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【ミステリ小説】セイレーンの謳う夏(8)

(本作の短編バージョン「夏の終わりのマーメイド」は完結していますので、ラストを知りたい方はぜひ! )

(あらすじ)民宿兼ダイビングショップ『はまゆり』でバイトする(顔のない)ぼくは、お客さんが不思議な生き物と遭遇したことを知る。
 『はまゆり』美人姉妹の妹、夢愛(ゆめ)さんは鋭い推理力の持ち主。ぼくはそんな夢愛さんが、駅前で男と言い争うのを目撃する。
 
 八月の最終金曜日午前――
 翌日の金曜日は、龍ヶ崎で行われるダイバーズ・フェスティバル準備のためぼくらは、「遊泳監視」、「水中ゴミ拾い」、「駐車場の整理」のどれかを担当することになる。

 物語は、3つに別れたぼくの視点で語られる。

 「遊泳監視」を担当したぼくは、龍ヶ﨑突堤に駐まっている不審な車を調べに向かう。 
『カモメ荘』バイトである「もーやん」と共に車のところに行き、車内に倒れている人を見つけた。
  
 しかし、救護員を連れて車に戻ると中の男は消えていた。

「水中ゴミ拾い」を担当したぼくは、自分の病気である「相貌失認」について思いを馳せる。 
 潜りながらゴミ拾いするぼくの耳に、携帯プレーヤから助けを求める声が聞こえ、ぼくの目の中に、人魚の姿が飛び込んできた。
 

 くじ運の悪いぼくは「駐車場整理」に割り振られた。 
 その後夢愛さんと遭い、モノフィンを使って海を泳げば、脚の悪い夢愛さんでも、短時間で湾を行き来できるトリックを見抜いた。

 3つの視点から得られた情報から、物語の謎が解かれていく。


4 人魚の墓参り

 八月の最終金曜日午後――

 午前中で終わる予定だったダイバーズ・フェスティバル関係の手伝いだったが、いろいろとあったせいで遅くなってしまった。
 今日は午後からの予定がなくなったので、『はまゆり』の食堂で遅くなった昼食をひとり寂しく頂いたのち、中二階の写真部屋に舞い戻って撮りためた水中写真の整理をすることにした。

 図鑑に載っているように綺麗な、横からの魚のフォルムを水中で写真にするのは難しい。
 御子柴さんの教えでは、相手が疲れるまで根気よく追い回さなければ、良い写真は撮れない、とのことだ。
「女の子を追うときと一緒だよ」

 それは強面の御子柴さんならではのこと。
 ぼくのような根性無しがこのご時世にそんなことをすれば、たちまちセクハラかストーカー行為で訴えられる。自信がないから失敗してまた自信を失う悪循環。
 顔をまともに見ることができるのは、魚くらいだ。

「あんたの撮る魚の写真、変わってるね」
 耳元へ急に夢愛さんの甘い吐息がかかって、驚いて飛び退いた。
「夢愛さん。勝手に入らないでください」
「アタシの家だもん。勝手に入ってなにが悪いの?」

 ぼくの写真を、勝手にのぞき込んで見るのが悪いことです。
「ネットでエロ写真を見るためのパソコンじゃないのよ」
「わかってます。自分の写真を整理してたんです」
 彼女は横からマウスを奪い取り、ブラウザを終了させると、勝手に別のフォルダを開いた。

「わー。なにするんですか?」
「エロ画像と変わんないね。こっちは”ぼかし”ばっかだけど」
 ライブラリのサムネイルを勝手に立ち上げ、夢愛さんは言った。

 スタッフ共用のMacだがユーザとしてのアクセス権限をもらい、外部ストレージに専用フォルダも持っている。
 酷評されたぼくはがっくりと頭を垂れ、落ち込んだ。そこに納めてあったのは、ぼくが撮った水中写真の一覧だ。
 ピントが甘く、光量が足らず、自分が巻き上げた砂で画面が覆われる。素人がやらかす失敗写真の見本といっていい。

「もっと近づいて、横から撮ればいいのに」
 それができないから、こんな写真ばかりなんです。さかなも人間の女性も同じく苦手だ。
「あ、これなんかましじゃない」
 ぼくは、ぱっと顔を上げると、思わずにやついてしまった。
「そう思います? 今までのなかでは自信作なんですけど」

 湾内で接写した、カクレエビの一種の写真。
 何の変哲もないけど、フォーカス、被写界深度、明るさが決まっていて気に入っている。
「高いコンバージョンレンズを使っただけのことはあるね」

 さすがにこの世界で名高い秋月さんの娘。門前の小僧のたとえの如く、水中撮影の技法を知っている。
 バイト代をつぎ込んだ接写用レンズは、それなりの価値はあったということか。
 ぼくが褒められたわけじゃない、けどやはり嬉しい。

