【ミステリ小説】セイレーンの謳う夏(14)
(本作の短編バージョン「夏の終わりのマーメイド」は完結していますので、ラストを知りたい方はぜひ! )
(あらすじ)民宿兼ダイビングショップ『はまゆり』でバイトする(顔のない)ぼくは、お客さんが不思議な生き物と遭遇したことを知る。
『はまゆり』美人姉妹の妹、夢愛(ゆめ)さんは鋭い推理力の持ち主。ぼくはそんな夢愛さんが、駅前で男と言い争うのを目撃する。
八月の最終金曜日午前――
翌日の金曜日は、龍ヶ崎で行われるダイバーズ・フェスティバル準備のためぼくらは、「遊泳監視」、「水中ゴミ拾い」、「駐車場の整理」のどれかを担当することになる。
物語は、3つに別れたぼくの視点で語られる。
「遊泳監視」を担当したぼくは、龍ヶ﨑突堤に駐まっている不審な車を調べに向かう。
『カモメ荘』バイトである「もーやん」と共に車のところに行き、車内に倒れている人を見つけた。
しかし、救護員を連れて車に戻ると中の男は消えていた。
「水中ゴミ拾い」を担当したぼくは、自分の病気である「相貌失認」について思いを馳せる。
潜りながらゴミ拾いするぼくの耳に、携帯プレーヤから助けを求める声が聞こえ、ぼくの目の中に、人魚の姿が飛び込んできた。
くじ運の悪いぼくは「駐車場整理」に割り振られた。
その後夢愛さんと遭い、モノフィンを使って海を泳げば、脚の悪い夢愛さんでも、短時間で湾を行き来できるトリックを見抜いた。
3つの視点から得られた情報から、物語の謎が解かれていく。
8月最終金曜日、ぼくは夢愛さんに請われて、彼女のお母さんの
お墓参りの運転手を務めた。
その帰り道、竜ヶ崎神社に立ち寄ったぼくたちは、ドローンを見た。
ぼくはドローンの操作者が、盗撮を目論んでいたことを見破る。再度沼の上を飛ばせたドローンには、あるモノが映し出された。
事情聴取ののちに『はまゆり』に帰ったぼくらは、お客さんのひとりが失踪したことを告げられる。
失踪したのは、三人娘のひとり野々宮みさをさんだった。
翌日、ぼくと夢愛さんは駐在所に出向き、龍神池で溺死体を見つけた経緯を聴取された。
夜中に夢愛さんに叩き起こされたぼくは、もーやんも加えた3人で事件を検討した。
夢愛さんは、竜ヶ崎神社で見つかった男が永遠さんの元旦那であることを告げ、DVの前歴で接近禁止命令を受けていたことを知る。
失踪した野々宮さんの水中形態プレーヤを調べたぼくは、音源に重なって「タスケテ、ガッコウ」などの声が、録音されていたことを突きとめた。
龍神沼で遺体で見つかった永遠さんの旦那は、復縁を臨んでいた。現在の恋人御子柴さんのアリバイは、相貌失認のぼくの証言にかかっていた。
ぼくは夢愛さんと、失踪した野々宮さんのマンションを訪ねた。
9 人魚の涙
野々宮さんのマンションから、さらに三十分くらい車を走らせて市街地に着くと、開けた野原の中に校舎が見えてきた。
「それで、ここはどこなの?」
「いなくなったお客さんの野々宮さんが、かつて通っていた学校。ぼくもこの小学校に在籍していました」
いい思い出はあまりないので感慨もわかないと思っていたが、校庭を囲むフェンスが見えてくると胸が締め付けられるようなノスタルジーに駆られた。
同窓会などに無縁だったので、これまで振り返ることがなかったからかもしれない。
「なんで、この学校に手がかりがあると思うの?」
「彼女の携帯プレーヤのサブリミナル音声が語っていたからでしょう? 全部復習させる気ですか」
夢愛さんが目ぼけ眼をこする。
「廃校になってたにしては、綺麗ね。もっとホラーな建物を期待してたのに」
市町村の統廃合と少子化の影響で、廃校になったと聞いていた。最近のことなので、幽霊が出るような荒れ果てた雰囲気ではない。
むしろ夢愛さんの言うように、校舎のモルタルの壁がピンクや黄色の原色に塗り替えられ、モダンな雰囲気さえする。
校庭から遊具は取り払われ、広くなったように感じた。相変わらずにぎやかなセミの声に加え、校庭を飛ぶ赤とんぼが季節の変わり目を顕していた。
車を校門のすぐ前に駐める。
校門はチェーンで開かないように括られていたが、低いので簡単に乗り越えることができた。
後ろをみて夢愛さんを入れてあげようとすると、すでにジーンズの片足を乗り越えていた。負けず嫌いなので、右足が不自由でもこのような場面で決して助けを求めない。
ぼくが気を遣って知らん顔をしていると、何事もなかったかのように側に来た。彼女の右足に合わせて、ゆっくりと校舎まで歩く。
正面の校舎とT字になるように、職員室や理科室、音楽室のある棟が渡り廊下を介して接している。
校舎の向こう側の南に面した裏庭に出ると、芝がけっこう綺麗に手入れされていた。子どもの頃に思っていたより、全てのものが小さかった。
自分が大きくなったのと、心理的に学校への依存から解放されたためだろう。
廃校と聞いても、ホラーで出てくるようなおどろおどろしい雰囲気は全くない。
