、いくぶん真剣な声音で言った。「消防にも通報したし、本人の自宅にも連絡してるけど、家族とも連絡がついとらへんみたいやな。今のところ」
話がシリアスになってきた。あの男と夢愛さんの関係を言うべきだろうか。悩んでいるともーやんが口を開いた。
「車のトランクに隠れた、というのはどやろ?」
「なんのために?」
「ワイダニット(なぜやったか?)は置いとこうや。でもトランクの中からは自分で開けられへんな」
もーやんは自分で自分の推理を否定した。
「車体の下に隠れていて、人気がなくなってから逃げるというのは?」
「車高の低い車やったから、隠れるのは無理とちがうか?」
うーん。ぼくも煮詰まってしまう。
「湾側で泳いでた人はおらへんかった?」
突堤の先に向かって左側の湾内の海は、比較的穏やかだが。
「いなかった」否定するしかなかった。
もーやんは防波堤の上に体育座りして考え込む。
「クルーザーなんかも近くにはいなかったね」
うん。もーやんは上の空で返事をした。
「このへんは、暗礁もあって岸近くは危ないねん。小型船舶の舵を取ったことあるか?」
ぼくは首を横に振る。
「船ってやつはな、自動車なんかとちごうて反応が鈍いんや。
舵を切ってもすぐには回頭せんから素人はつい切りすぎる。だもんで、入港するときも目印を見切ってどれくらい舵を切るか、あらかじめ頭に入れておかなあかん」背後を振り仰いで、崖になった山肌を指さした。「あの岩が顔のように見えるやろ。あれが目印になんねん」
えっ。とぼくは位置を見失う。
「どこ?」
もーやんは山の一部を指さしながら、
「ほら、あの黒いところが目で、鼻のように盛り上がった岩もあるやろ」
ぼくはわからなくなったので、話題を変えた。
「中にいた人は本当に人間だったのかな?」
おっ。ともーやんが食いついてきた。
「また奇抜なアイデアやな」
「人形。空気で膨らませた人形を置いておき、一気に空気を抜いたら?」
「ラブドールに男の服装させておき、熱気で穴が開いて空気が抜けたために人間消失が起こった。そんなアホな!」
これもノリ突っ込みなのだろうか。
「それでも人形の残骸は残るわな」
人形説は呆気なく粉砕された。それでも、もーやんはぼくのほうを見ながら笑い声を上げた。
「わかったよ。消失の謎」
えっ?
「運転者は汗でびしょびしょになったTシャツを、あらかじめ持ってた色違いの替えに着替えて歩いて帰ったんや」たぶん、ぼくは間抜け面をさらしていたに違いない。もーやんは、こう付け加えた。「わからんのやろ? 人の顔」(3つに別れた話が収束する次回に続く)
「水中ゴミ拾い」を担当したぼくは、自分の病気である「相貌失認」について思いを馳せる。
潜りながらゴミ拾いするぼくの耳に、携帯プレーヤから助けを求める声が聞こえた。
ぼくの目の中に、人魚の姿が飛び込んできた。
海から出たぼくは、岸辺にあがる。
そこには、夢愛さんと言い争っていた男がいた。男が立ち去った場所には、スマートフォンがあった。
ぼくはバイト友だちのもーやんから、彼が不審者のそばで見つけた夢愛さんのアクセサリーを受け取った。
もーやんは、ぼくが相貌失認であることを見破る。
彼と一緒に漁協に行くと、漁協の清水さんは問題の男を知っている口ぶりだった。
「もったいないな。あんな美女ふたりのいる民宿でバイトしてるのに、相貌失認なんて」
帰る道々、もーやんはそんなことを言った。
「顔はもともと感覚器の集合体に過ぎへんけど、それが個体識別の意味をもつのも遺伝子の命ずるところによるところが大きいんや」何を言い出すのかと思ったら、得意のうんちくを語り出した。
「例えば、ハーフは一般に美男美女が多いやろ。何でかわかるか?」
ぼくは首を振った。
「種は一カ所に固まってたら天災があったときに絶滅してまうから、空間的に広がらなあかん。
したがって、遠くの同種と交配した種は雑種強勢によって生存に有利になるんやけど、それが人の場合は顔の好みによる選択圧になってるんやね」もーやんは、いささか怪しげな自説を唱え始める。
「ただ、日本の女の子がなぜシュッとした顔を交配相手として好むかは謎やね。人間の場合は社会的価値観いうもんが介在するからね。
純粋に生物学的選択圧だけを考慮したら、出川の哲っちゃんやぼくらのような顔のほうが、ジャニーズ系より耐久性に優れているような気がすんねんけどな」
同じカテゴリにくくられてしまった。中肉中背平均顔、透明人間のような特徴のない人、と言われ続けてきた身なので反論しないけど。
「ほなそんなわけで、生物学的優位に立ってる美女が集まるミス龍ケ崎コンテスト予選を研究しにいくわ」そう言って、ぼくに手を振った。「『はまゆり』の夢愛さんが出場したら優勝できるのにな。今度一緒に飲みましょう、と誘ってみてや」
もし彼女と一緒の飲み会が実現したら、その関西弁は封印したほうがいいぞ、とアドバイスしてやろう。
*
ぼくはウエストバッグの上から、イルカ君のブレスレットに触れてみる。これは夢愛さんのものに違いない。
だとすると、彼女は今朝あの男と東の﨑で会っていたことになる。そして、言い争いを演じていたあの運転者の男は、自分の車を置いて姿をくらました。
もし彼女があの場所に居たのなら、なにをしていたのだろう?
