【ファンタジー小説】宇宙樹(3)
(これまでのあらすじ)
城塞都市アヨーディアの台地『象の舌』へと、歩を進める二人の少年がいた。
魔除けの腕輪をつけた王族のシータと、幼馴染みの軍人ラマハーン。ふたりは、アヨーディアを包囲する帝国軍の情勢を探るため、熱飛球で飛び立った。
シータとラマハーンは、飛球からの偵察でアヨーディアは三倍以上の兵力で、帝国軍に包囲されていることを見てとった。
シータは、『宇宙樹を統べるものは世界の創造主となる』という伝説にカギがある、と考えた。そのため、包囲網を脱出して宇宙樹のあるセレンディアに行く、という考えをラマハーンに伝える。
そのとき、飛球の上昇熱が高まって係留索が外れてしまう。さらに、帝国の魔法士ラーク=シ・ヤシャによる鴉の攻撃を受けるのだが・・・
Ⅰ 脱出
2
そこはまるで鳥籠のような、石室の中の鉄格子だった。
ひと一人が、やっと手を伸ばせるだけの空間。一日過ごせば、それだけで気が挫けてしまうような狭い獄舎。
冷たい石の床と、排泄物を流す溝があるばかりで、警邏をする兵ですら顔をそむけるような悪臭。
そのような鳥籠が、円を描いて並ぶ薄暗い、天井の高い石の洞穴のなか。
中央部のみが別世界のように艶やかに蝋燭の明かりに照らされ、タブラが叩き鳴らされ、シタールの弦が掻き鳴らされる。
ステージのように誂えられた幔幕と舞台の上で、薄桃絹のスカートに肌の透ける挑発的な上衣(チヨリ)をまとった踊り子が妖しく舞う。
楽の音に合わせて、時に激しく、時に優雅に。
タブラが激しく鳴らされ、いっそう華やかな出で立ちの踊り女が中央に現れるや、廻りの鳥籠から口笛が鳴らされる。
そのような、宴の中にいる一人の男。冷たい目に、尖った顎をもつ、うすい髭の男だけが、射るような視線を踊り子に向けていた。
やがて慰問の宴が終わり、獄の外に誂えられた天幕のなかで、今度は警護の兵たちに唄や踊りが振る舞われ、非番の兵は美酒のご相伴にあずかる。嬌声や楽の音が最高潮に達する夜半。
誰かの悲鳴が、夜気をつんざいて響き渡る。
慌てて天幕の外に出た兵士の目に映ったのは―― 白い月を背景に宙を舞う、男の首。
*
シータ。シータ!
肩を揺すられ、自分の名が呼ばれていることに、うっすらと気づく。
頭は黒い霧に包まれているようにもやもやとしていたが、やがてその霧が徐々に薄れていくのがわかった。
「夢を見ていたのか。ここは、どこ?」
シータの目に、心配そうにのぞき込むラマハーンの顔が映った。
「ここは双樹宮の寝台の上さ。ヤスミナが添い寝してくれてるぞ」
シータが怒ったようにラマハーンの胸を突き返した。
「つまらぬ事を言うな。飛球はどうなった?」
ラマハーンは肩をすくめる。
「元気なようだな」
周りを見ると、黒い羽根が籐の籠のあちこちにくっっついていた。
目の前は沼地で、息を吸うと立ち上ってくる瘴気が肺に入ってむせた。
ねじくれた枯れ木が沼の中央あたりから突きだし、今にも幽鬼が目の前に迫ってくるようだ。緑がかった色をした泡が、目の前ではじけた。
「臭いな」
傾いたバスケットの中で虫がたかるのを追い払い、腰の革袋から癒傷草を出し、すり潰して傷に塗り込む。
「傷口からヴェーターラを追い出す呪文、知ってる?」
ラマハーンが聞こえないふりをするのを、恨めしげに見る。
ふたりが乗っていたバスケットは斜めに沼地の泥に突き刺さって、危ういバランスを保っていたが、ゆっくりと傾いて行くのがわかった。
バスケットから落ちる瞬間、ラマハーンは湿地から覗いている乾いた飛び地めがけて、敏捷に跳んだ。
いっぽう、無様にバスケットから投げ出されたシータも、運良く湿り気を帯びた柔らかい叢に転がった。
萎みかけた飛球の外皮がバスケットに被さり、灼熱石が水のなかに落ちて、じゅっ、と音を立てた。
「シータ、生きてるか?」
ラマハーンの問いに答えず、シータはふてくされたように乾いた場所を選んで寝っ転がった。
「怪我はないか?」
重ねて訊いてくるラマハーンに向かって、
「自分だけ乾いた場所に飛び移って、ずるいぞ」と恨みごとを言った。
「おまえが、あんな飛球なんか作るからいけないんだ」
「ここは、どのあたりだろう?」
鴉の大軍に目隠しをくらっていたが、飛程から考えてアヨーディヤの南東にあたる湿地帯のようだ。
”偉大なる”アハルド王が、帝国の戦象部隊を退けた栄光の戦場だ。