それでも、かつてこの場所を駆け回っていた大勢の子どもたちがいなくなった、という喪失のイメージが分かちがたく存在している。
「水が出るようですね」
花壇の側にある蛇口をひねって確認した。
ゲートボール大会のスコアボードが渡り廊下の陰に置いてあった。今ではお年寄りが、ここを利用しているようだ。
夢愛さんは、「ちょっと」と言って校舎に入る。
「どこへ行くのですか?」
「レディに訊かないの」
トイレか 。インターチェンジから一時間以上かかっているから、無理ないか。
「花子さんに気をつけて」
思いっきりどやされる。
今でも利用する人の便宜を考えてか、一階校舎内にあるトイレに通じる裏口はカギがかかっていないようだ。夢愛さんは、ドアを開けて校舎内に入った。
好奇心に駆られて、ぼくも一階校舎に入ってみる。
廊下が思ったより狭い。陽が窓枠の影を落として、十字の格子ができていた。小学生のころ、この格子を踏まないように歩いたことを思い出した。
懐かしい気分に浸っていた。こんな平和な場所と失踪した野々宮さんを結びつけるものはないに違いない。
そのとき、ぼくは教室の中にセイレーンがいるのに気づいた。
恐怖の波がぼくを掠い、深い海の底へ連れ去るような感覚が押し寄せてくる。
顔、顔、顔。
教室の後ろの壁に、絵が貼り付けたままになっていた。
小学校の低学年が描く稚拙なおとうさん、おかあさんの顔。ぼくは、子どもの頃のことを思い出した。
どうしても描けなかった。
どうしても、目や鼻や口の配置が、形が、それが作る表情が再現できない。頭の中に浮かんでこない。クレパスを持つ手が凍ったかのように動かなかった。
知育の発達が遅れている? 母がその言葉を絞り出すように言うのが聞こえる。いや、他のものはちゃんとデッサンできるのだから。
なぜ顔だけ、描けないの?
やめて。やめて。やめて。
クラスメートの、担任の先生の顔が、のっぺらぼうの顔が押し寄せてくる。ぼくは呼吸が苦しくなり、その場にしゃがみ込んだ。
「大丈夫?」
夢愛さんの声がした。彼女がぼくの手を取って、ゆっくりと屋外に連れ出してくれる。「汗がすごいよ」
夢愛さんののんびりとした声で、ぼくは現実に引き戻された。
どこから出してきたのか、子供用の冷却ジェルシートを額に貼ってくれた。
カッコ悪い。けど仕方ないものは仕方ない。
「ここで、小学生やってたの?」
ぼくは頷く。「出来の良い生徒じゃなかったけど」
「ねえ、野々宮さんもここに通ってたの? 同学年?」
ぼくは、はっとした。大事なことを見落としていた。
相貌失認で顔に覚えがないとはいえ、名まえや特徴からも、彼女のことを思い出せない。小学校の途中で転校しているらしいが、それほどのマンモス校でもなかったのに、なぜ思い出せないのだろう?
帰ったら小学生時代の記録類を検めてみよう。
「気分良くなった?」
ええ、とぼくは答えた。ありがとうございます。
夢愛さんの表情はわからなかった。
「あれは何?」
彼女が指さす校庭の外れ。南東の角地に木造の四角い建物があった。
「講堂です」
「体育館?」
「いえ、体育館は別にあって、あの建物は旧校舎の残りです」
昭和初期に建造された由緒ある木造洋館だが、耐震性に難ありとして修復か、取り壊し彼の議論になっていたはずだ。
しかし結局廃校によってなしくずしになってしまった。木造で外観からは二階屋のように見えるが、内部は吹き抜けの天井が高い構造になっている。
「ちょっと見てっていい?」
ぼくは頷いて、講堂の玄関ポーチをくぐる。施錠しても意味のないような古びた玄関扉は、傾いだ状態で開くことができた。
内部はちょっとカビの臭いがして、歩くとほこりが舞う。
夢愛さんは、正面ステージに立って悦に入った様子だ。ぼくは内部を見渡して感慨にふける。
ぼくが小学生のとき、すでにこの建物は使用されておらず、中に入ることも禁止されていた。
ときどき埃まみれの窓ガラスから中の様子を覗いて、妄想をたくましくするしかなかったのだ。
ふと見ると、正面ステージの夢愛さんがいない。どうしたのだろう? と思った途端、悲鳴がして板が折れるような音がした。
「夢愛さん!」
何が起きたのかわからなかったが、助けに行こうとした瞬間、ぼくの後ろで足音がして振り返ると目の前に火花が散った。
*
手首が痛く、頭がずきずきとして二日酔いのときのように意識が戻るのを拒否している。
「……を覚ませ。このバカ!」
誰かがわめきながら、ぼくの頬を張っていた。
このスナップの効かせ方は夢愛さんのビンタだ。ならば起きなければ。悲しい条件反射で目が覚めた。
あたりに煙が充満し、白く視界が濁っている。
夢愛さんはなにか喚きながら、ぼくの手首を引っ張りまわすので、痛くてたまらない。
ぼくの手首は木製の柱を抱きかかえるように、太めの結束バンドで幾重にも拘束されていて身動きがとれなかった。
「夢愛さん。痛い!」
ぼくの手首を引っ張る夢愛さんに文句を言った。
「んなこと言ってる場合じゃないっ!」
夢愛さんが焦っている。煙が目に染みて目も痛ければ、頭も痛い。どうなってる?