単なる痴話ゲンカなら良いが、ストーカーめいた事件に発展したらトラブルになる恐れがある。
あの男は今のところ、自殺未遂の被害者側のように淸水さんは考えているようだが、無理心中などを企てる畏れはないのだろうか?
ほっとけよ、と御子柴さんなら言うだろう。世の中には知らないほうがいいこともある。だが本当に?
クストーがアクアラングを発明し、人類の可能性は開けた。その一方で潜水病や事故で多くのダイバーが死ぬことになった。それは、知らなくても良いことを知ったが故の災厄だろうか?
一方でクストー自身は天誅を全うした。
スキューバに対する一般的な知識がまだない時代の先駆者が、事故で亡くならなかったのはすごいことだ。
夢愛さんがあの場所に居たのかどうか、知らなければならない、と思った。
ぼくは慣れない聞き込みを行い、今朝のできごとのタイムテーブルを組み立てた。
6:31 漁協の監視カメラで、赤い車が東の突堤に入るのが記録される。
9:30 漁協事務所に、東の突堤で車の中で人が倒れていると匿名電話あり。
いっぽう、ぼくが水中ゴミ拾いを終えて西の﨑にエキジットしたのが、十時頃。
10:00 西の﨑で、赤い車の所有者らしき人物を目撃し、スマホを拾得する。
同時刻に東の﨑で無人の赤い車が確認され、夢愛さんのらしきブレスレットが見つかる。
今朝の夢愛さんの行動もわかってきた。
ダイブ・フェス準備の手伝いをするという彼女が民宿を出たのは、八時過ぎだった。
夢愛さんは、公民館で婦人会が行っているステージ飾りつけの装具作りを手伝うはずだったのだが、顔を出したのは十時前だったらしい。
「秋月さんとこも、下の子はねえ。入れ墨なんかしちゃってねぇ」
情報提供者の婦人会のおばさんに、グチられてしまった。
作業時間(何の?)を引くと往復に約一時間。片道約三十分で着かなければならないことになる。
行きは車に同乗し、帰りだけ自力とすると必要な時間は半分で済むが、監視カメラでは助手席に人影はなかった。むろんダッシュボードの影に隠れてやり過ごすことはできるのだが。
人魚姫は、足を得るとともに会話を封じられた。おしゃべりじゃない美少女という理想的な恋人候補に気づかないバカ王子は、結局別の女を選んでしまうわけだが、この魔法には王子が他の女と結婚すると姫は泡になってしまう、という付帯条項があった。
わがままな末娘のために、姉人魚たちが王子を刺し殺せば(殺人教唆は刑法第六十一条により、正犯の刑を科される!)もとの人魚に戻れるという、魔法の短剣を手に入れるのだが……
ぼくの妄想が悪いほうへ広がる。
夢愛さんとあの男の間には、どんなトラブルがあったのだろう? いやそれよりも、一時間半で夢愛さんはあの突堤の先まで行って帰れたのだろうか?
定点カメラは突堤の道幅ほぼ全体をカバーしていたが、念のため確認することにした。
「夢愛さんのミニバイクが見当たらないけど」
御子柴さんに聴くと、
「ブレーキの利きが悪くて、修理に出してる」
「いつから?」
変なやつだな、と思われないかと心配したが、
「二,三日前かな」
ではバイクは使えなかったことになる。夢愛さんは自転車には乗れない。
協力者がいれば別だが、彼女の気性からそれはないだろうと思った。秘密(だから何の?)を知る者が増えるのは好まないだろう。
海からはどうだろう?
ボートやマリンジェット、ウインドサーフィンなどは湾内で禁止されている。確認した限りでは、それらの目撃情報はなかった。
第一夢愛さんにはそれらを扱えない。
泳いで行けないこともないが、彼女の泳力で可能だろうか。
ぼくはウエストバッグから、くだんのイルカを取り出して見た。
どこでも買えるような品物だ。今日彼女はブレスレットをしてたろうか?