それは<大忘却>の混乱を収拾したのち、増大するいっぽうだった帝国領の南限を決めた戦いでもあった。
蒸気駆動による敵部隊の残骸が、いまでも沼沢地のあちこちから飛び出している。それらの破片は錆び付くのが早いのか、すべて赤茶けていた。
飛球の外皮が灼熱石の熱で燃え始め、湿地のなかで白い煙を上げていた。
「まずい。煙で墜落地点がばれる」
「瘴気に引火したら大変だ」
ふたりは慌てて消そうとするが、すでに手遅れだった。
外皮は半ば燃え尽き、黒々とした塊に変わっていく。幸いにも火が瘴気に引火して爆発する気配はなかった。
アヨーディヤ南東の湿原は大軍が展開できないため、四囲のなかで敵が唯一遠巻きにしている方角だった。
流されたのが他の方角ならば、敵地のまっただ中に墜落することになっただろう。
突然甲高い鳴き声が響き渡った。
「今でも戦で死んだ兵士が沼の中で眠っている。亡霊が彷徨う呪われた場所だ」
言い終わらないうちにカササギが飛んで、シータはびくりとする。
「ここは早く離れたほうがいい」
ラマハーンが笑いながら言った。
湿地の間を縫って土手が築かれ、細い通路が作られている。板が渡してある場所もあったが、気をつけないと腐っていて踏み抜く畏れがあった。
ぬかるみに足を取られて移動の速さはゆっくりだったが、アヨーディヤの城壁は目の前に見えている。しかし油断は禁物だった。沼地のなかには、人の背丈より深い底なしの穴もある。
白い霧の中、光が沼の水に反射している。
「ヤスミナとはもう寝たのか?」
後ろを重い足取りで歩くシータに向かって、ラマハーンが尋ねた。
「まさか。彼女は生き神(クマリ)だぞ」シータは怒ったように答えた。「ぼくは母君とちがう。許されぬ恋などしない」
脳裏に、幼い頃からよく一緒に遊んだ愛らしい笑顔が浮かぶ。
王である父より、神官の長であるヨキよりも偉大なる生き神。ヤスミナという名の、幼なじみの少女はもういない。
「関係ないよ。好きならさっさと抱いちゃえ」
なんと不敬な。
怒る一方で、ラマハーンが自分の怒りを掻き立て、正気を保つよう気を遣っていることにシータは気づいていた。
「おまえこそ、人妻に手を出すなよ。敵でなく後ろから刺されたら戦士として恥だ」
「それこそが、理想的な最後だよ」
沼地を囲むように布陣されているはずの敵兵が、煙を見て斥候を送ったはずだ。今にも追撃の足音が聴こえてくるかもしれない。
「このあたりに布陣しているのは、マリク辺境伯の軍だな」
組織力が弱く、戦意に乏しい元の友軍が布かれていたことが幸いした。
「一刻も早く城壁内に入らないと」
緩やかな濁流の筋に添って城壁が見え、それは海に浮かんだ島のように映った。沼地を抜け、腰の高さくらいまで泥水がある濠に達していた。
先を歩くラマハーンは、シータを振り返って言った。
「まっすぐ行くと距離的には近いが、壁までの間に障害がなく敵から丸見えになる。迂回して行こう」
「いや」
シータは反対した。
南東に向いた城壁の表面が、昼に向かう光にさらされている。
アヨーディヤの城壁を巡る濠は、南側以外では深く幅も広いが、湿地帯に繋がる南側では浅くなっている。
城壁の間近まで草が繁る泥水をたたえた湿地が展開し、さらに西に向かうとサラスヴァティの流れが緩やかに放出される、獅子の門のアーチが見えるはずだった。
ここから見上げると、城壁の上部は大きな石が組まれて造られているが、基礎部分は明らかに構造が異なっていた。
城壁の基礎にあたる背丈くらいの高さまでは、表面がなめらかでタイルのような艶がある。この部分は、三代にわたる名なき君主(ラジヤ)の時代の地震にも耐えた実績があった。
<大忘却>以前の技術で造られたものであることに、間違いない。
いっぽう、その上に築かれた石組みは、ところどころ蔦が覆い鳥が巣を作っている。
もともと城壁の遺構があったところに、アヨーディヤの旧王が新しい構造を継ぎ足したのだ。「獅子の門」と名ばかり勇壮な南門は、樫材の分厚い板を鉄枠と鉄鋲で補強した不格好なつくりである。
「<大忘却>以前の技術による城壁を、前から見たいと思っていたんだ」
臭気のきつい泥水が溜まった濠に足を踏み込むと、壁に近づくにつれ腰まで深く体が埋まった。
ラマハーンが横を見ると、ゆっくりと壁に向かって流れが渦を形作っている。
なにかがいる。鰐?