「アタシが舞台袖で床を踏み抜いて転落してる間に、誰かにやられたみたい」
そうか。徐々に思い出してきた。
頭を殴られて気を失っているうちに、縛られたみたいだ。
「夢愛さん。怪我は?」
「お尻を打って腫れちゃった」
「どうせなら、胸を打てばよかったですね」
「頭を打ってバカになった?」
いや、これが通常モードだ。
頭を殴られて気絶なんて、コミックや映画でしかないシチュエーションだと思っていた。鈍器を使い、ちょうど気絶させるくらいの加減で頭を殴るなんて芸当は、素人にはできない。
強さが足りなくて単に痛い思いをさせるだけか、強く殴りすぎて殺してしまうか、だがぼくは運が良かった。
あるいは相手が砂を入れた革袋、ブラックジャックのような、打撃面を分散させる特殊な器具を使ったのか?
「ここは、講堂の中ですか?」
「舞台の袖に立ってる柱よ」
「煙が出てる。火事?」
「だれかが閉じ込めて火をつけたらしい。あたしが踏み抜いた穴から出たときには、もうこんなだった。速くこの結束バンドを切らないと。何かない?」
ぼくの手首を縛っている結束バンドは結構強靭で、手首を擦って血が出ているのに一向に切れる気配がない。
「夢愛さん。逃げて!」
「ダメ。扉が開かない。さっき何かバンドを切るものを探そうと思ったんだけど」
そう言っている間にも、煙は充満してきて息が苦しい。それよりも、熱くて汗が噴き出る。
「ぼくを放って、早く逃げてください」
「ダメだよ。そんなの」
夢愛さんの顔が歪んで見える。
「夢愛さん。泣いてます?」
これが泣いている表情? 悲しみの表情?
ぼくは初めて他人の気持ちを、感情を理解、その表情から理解出来たような気がした。悲しみは伝搬する。
その表情を見れば、ぼくも悲しみで涙が出そうになる。
「速く。もうヤバイ!!」
「ダメ」
夢愛さんが、ぼくの顔に顔を寄せてくる。その顔を初めて美しい、と認識することができた。
「夢愛さん。顔、綺麗なんですね」
「バカ。今ひどい顔してるのに!」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。でも確かに綺麗な顔だった。
「純真なカップルが焼死したとき、検案書には男と女の遺骸に別の名称が使われたけど、それはなぜかわかります?」
夢愛さんが首を振る。
「男は”したい(死体)”。女は”痛い(遺体)”」
「大馬鹿もの!」
大馬鹿で結構。
最後に「見る」ことができるなら、彼女の「笑顔」を焼き付けておきたかった。
「ぼくが好きなのは夢愛さんの顔じゃないから、ひどい顔をしてても構わない。最後に笑った顔を見ることができて良かった。
お願いだからもう逃げてください」
そう言っても、強情な彼女は動く気配もない。どれくらいふたりで固まっていたのだろう。
「お取り込み中、悪いんやけど」
のんびりした声が白い煙幕から覗いた。
「もーやん!」
口にハンカチを当てた御子柴さんが、ばかでかいチェーンカッターを持ってきた。
「ちょっと引っ張られて痛いぞ!」
ガチッという歯の噛み合う音がして、結束バンドが切れた。ぼくらは互いに体を支えるようにして、まろびつつ講堂の外に走り出た。
貴重な木造校舎は、赤い火に包まれていた。
咳き込みながらも走って距離を取らないと、熱くてたまらなかった。
やっと安全な距離まで逃げてから、四つん這いになってしばらくの間むせていた。目からは涙がぽろぽろと出たが、嬉しいからか煙のせいかわからなかった。
「夢愛さん?」
とにかく、彼女が無事かどうか確かめ、側で同じように涙にまみれているのをみて、安心した。
「見損のうたわ。あんなダサイ告白するやなんて!」
もーやんが悪態をついた。
(「セイレーンの謳う夏」(15完)に続く)