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【ファンタジー小説】宇宙樹(6)
(これまでのあらすじ)
城塞都市アヨーディアの台地『象の舌』へと、歩を進める二人の少年がいた。
魔除けの腕輪をつけた王族のシータと、幼馴染みの軍人ラマハーン。ふたりは、アヨーディアを包囲する帝国軍の情勢を探るため、熱飛球で飛び立った。
シータとラマハーンは、飛球からの偵察でアヨーディアは三倍以上の兵力で、帝国軍に包囲されていることを見てとった。
シータは、『宇宙樹を統べるものは世界の創造主となる』という伝説にカギがある、と考えた。そのため、包囲網を脱出して宇宙樹のあるセレンディアに行く、という考えをラマハーンに伝える。
そのとき、飛球の上昇熱が高まって係留索が外れてしまう。さらに、帝国の魔法士ラーク=シ・ヤシャによる鴉の攻撃を受けるのだが・・・
ヤシャの鴉に攻撃された飛球は、幸いにも唯一敵が遠巻きにしていた南東の湿原に墜落した。
シータとラマハーンは湿原の瘴気に助けられて、敵兵の追撃を逃れる。
その頃王宮の一角では、カイモン導師が盲目の謎使い士(リドル・マスター)クシャナと面会していた。
いっぽうシータとラマハーンは、敵兵の追撃を逃れたものの、帝国の諜報官”王の耳”であるサイラス・オルクウムの襲撃を受ける。
サイラスはシータを人質に、ラマハーンの武技を逃れようとする。しかしそこに駆けつけた、ヌビアの女傭兵アスラによってシータは救われた。
「謎使い士」クシャナは、ヤシャによる脱獄の謎を調べるため、「黒穴」ティアル獄へと赴いていた。
ティアル獄でシータと遭遇したクシャナは、シータにヤシャが脱獄した日の状況を教えてもらう。
戦勝記念日のその日、ティアル獄へは慰問団が訪れていた。その慰問団には、シータの母が踊子として紛れていた。
牢獄には魔法封じが施され、真実の実による尋問からはヤシャの脱獄は不可能に思えたのだが・・・
Ⅰ 脱出
2(承前)
シータは真面目な声音になり、懇願した。
「教えて欲しいな。その方法を」
「その前に、もうひとつ謎を解きたいの」クシャナがシータのほうに光のない目を向けた。
「あなたは、本当はだれなの?」
3
水晶宮は、鳥籠だった。
四囲を美しい透明な結晶壁で覆われ、日々の彩りを映し出す。朝日に輝き、月のほの暗い明かりには微かな光を反射する。
雨期には緑が、乾期には乾いた黄色がその表面に映えた。
窓には色とりどりの硝子が嵌め込まれ、鏡板を張った壁、黒檀や香木で作られた優雅な家具。
アーチになった出窓の格子は二重になって鎧戸が冷たい風を遮る。黒い鉄の格子が外界のあらゆる誘惑から鳥を遠ざける。
金剛石の首飾り。典雅な花房がついた払子。季節ごとの果物。
乾期ならばアーマラカの実がボウルに盛られて常に置かれている。
中庭には色とりどりの蓮華(パドマ)が浮いた湖のような広い池があり、青蓮華(ウトパラ)や白蓮華(アンプジヤ)に囲まれて沐浴もできる。
沐浴が終われば、象牙細工師が丹精込めた髪飾りや香水で身だしなみを整える。
そして…… 鳥籠にふさわしく、廻りには中の鳥を逃がさぬよう警備の兵が配置されていた。
鳥籠に捕らえられた美しい鳥は、天蓋付きの寝台にうすい衣をまとってしどけなく横たわり、珍陀酒の入った白磁の瓶を、紅い唇に運んだ。
月のように美しい、と称されたかつての踊り子は、いまだ引き締まった体つき、たるみのない肢体、若々しい肌を保っていた。
流れる黒髪は、年齢にそぐわない妖しい美しさをもち、見る者を魅了する。
王冠のように編み上げた髪の下には宝石の輝きをもったかんばせ。宝石がちりばめられ、銀の象眼が施された腕輪が細い手首を飾っている。
アザミの綿毛を思わせる優美な眉のラインからは、香油や花の香がかぐわしい。伴奏するチャコーラ鳥の美しい鳴き声も彼女にはかなわない。
ただ、彼女を表現するとき、太陽よりも月が選ばれるのは、この佳人がもつ儚さのようなものが、力強い光にそぐわないと感じさせるからかもしれない……、などとは、シータは思わなかった。
「また呑んでる! 昼間から」
カーンティは我が子をちらりと見やり、ぶすりとした不満の表情を返した。シータは母親がいる寝台に腰掛け、背を向ける。
その背は口よりも雄弁に問いかけたいことを顕している。