汗が脇を伝う。後ろのシータに注意を促そうとしたとき、
「この壁は、まだ生きている」とシータが言った。
旧城壁部分が脈動しているようにゆっくりと蠢いていた。それが、渦を作っているのだ。
そのとき沼沢地の彼方から地鳴りのような音が響いて、壁の脈動が止まった。
「敵が来る」
壁が静まりかえるのに呼応して、敵の馬蹄の音が大きくなる。城壁を近くで見ると、一定の間隔で人が入れるくらいの洞が穿ってあるのがわかった。
「雨期で増水したときに水流が速くなって浸食するのを防ぐために、わざと窪みを作って流れに淀みを作っているんだ」
シータが分析する。
ラマハーンにとって、洞がある理由はどうでも良かった。
シータを窪みのひとつに匿い、自分も隣の洞まで泳いで行くようにしてたどり着くと、身をすべり込ませた。
こっそりと伺うと、帝国旗をかざした数騎のラグナ兵が、沼沢地を縫うように足場を確保しながら馬を寄せてくる。
赤や黒の入れ墨をした腕が巧みに手綱を操る。先頭の騎手が立ち止まると、奇怪な意匠を施した兜のひさしを跳ね上げてあたりを睥睨した。
槍を持つ右手で示す先に、飛球の残骸がくすぶっている。
「足跡はこちらに向かっていた。近くに潜んでいるはずだ」
騎兵の背後からうなり声が聞こえ、黒い鋼の毛に覆われた大型のケルベロスが二頭、姿を現した。
頭が人の肩の高さまである。しかし、においに敏感なケルベロスは、強い臭気に尻込みをした。
「どこへ行った?」
「探せ」
口々に叫びながら、兵士はケルベロスを追い立てた。
「湿地に入った痕があるぞ」
馬高には届かないが、それに迫る高さの黒犬は顔をそむけ、なおも追跡を強要されると味方に向かって牙を剝いた。
敵兵はなおもしばらくの間あたりに留まっていたが、臭気を嫌うケルベロスの威嚇に屈して立ち去った。
洞のなかで息を潜めていたふたりは、しばらくして辺りが静かになると、
「行ったか?」
おそるおそる顔を出した。
「臭い!」
顔にハエがたかる。左手の腕輪の下に張り付いたヒルを無理矢理剥がすと、血が噴き出した。シータは顔をしかめながら止血する。
「ケルベロスの気配を感じたときは、駄目かと思った」
「犬は強い嗅覚を持っているからね。腐臭のひどいここでは逆に使えない。それより喉が渇いたよ。この水飲めないかな」
「呑むと死ぬぞ」ラマハーンが冷たく言った。「急ぐんだ。陽が西に沈んでいけば霧が晴れる。見つかりやすくなるぞ」
次の瞬間、背後からの剣閃を感じて、ラマハーンは飛びすさった。
「だれだ?」
ふたりの後ろに、いつの間にかひとりの男が立っていた。
侍女にその長い黒髪を梳かれながら、クシャナはコーキラ鳥の声に耳を傾けていた。
木目が露わな板壁に、鏡台と椅子、鉄枠の寒々とした寝台だけ、という質素な室内だが、目の不自由なクシャナにとって音の恵みのほうがありがたかった。
タンプーラの音に劣らぬその心地よい鳴き声は、夜毎押し寄せる不安に押し潰されそうになっている彼女の心に、つかの間の安堵を与えてくれる。
アヨーディヤの風に合わせた短めの麻布を腰に巻きつけ、端を肩にもってくると、戦時なのだということが身に沁みる。
男たちはいくさになると、女にも質素を求めてくる。
自分たちが命を投げ出しすことと、女が美しく着飾ることになんの相関もないが、そのようなことを口に出さないほどには世間を知っている。男はまた、頭の良い女を好まぬものだ。