「この写真、ダイブフェスの水中写真コンテストに応募してるんです」
「すごいじゃない!」
「応募だけなら、誰でもできます。もし入選したら・・・」
 うっかり口を滑らせてしまった。

「入選したら?」
 水中写真を撮るのを仕事にする、第一歩にできるかも。夢に少しだけ近づける。
「入選しなかったら、あきらめるの?」
「そんな、優雅な身分じゃありませんから」

 ふーん、口をとがらせる。
「あ、夢愛さん・・・・・・」
 振り返った彼女の顔が、思ったより近くにあった。鎖骨に浮かぶ薔薇のタトゥーが、いつもより少し赤くなっている。

 ずっと昔に同じシチュエーションで、口腔は雑菌の巣だけど事前に消毒した? と言ってビンタされたことがあった。今回はその轍を踏むまい。
 しかしなにか言わねば、と焦った末に、我ながら間の抜けたセリフが口をついて出た。
「なにか用事があったのじゃ?」
「運転手やってくんない?」
 何事もなかったように部屋を出る夢愛さんの手首に、イルカが跳ねていた。

 くちびるに柔らかな感触が残っていた。

 あれは運転手としてのバイト料の前払いだったのか? あっさり洗脳されるとは我ながら情けない。
 反省しながら、秋月さんのセカンドカーである白のミニバンのハンドルを握って、海岸沿いにうねうねと曲がる十七号線をN駅方面に向かう。  

 午後三時前なのでまだ竜ヶ崎からの帰り渋滞が始まるには早く、流れはスムーズだった。
 十分ほど走らせた頃、助手席で黙り込んでいた夢愛さんがぼそっと口を開いて、山側に入る道を指示した。

 ときおり道を指示する以外、助手席の夢愛さんはなにも言わない。
 ぼくも話しかけなかったので、気まずいのだけど妙にふわふわした空気が流れる。ミントの香りが別の意味を帯びているようだ。

 さらに十分ほど走っただけで、周りは深山の趣になった。
 龍ヶ崎近辺は、山が海にまでせり出していて、いにしえ街道を旅する人は難儀したそうだ。茶畑の段々や、蜜柑の木が山肌を緑に染めている。
 やがて対向車が来たら困るような細い山道の脇に、「航洋院墓地」と書かれた赤い矢印が目に付いた。

 ミニバンのリアハッチを開けると、広いトランク室は物がいっぱいあふれかえっていた。
 なんだか水も漏れて下が濡れている。
 水滴の付いた寝袋、釣り竿、スキューバ用のウエイトなど、単に燃費を悪くするだけの重りの中のクーラーの上に、お供えの花束が無造作に置かれていた。

 当然のようにぼくがお花とお線香、手桶に柄杓一式を持たされて、墓地に向かう。
 こじんまりとしたお寺で、お盆が過ぎた今日は他に人影もなく、ふたりで墓の間に入っていった。
 蝉の鳴き声があたりを聾している。ヤブ蚊を防ぐため、夢愛さんが、ぷしゅ、どこかから引っ張り出してきたスプレーを吹き付けてくれた。
 それでも蚊はたかってくる。

「蚊に刺されたら、こうすればいいのよ」
 昔、かーちゃんが教えてくれたように、夢愛さんがぼくの腕の発赤に爪でばってんをしてくれた。
 これが永遠さんだったら良かったのに。

「これが永遠ちゃんだったら、って思ったでしょ、今」
「思ってません」
 返事が早すぎた。我ながらウソが下手だ。

 墓石が数十基ほど海に向かって立っている小さな墓地の片隅に、草ぼうぼうの小さな石が建っていた。夢愛さんに軍手を渡され、黙って草を抜く。
 運転手の職掌外でしょう、などと文句は言わない。

 お供え物を狙うカラスが、近くの林で鳴いている。
 柄杓で水をあげ、持参したお花を供えた。

「母さん」夢愛さんが言った。「お盆は、忙しくて来れなくてごめんね」

 夢愛さんは子どものように一心に手を合わせている。ぼくも彼女のうしろで手を合わせた。
 雲の動きが速い。空気が湿気を帯びている。ぽつりとしずくを頬に感じて、急いで車に帰った。

 帰りの車で夢愛さんが口を開いた。
「なんにも訊かないね。アタシのことに興味ない?」
 そんなことはない。今も訊きたいことはいっぱいある。だが、ぼくは別のことを口にしていた。

「知っておくべき事は、自然に耳に入ると思っているんです」
 そのポリシーを翻して、彼女のことを調べたりもした。なぜぼくは、直截訊くことができなかったのだろう? 
 夢愛さんは、助手席で足を伸ばす。タトゥーにピアスにマニキュア。
 だが、ペディキュアとアンクレットはしない。