そこまで考えて苦笑する。ぼくは何をやっているのだ。
ひと言本人に聞けばいいことなのに。
自分用の袖の短い夏仕様ウエットを付けると、マスク、シュノーケルを持って民宿の前から海に入り、フィンを履いた。お昼の太陽が南から光を落とす中、ゆっくりと突堤を目指して泳ぎ始める。
ダースベイダーの息遣いのように、コー、コーとシュノーケルを通した呼吸音が響く。
夏の終わりの海中には半透明のクラゲが浮いていたが、触手に毒のあるカツオノエボシではなかった。海岸では前夜祭が始まったようで、マイクを通したクイズ大会の様子が聞こえてくる。
思ったよりも速く東の﨑にたどり着くと、ぼくは階段に腰掛けてフィンをはずした。
干潮で潮位が低く、何段か余分に登らなければならなかったが、これなら夢愛さんでも突堤に上がることはできそうだ。現場を確認すると、車が乗り捨てられていたという場所にはもうなんの痕跡もなかった。
時計を見ると、龍ケ崎を出てから二十分ほど経っていた。
一時間もあれば充分往復できるが、右足の悪い夢愛さんはフィンを使うわけにいかない。やはり無理だろうと思った。
もうひとつ考えられるのは、湾内の海岸線を歩いて東の端まで行き、そこからこの突堤まで泳ぐ、という陸路と海路の折衷案だ。
これが一番現実的だが、海岸沿いの遊歩道を歩くと人目に着きやすい、という短所がある。民宿が建ち並ぶ海岸沿いの遊歩道は、もっとも知り合いに遭遇しやすいルートだ。
結局、どのルートをとっても一長一短ある。
そこまで考えて、ぼくは苦笑する。彼女にひとこと確認すれば済むことなのだ。いったい、なにをウジウジとしているのだろう。
そう言えばあの男性が姿を消した後、この近辺に姿を現したことを、夢愛さんは知っているのだろうか?
湾内の穏やかな海を見ていると、今朝潜っていたとき人魚のような魚影の幻覚に襲われたことを思い出した。あれは本当に幻覚だったのだろうか。
もしかして、昨日まぁちゃんたちが話していた人魚のような未確認生物ではなかったか?
海水浴場では前夜祭のプログラムがつつがなく進行し、もーやんが楽しみにしていたミスコン予選が始まったようだ。にぎやかな歓声が聞こえてきた。
*
白い壁一面に水中写真。中になぜか一枚だけ、水着のアイドルが微笑んでいる。
『はまゆり』の店舗と客室の間にある中二階には、写真加工用のMacやプリンタ、お客さんが撮影した写真や動画をホームページで公開するためのサーバもある。
その一方で、昔使っていた銀盤写真現像用の暗室まで残されていた。
ぼくはMacを立ち上げると衛生画像で地図を表示し、今朝方見た人魚がたどった航跡を確認してみた。
進路を外挿すると、東の突堤から浜に向かっている。直線的に延長すれば、『はまゆり』に突き当たった。
それにしても、この解像度には驚いてしまう。駐車場の自動車が識別できる。
人魚か。ふと思いついたことがあって、レンタル用のウエットスーツやタンクにエアを充填するコンプレッサーを設置している裏手の機材倉庫に降りていった。
エウレカ(われ発見せり)! 探していたものはすぐに見つかった。洗ったあとの雫がまだついている。
残念だが、これならば右足の不自由な夢愛さんでも東の﨑に一時間で往復できるだろう、と思った。彼女が膝小僧を子どものように赤く腫らしていたのはこのせいか。
そのとき、機材倉庫の窓から細い煙が上がっているが見えて、ぼくは慌てて窓から外を見た。
「めっかっちゃったか」
横の壁に寄りかかりながら、夢愛さんがバツの悪そうな顔をした。タンクトップにデニムのショートパンツ。その手にある細身の煙草から、細い煙が上がっている。
「喫煙習慣があるとは知らなかったなあ」
「お腹の赤ちゃんに悪いとは思うけど」
えっ? ぼくは驚いた。
「夢愛さん。赤ちゃんができたんですか?」
ばか! 夢愛さんがバカにしたような声で答える。
「冗談よ。そんなふしだらな女だと思う?」
「思います」
グーで殴られた。
「なんで隠れて吸ってるんですか?」
「親父がにおいが移るから嫌だって。加齢臭のくせに、って言ったら」顔をしかめながら、
「頭突きされた」
この親にしてこの娘あり、か。
「中途半端に伸びた髪の毛が刺さって、めっちゃ痛かったわ」
挑むような瞳でぼくを見つめて、「煙草なんか止めろって、言ってよ。ホントに体に悪いんだから」
「止めろって言ったら、反発するタイプでしょ」
「つまんない奴。ビンタして止めさせるくらいのことしなさいよ」
そんなことしたら、またグーで殴るくせに。
