追想の『009』
先日、妙齢の女子と話していたときに、彼女が『サイボーグ009』を全く知らない、と言ったのにオドロキました。
時代は過ぎ去っていくのだな~、との感慨とともに、この作品に対する想いが湧いてきたので、思いつくままに書き散らしてみました。
早熟の天才
作者の石ノ森(石森)章太郎(小野寺章太郎)は、早熟の天才で、16歳のとき発表された「二級天使」は、すでに完成度の高い作品になっている。
画技だけでなく、「大衆」というものを見切ったところがあり、代表作の「サイボーグ009」から「仮面ライダー」に至るまで、悪の組織によって改造されたヒーローが孤軍、組織に立ち向かう、というプロットを繰り返し、キャラだけ変えて使い回したりしている。
「マジメ過ぎて」いまいち飛躍できていなかった、赤塚不二夫に対するアドバイスなどは、ひとりの天才がもうひとりの天才を覚醒させる好例。
赤塚はギャグ漫画の鬼才として、当時のすべての少年誌を席巻した。
ヒロイン像の背景
009のヒロイン、003はその名の通りフランス女優のフランソワーズ・アルヌール(Françoise Arnoul)に由来する。
しかし、伝説の「トキワ荘」に関する作品などを見ていくと、本当のモデルの姿が見え隠れする。
寂しげな表情が似合う003の造形を見るにつけ、切ない気持ちになったのは、こうした背景があるからかもしれない。
トキワ荘の事など・・・
伝説となっている「トキワ荘」の話などを読むと、当時の空気を嗅ぐようなワクワク感に駆られる。
石森章太郎が、実験的な作品を掲載したところ、巨匠「手塚治虫」から酷評を喰らってしまい、連載を中止したことがあった。
後日、夜半に石森宅を訪れる人があり、招じ入れるとなんとその巨匠が自ら出向いて「あの評は、妬心から出たものだった。連載を止めないでほしい」と頭を下げて詫びたと言う。
なんか三国志に出てくるエピソードのようで、出来すぎの感もあるが、こうした話のひとつひとつに魅了されてしまう。
オマージュとして
気に入った作品に出会えば、そのキャラを使ってエピソードを広げてみたい、というのは誰しも思うだろう。
その例に漏れず、愚作の発端を披露します。
人道的な見地から、また軍縮条約によってサイボーグ・オペレーションは禁止され、一部の医療行為を除いては実施されなくなった。
サイボーグが、ロスト・テクノロジーとなった時代。
ただサイボーグ化が実施された時代と同じく、世界のどこかで紛争が絶えることなく続いていた。
そんな時代、009島村ジョーとフランソワーズの孫娘は、ドイツに留学していた。
本来サイボーグ能力は、後天的にオペによって付与されるもので、遺伝するようなものではない。
しかし日仏混血の美少女が、不思議な能力に目覚めたとき、それを巡って再び争いの芽がほころび始める。
そして、かつては「全身兵器」と怖れられた武闘派ながら、穏やかな日々を過ごしていたこの男も、彼女を守るために再び「死の荒野」に足を踏み入れる。
どうです? ちょっと面白そうでしょう!
009のエピソードのなかで今思い出すのは、ひとつの戦闘が終わって穏やかな日を過ごすサイボーグたちを、再び戦いのために招集すべく、009がみなの元を訪れたときの話。
当然、みな戦いはもういやだ、と反発するのだが・・・
子どもの頃は、なぜこんなつまらない話を間に入れるのだろう? カッコいい戦いの話が読みたいのに、と思ったものですが。
私らの世代では、「海のトリトン」の最終回がトラウマになっている、という人が意外に多い。
本当に心に残るのは、「子どもの目線に合わせた」話ではなく、いい大人が子どもに本気のパンチをふるう、ような話なのかもしれない。
「仮面ライダー」は、今でこそ見慣れていますが、発表当時は斬新なキャラでした。
私など、てっきり悪役側だと思っていたほどです。
それほど、当時のヒーロー像はスマートでカッコ良かったのです。
仮面ライダーも、初期設定ではスマートでカッコいいデザインだったそうです。
しかし原作者の石ノ森先生が、やり直させて欲しい、として今のデザインに落ち着いたそう。
石ノ森曰く、見る人の一部が不快に思うようなデザインでないと、心に響くパンチ力に欠ける、のだとか。
やはり、彼は「大衆」を見切る眼力があったのでしょう。
そして、何事も綺麗にしてしまう現代日本がパンチ力の欠ける、小粒な少子化集団に化してしまったのも、こうしたバイタリティーの欠如故か? というのはうがち過ぎですね。すいません!
#サイボーグ009 #石ノ森章太郎 #トキワ荘 #AI画像生成
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