「同情を買うようでいやなの」
 不自由な足に注目をひくのを拒んでいるらしい。
 それにしても、足に向けた視線だけでぼくの考えがわかるなんて、相変わらず心を読むのに長けている。
 それとも、ぼくが読まれやすいのか。

 ぼくは表情というものがわからない。
 だからおまえには感情はないのか、とか「能面」のようだ、と言われてもなんのこっちゃ、といった様子らしく相手を怒らせることがままある。
 子どもの頃は、「福笑い」がわからなくて、知育の発達が遅いと思われたこともあった。

 綺麗な容姿で評判の夢愛さんにも、ぼくと同じように悩みはあるのだ。案外可愛いところもあるじゃないか。
「強情で可愛くない女だって思ったでしょ」
 思ってませんてば!
 いつもはぼくの考えていることを読むくせに、なぜそこを外す?

 道は海に向かって緩やかに傾斜している。
 細かな雨がフロントを濡らし始めた。ひと雨ごとに涼しくなり、秋がやってくるのだろう。

「駐めて」
 夢愛さんが唐突に言い、ぼくは道路脇に膨らんだ展望スペースに車をいれた。
 海が見える場所だ。やや西に動いた太陽が、海の上に虹をかけている。
 雨上がりの虹ではなく、降り初めの虹は珍しい。空が開けた海上ならではの光景だ。

 不思議ね―― 

 虹はその両端で色が確実にちがうのに、どこで変わっているのか境目がわからない。
 赤から黄色、緑、紫。どこで色が変わっているの? 
 人のやることも同じ。日常から一歩踏み出したとき、どこからが罪なのかわからなくなってくる。

 ぼくはどきりとした。罪の告白のようにも受け取れる。

 帰りの車の中で、夢愛さんは無口になった。
 気まぐれはいつものことだが、話しかけても生返事しかしない。なんだか切なくなった。

 だが、殊勝なまま終わるような夢愛さんではなかった。帰りの道すがら、ソフトクリームが食べたい、と駄々をこね出した。
「龍ヶ崎神社のわさびソフトが食べたいよお」
 わがまま人魚は、手足をじたばたさせながらわめき散らす。
「帰ったら買ってあげるから、おとなしくしなさい」
「やだよう。このままソフト食べに行く」

 止むかたなく、龍ヶ崎の海岸へ向かう道から龍ヶ崎神社に車を向ける。
 途中で台車に機材を載せて外海側から帰ってくる御子柴さんたちを見かけると、夢愛さんが窓から手を振った。なんだか驚いたような御子柴さんの声がした。
 ツアーのお手伝いをさぼって、遊んでいるように受け取られたかもしれない。

「龍ヶ崎神社のゆるめのソフトがいいの。それじゃなきゃ、どうしてもダメなの」夢愛さんの要求は厳しい。「むかし、巫女さんのバイトをやったことがあるんだよ。そのときの思い出の味なんだ」

 近所なんだから、いつでも食べられるでしょう、と思うぼく。
「巫女さんてヴァージンじゃないとダメなんですよね。祟りがあるから、ウソついちゃ、ダメなんですよね」
 ぼくの気の利いたジョークに対する、軽蔑しきったような沈黙に耐えきれず、「すいませんでした」

「今もヴァージンだよ。確認してみる?」
 この嘘つき! でも冗談も返せず、ごくりと生唾を呑むところが我ながら正直だ。

 龍ヶ崎は根っこの狭いところで幅五十メートル、先端で広がって幅百五十メートルくらいの細い岬が一キロ駿河湾に突きだしている。
 中央はこんもりと盛り上がり、海岸線の平地が細く周囲を取り巻いている。
 岬の根っこに『はまゆり』を始めとするダイブショップ兼民宿が軒を連ねているわけだが、周囲に沿ってタイルを敷き詰めた遊歩道があり、中央を走る山道は真っ直ぐ先端に通じていた。
 岬全体が天然記念物のビャクシンを含む樹林になっていて、その樹林の中を舗装されていない道が背骨のように龍ヶ崎神社まで向かっている。

 午後四時過ぎの太陽はまだ強く、その威力に手加減はない。
 夢愛さんが降りるときは、召使いのようにサンダルのストラップを締めてあげる。
 龍ヶ崎神社の境内に向かう階段の下あたりにある売店で買ったソフトクリームを舐めながら、夢愛さんの声ははずんでいる。まるで子どものようだ。 
 その彼女が、突然神社の境内の森を指さした。
「ねえ、あそこUFOが飛んでる!!」
「セイレーンの謳う夏」(9)に続く)

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