外に立つ足音がして侍女がつと立ち上がり、扉を開けた。
「カイモン様」
クシャナは、視線をあらぬ方にやりながらも、相手の名を過たず言った。
「人は光によって見るにあらず、ということがよくわかるな。なぜ儂だとわかるのかね?」
カイモン導師は、笑いじわが染み付いたような顔で、狭い室内に入ってきた。侍者も付けずに独り歩くのを好むのは、神官よりも民衆に指示される宗教家らしいところだ。
「足音、杖の音、擦れる長衣の裾がたてる音でわかります」
それと、におい。とは口にしなかった。
老師は、すえた無花果のにおいがした。侍女が老師の手を取り、クシャナの隣の長椅子に導いた。
「感謝しております。私に居場所を与えて頂き」
「いくさは、人の心を荒ませるでな。アヨーディヤの本来の姿を誤って覚えてもらわぬよう、配慮したまでよ」
カイモンは、その癖で杖をこつこつと地に打ち付け、リズムを取りながら話した。
「それでも、この異国で彷徨っている、迷い童に宿を賜った恩義は忘れません」
「むさ苦しい修行場の片隅では、却って恐縮じゃ」カイモンは娘の古風な物言いが気に入っている。「その迷い童は、いったい何を求めて迷っておる?」
アヨーディヤにも珍しいの漆黒の髪と、そばかすの残る白い肌のクシャナは言葉を選んでいるようだ。
事情があるなら、無理強いはせぬ、と老人が言いかけたとき、
「宇宙樹」とクシャナが言葉を発した。
「宇宙樹を統べる者は、世界の王になる」
カイモンの言葉に、クシャナは応える。
「セレンディアでも宇宙樹の周辺は廃墟となり、だれも近づくこと能わぬ不可侵の森となっています。いったい、なぜなのでしょう?」
「不思議が好きなのじゃな? それとも謎使い士(リドル・マスター)、クシャーン・シャーヒ殿は宇宙樹すらも己が駒にしようというのかね?」
クシャナは光を失った眼に笑いをためて、「はい」と言った。
「自分が使う駒を増やす、というより好奇心が勝る、と言った方がいいでしょうか。謎使い士は我が天職です」
「その若さで」
カイモンが愉快そうに言葉を挟む。侍女は日頃気むずかしい導師が、機嫌の良いことに驚いていた。
「ここ、アヨーディヤにも、数々の不思議があるようですね。小耳に挟んだのですが、例えば脱出不可能な牢獄から逃げおおせた魔法士。脱獄が不可能な状況で、朝露のように姿を消す魔法を演じた男がいたとか」
やれやれ、とカイモンが嘆息する呼気が伝わった。
「ここにも、解くこと能わぬ謎に憑かれた愚か者がおるわい」
「ここにも?」
なんでもない、とカイモンは言葉を濁した。
「ラーク=シ・ヤシャならば、獄に繋がれておったときは魔法士ではなかった。ただ王の寵姫に懸想しただけの馬鹿者じゃ」
まあ、とクシャナが見えぬ目を輝かせる。
「恋のために命を懸けた御方でしたか」
カイモンはやや呆れた声音で、
「王の寵姫に恋するだけなら良いが、行動に移せば己自身も刑死。相手の姫にも災いが及ぶ」
クシャナは好奇心いっぱいの声でねだった。
「ヤシャについて教えてください。推理するには、まずその人の性格を知らねば」
カイモンはお気に入りの孫におねだりされる祖父のように、相好を崩した。これまで、不遇の第三王子にしか見せたことのない表情だった。
(【ファンタジー小説】宇宙樹(4)に続く)