不義の子。我が父は王ではなくヤシャではないのか? 口にすることができないでいる疑問を。
カーンティは何も言わず、飲み物を口に運びながら戯れ歌を口ずさむ。
わたしの心は千々に乱れる
あなたのその呪文(マントラ)を刻んだ真珠の首飾り
つれない視線を向けないでいて
私の心は千々に乱れ、やきもきしているわ
ザーリム・ナザル・ハターレ
メーラー・チェイン・ウェイン・サブ・ウジュラー
バルバード・ホー・ラヘ・ハェン・ジ
テーレー・アプネ・シェヘルワハレ
甘露(アムリタ)の歌声と賛美され、天女(アプサラス)、愛神(アチンガ)、吉祥天女(ラクシユミー)と賞賛された容貌は健在だ。
王が今も寵愛し、珊瑚で飾った琵琶を贈り、珊瑚樹(バーリジヤータ)の髪飾りで飾りたくなるのもよくわかる。
あぁ、私の酔いが醒めないうちに来て、あなた
「今日は、アハルド王の祝祭日。いつもなら花火の輝きが水晶宮の壁に映る日だけど、今年は帝国の砲火しか映らない」
「おしゃべり鸚鵡のように、意味のないことを言わないの」
白檀や樟脳、黒沈香、麝香の香りのなかで、実の息子であるシータですら惑わされる。
シータは思い切って言うことにした。
「あの男が牢抜けをした日でもある。ぼくはビシュナと約束したんだ。ヤシャが牢抜けした方法を見破れば、セレンディアに向けての国使としてもらえるように」
カーンティの瞳が、かすかに移ろった。
「考えに考えて、わかったように思う。母様」シータは振り返って、母の顔を見つめた。「なぜ、ヤシャを殺したの?」
*
あなたは誰?
問われた相手の呼吸は、ほとんど乱れなかった。
「参考までにお伺いしたい」むしろ面白そうに訊き返してきた。「なぜ、私がシータ様でないとわかりましたか?」
クシャナは、考えるときのくせで眉間に皺を寄せた。
「まず、あなたの声のする位置から、私よりもだいぶ背が高いことがわかります。噂に聞くシッダータ殿下は、男の方にしては背が低く、私と同じくらいのはず」
「なるほど」
「それに、あなたの呼気からは焦げたような臭いがしました。手燭を灯す前からね。煙草をつかうひとね?」
「それは配慮に欠けました。もうひとつお訊きしたい。身分を隠している相手の正体を暴いて、身の危険を感じませんか?」
クシャナは笑った。相手の諧謔が気に入りそうだった。
「私に危害を加える気なら、とうにそうする機会があったはず。ヤシャのことに詳しいことからみて、あなたは王の耳でしょう?」
さらに相手から呼吸の乱れが感じられず、修羅場に長けた者と見た、とは言わなかった。
自分が相手の心を読めることは隠していた方が有利だ。
「参りました。私はサイラス・オルクウム。お察しのとおり、王の耳です」
クシャナはほっとした。
「なぜ、それを隠してシッダータ殿下を名のったの?」
サイラスは苦笑したようだ。
「クシャナ様。諜者に出逢ったときの、あなた様の反応が読めませんでした。もし外にいる僧に助けを求めたりしたら、彼を殺さねばならぬ羽目に陥るかもしれません。
僧侶を殺したら、来世でも不幸になります。そのため、先ほど出逢ったばかりの旧知の名を騙ってしまいました」
その言に反して、サイラス・オルクウムは必要ならば眉も動かさずに僧を殺すだろうと思った。
「わかったわ。で、私をどうするの?」
「宇宙樹の謎を解くのを手助けいたします」
「なぜ私がそれを求めているとわかったの?」今度は本当に驚いた。「あなたは変わってるわ」
「あなた様の同類です。此度の帝国の侵攻の狙いが、セレンディアにあることはご存じでしょう。あなたを助け、宇宙樹の謎を解くのは、この目的に合致しております」
「ありがとう。本当は異国の地で心細かったのよ」
「それで、本題です。のちのヤシャことルクシヤの牢抜けの方法が、本当にわかったのですか?」
「ひとつ、思いついた事があるのです」クシャナは近くの石段に腰を下ろした。「ルクシヤは問題の日、殺された。この牢の中で」
「仮死蘇生術を使ったのですか? しかし、それでもどうやって牢の外に出たのでしょうか?」
「死体を処刑室でバラバラに切断し、楽器の中に分散して隠して運び出したのよ。
頭を運ぶにはタブラのような鼓の皮を剥がし、中に入れてから膜を張り直せばいいし、手や足はガタムなどの素焼き壺の中に入れればいい。胴体が一番問題だろうけど、サウスのような大きな胴をもつ弦楽器なら入るでしょう。