「あ、そうだ。これを落としませんでした?」イルカのブレスレットを取り出して見せる。「ハワイでは、ドルフィンのモチーフには特別な意味があるようですね」
「変なこと、知ってるのね」
夢愛さんは、怒ったようにブレスレットを引ったくると、煙草をサンダルで踏んづけて消し、礼も言わずに母屋のほうへ歩き去った。
その華奢な後ろ姿を見送りながら、彼女が今朝、東の﨑にいたのは間違いないと思った。(3つに別れた話が収束する次回に続く)
くじ運の悪いぼくは、外れの「駐車場整理」に割り振られ、知り合いのもーやんと共に仕事を始めた。
もーやんの話では、東の﨑に入り込んだ不審車の運転者は見つからなかった。また夢愛さんが以前つけていたイルカをモチーフにしたアクセサリーが落ちていたという。
レンタル機材を片付けるため倉庫に入ったぼくは、隠れてタバコを吸っていた夢愛さんと遭う。
彼女にアクセサリーを返し、不審者の中にいた男と会っていたのか訊くと、時間的にムリだという返事。
ぼくは、モノフィンを使って海を泳げば、脚の悪い夢愛さんでも短時間で行き来できることを見抜いた。
ぼくは倉庫の中で不審者と遭遇するが、逃げられてしまう。
夢愛さんの姉で、あこがれの人である永遠さんと話していたぼくは、不審者が赤い車の男だと着づいた。
*
拾ったスマホを海の家の担当者に届け、ぼくは『はまゆり』の中二階に籠もった。
白い壁一面に水中写真が貼ってある中になぜか一枚だけ、水着のアイドルが微笑んでいる。店舗と客室の間にある中二階には、写真加工用のMacやプリンタ、お客さんが撮影した写真や動画をホームページで公開するためのサーバまである。昔使っていた銀盤写真現像用の暗室まで残されていた。
ぼくは、昨日三人娘の三人目さんに託された水中携帯プレーヤを取り出した。
音が歪んで聴こえるので、直して欲しい――
ぼくが理工学部の学生と聞いて、過大な期待を込めて調子の悪い携帯プレーヤを渡されたのだ。
小型のMP3プレーヤに直接イヤホンが付いており、耐圧防水加工されて水中で使用できるようになっている。プレーヤをオンにしてみるとバッテリがまだ生きていて、音楽が再生された。
女子好みのポップな曲がセレクトされており、その合間にヒーリングサウンドのような環境音楽が混じっている。
自然の中にわざわざ人工の音を持ち込むために大変な労力が掛けられているが、確かにいい音だ。
ざっと聴いた限りでは、別に音の歪みなどはないようだ。MP3の音を分析するためのアプリがなかったか、WEBで調べるためにMacを立ち上げた。
――タスケテ。
そのとき、空耳のような微かな声がしたので、ぼくは辺りを見回した。。
――お願い、助けて。
だれかの悪戯? それとも本当にだれか助けを求めてる? 窓から外を見ても特に異常はなく、セミの声が辺りを聾している。
サブリミナルのようなエコーが被さっているのではないか? とふと疑問がきざした。どうして、三人目さんの携帯プレーヤにこんな音が混ざっているのだろう。
ふとMacの画面を見ると、WEBカメラのLEDが点滅している。
常駐のそれらしいアプリを立ち上げると、ウインドが開いて誰かの顔が映し出された。テレビ電話回線が開いたらしい。
ぼくはちょっと躊躇したのち、傍らに接続してあるヘッドセットを取って左の耳に近づけてみた。
「・・・まゆりの御子柴さんは、お留守ですか?」
ぼくはヘッドセットに付属しているマイクに向かって、おずおずと、
「御子柴さんは、午前のダイブツアーが終わって休憩していると思いますが」
「ああ、そうですか。あっ、さっきはどうもお疲れさん」
知り合いか? まずいな。ぼくは久しぶりに焦った。
「あの、どちらさま?」
相手は、困惑したように、「こちらのカメラが不調なんかな。顔、映ってません?」
もーやんのようだ。ヘッドホンを通した音声は変調がかかっていて、相手を読み取り辛い。
「ああ、さっきはどうも」
「ちょっと、御子柴さんに聞きたいことがあったんやけど、それやったらええわ」PCの画面はなめらかでなく、コマ撮りのようにぎこちなくちらちら動く。
「なあ、前から気になってたんやけど……」もーやんは、ちょっとためらいがちに言った。「人の顔がわかってへんのちゃうか?」
もーやんは勘が良い。テレビ電話が苦手なぼくの様子から、相貌失認であることを察したようだった。
(3つに別れた話が収束する次回から、解決編に向かいます)
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