たぶん血が漏れないよう、布で巻いてから入れたと思います」
「あなたのような方から、そんな陰惨な話を聞くとは驚きですね。
だが、これは究極の蘇生術だ。当代最高の魔法士である今のヤシャでも難しいが、魔法士になる前のヤシャに、それができたとは思えません」
「ヤシャは死んだの。少なくともヤシャの前身と目されていた、ルクシヤ・シャーという羊飼いの次男は。
そして、頭を埋葬するところを見られたため、首が浮いていた、との噂になった」
オルクウムの呼吸音から、やっと相手が本当に驚いていることがわかった。
「では、今ラーク=シ・ヤシャと名のっているのは?」
「帝国の人は魔法士のヤシャしか知らないし、こちらではそれ以前の姿しか知られてない。今ヤシャと名のっているのはたぶん、ルクシヤの弟」
「なぜ彼は兄になりすまし、魔法士となったのでしょうか。それに、どうしてカーンティは愛人を殺したのでしょうか?」
「それが、新たに生まれた謎」
クシャナは、物に動じないオルクウムですら引き込まれるような笑顔を見せた。
*
宰相ビシュナの執務室で、眼前に座る六歳下の異母弟ラーフラは、落ち着きなく視線を泳がせていた。
『髭に白が勝るようになれば、分別も勝る』と言われるような歳ではまだないが、この弟は二十二にしては頼りない。
アヨーディヤの第一王子ビシュナ、第二王子ラーフラ、第三王子シッダータは、互いに似ておらず、みな母方の血を強く受け継いでいた。
ふくよかな容姿に宿る貧弱な魂を泳がせているラーフラを見て、ビシュナは改めて嘆息した。
ビシュナは痩身で、左手の中指、薬指がくっついたように変形しているのは、かつて捕虜となったとき拷問されたことによるものだ。
昔の話だ。
アヨーディアの王宮は長き平和に弛緩し、突然の帝国襲来にまるで破滅の予兆を聞くが如くに啼き騒いでいる。
これまでの籠城とは異なり、本丸も危ういことに気づいていない。
シッダータが次兄ならば良かったろうに。だが、そうではない以上、やるべきことをやらねば。
「明日、御前会議が催される」
ラーフラは目をぱちくりさせている。自分には関係がない、とでもいいたげだ。
王、神官、生き神の御前によるアヨーディヤの最高決議機関なのだが。
「その場でシッダータをアヨーディヤの国使として、セレンディアに派遣することが決められるだろう。その国使一行の長を、おまえが勤めるのだ」
ラーフラは驚いて色をなした。
「なぜ、おれがそのようなことをしなければならない?」
「聞け」ビシュナは、辛抱強く説いた。
執務室の蝋燭に蛾が吸い寄せられている。彼は知らず声を落としていた。「国使はわが国を帝国の侵略から守るため、セレンディアに派兵を請う」
「無理だ。セレンディアが動くものか。それにどうやってこの包囲から脱出する?」
ああ、その程度のことはわかるのか。
「包囲からは脱出できるのだよ。帝国側に話は通してある」いぶかるラーフラに、ビシュナは言い聞かせた。「おまえたちはセレンディアには向かわない。本当はおまえの指揮下に、降伏の使者として帝国の本営に向かう」
「シッダータが承知したのか?」
ビシュナは、黙って赤い鞘に納められた短剣を手渡した。刃に毒を含む暗殺剣だ。ラーフラはそれでも逡巡していた。
「おれが国使の長となることを、シッダータが承知するかな?」
「するさ。生き神の命ならばな」
昨夜、己の腕の中に抱いたヤスミナにその旨は含ませてある。
ラーフラの顔に自信が上ってくるのを見て、ビシュナもうすく笑った。
Ⅱ 迷宮
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1
夜のしじまを縫って、コーキラ鳥の美しい鳴き声が聞こえる。
森の木々が黒い影を落とし、風に蠢く巨大な人影のように映っていた。乾期には珍しく雲が月を覆った夜空は、シータの心を暗く陰鬱な影で満たしている。
アヨーディヤに至る道は海路が主に使われるが、北から山岳地帯を抜けて峻険な陸路を通る天山路を通る隊商もある。
帝国軍が抑える主要街道を外れた枝道、それはもはや道とすら言えないような森の中の、下生えがまばらな筋だったが、一列になって二十人ほどの隊列が北の方角を目指して、夜道を移動していた。
帝国軍の網の目を抜けるため夜間に移動し、明け方近くになって斥候が見つけた樹の尽きる窪地に天幕を組み立てると、一行は疲れ果てたように眠りについた。
牧場を仕切る塀の向こう側から、樹林を通して犬の吠える声が聞こえるところを見ると、ここは意外と農家に近いのかもしれない。
城壁を隔てて外と内ではこれほどまでにちがうものか、とシータは思う。
内側に居るときは、まるで母の胎内にいるように安らかな気分でいられるのだが。だが、その安らぎはむしろ危険な罠というべきだ。
城壁の外では一時たりとも気の休まるときがなく、これがアヨーディヤを取り巻く実情なのだから。
今も樹林の間にある闇の向こうから、いつ敵の兵が抜き身をかざして現れるかもわからない。
「マンガルが見えないな」
シータは光が外に漏れぬよう皮で覆った穴の中で、くすぶる熾火をかき混ぜながら独り呟いた。
いつもなら南の空を赤く照らす星も、この時期には珍しい雲に遮られてその光が届かない。
乾いた木が爆ぜる音に、近くを流れるサラスヴァティ本流の流れの音が混じる。
パンを焼き、干し肉を頬張っていると、体に巻き付けた毛布の端が茨の枝に引っかって折れ、その音に驚いた。我ながら小心だ。
天蓋のほうから下生えを踏む音が近づき、虫の音が一瞬止んだ。
「交代だ」
いつものように鎧帷子の上から銀色の帯を締め、長剣をぶら下げたアスラが現れた。
上から羽織った軽いマントの前を、紐で無造作に留めている。
「次はラマハーンのはずだ」
「眠れなくて、替わってもらった」
いくさを生業とするヌビアびとにあって、最も武に長じているアスラですら緊張しているのか、と思ったら、
「腹が減った」と情けなさそうな声を上げた。
苦笑して、焼いた練り菓子を火の中から取りだして差し出すと、隣に腰を下ろしたアスラは嬉しそうにかぶりついた。
ヌビアびと、は秘薬を使って身体能力を高めていると聞く。そのせいで肉体を酷使するためか、アスラはいつも腹を空かせている。
確かに彼女は背が高いが細い体つきで、ラマハーンと互する速さで剣を振れるようには見えない。
「早く寝ろ。そもそも王子が夜番をすることもあるまいに」
アスラは焼き菓子を平らげると、指を舐めながら言った。
セレンディアとの交渉使の長であるシータの兄、ラーフラの主隊がいる数張りの天蓋は静まっている。
交代で見張りを立てるようラーフラに進言したが、容れられなかった。そのためシータは、自ら張り番に立っているのだ。
「ぼくの宿曜宮チャンドラを見たかったのだけど、あいにくの夜空だった」
「夜は暗いほうがいい。東の城外で始まったようだ」
アスラが火を熾しながら言った。
明け初める前の東の空が赤く燃え、籠城側の夜襲に応戦する叫びが伝わってくる。アヨーディヤ東方では、セレンディアへの密使を敵の目から反らす、陽動の戦いが始まっていた。
「帝国の包囲網を抜けるため、まずサラスヴァティを逆にたどる」
セレンディアへの密使の長に指名された王の次兄、ラーフラはそう提案した。
十日前の御前会議の場である。
ラーフラがまとった、銀糸で刺繍を施した陣羽織ときらきらと光る軽そうな鎧は、勇壮に見えるが実用に向いていない。
一行は夜間行軍の末、三日ほど掛けてサラスヴァティとヤムナチディの両大河が合流する北西の一角にたどり着いた。ここを渡河し、マルディア沿岸に向かって川沿いに下っていく。
「敵影は見えなかった」
二度ばかり人影を見かけたが、息を殺して潜むうちに通り過ぎていった。帝国の斥候か、近辺の農民かわからなかった。
「アヨーディヤ兵の死体が、うち捨てられていたな」
「やむを得ないさ。亡くなった戦友を放置しておきたい者などいない。できれば埋葬してやりたいが、戦場ではそれもかなわない」
埋葬する余裕のない味方の死者は、冥府へ渡るためにカローンの渡し守に支払う船賃として、銅貨を一枚口に含ませてやる。せめてもの弔いの措置だった。
「その口の中の銅貨を狙って、貧しい近隣の農民が跋扈する」
戦いの現実だ。農民を非難することはできない。
彼らの収穫を焼いたり収奪するのが当の戦士たちなのだから。
シータらが野営を行っているサラスヴァティ上流は、アヨーディヤを囲む城壁の北西に当たる。
この近辺も戦がなければこの時期、畑の畝に沿って生える豆、赤蕪、葉野菜などが色を競い、雨期から乾期に変わる頃に実る、小麦の穂が黄金色に輝いていただろう。
「うまく帝国の前線をかいくぐったようだな」
「うまく運びすぎている」
風が背の低い草をなぶっている。
(【ファンタジー小説】宇宙樹(7)に続く)