【歴史夜話#8】「逃げの小五郎」逃げまくる!
日本の三大小五郎と言えば、『明智小五郎』、『毛利小五郎』、『桂小五郎』ですね。
最後の桂小五郎は、若い人は知らないかもしれません。
明智小五郎は「名探偵」を冠せられ、毛利小五郎は眠りながら鮮やかな推理を展開する、「眠りの」小五郎と言われるのに対し、桂小五郎は「逃げの」小五郎です。
いささか不名誉な枕詞のつく桂小五郎が、逃げまくっていたのに維新の元勲である木戸孝允になったのはなぜか?について一席。
剣の達人だけど逃げまくる
明治維新の三傑、つまり三大功労者として西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允が挙げられる。
けど西郷や大久保、維新を前に斃れた坂本龍馬や高杉晋作に対して、木戸孝允(きどたかよし)と改名した桂小五郎は、いまいち何をした人かわからない。
長州藩(山口県)の桂は、幕末江戸の三大道場のひとつである神道無念流の練兵館で免許皆伝を受け、入門一年で塾頭になった。
小柄だった長州人のなかにあって、桂は身長174cmと大柄だったので、上段に構えると威圧感があったようだ。
安政4年(1857年)の剣術大会では、北辰一刀流の小桶町千葉で目録を得た坂本龍馬と対戦して、2対3で小五郎が勝利した。
元治元年(1864年)に京都の池田屋で、長州藩の志士が新撰組に襲撃された。
このとき、桂はいったん池田屋に立ち寄ったものの、天才的カンで難を逃れた。または屋根伝いに逃げた、らしい。
天才は人に教えるのがヘタ
この池田屋の襲撃では、20数人いた攘夷志士に対して踏み込んだのは、新撰組の局長近藤ら精鋭4名だった。
4人のうちひとりが、天才剣士だった沖田総司だ。
桂の話から脱線するが、沖田のこと。
若くして天然理心流という、メジャーではない流派の塾頭になった。江戸に道場があったが、流行らなかったので近隣の農村に出張指導に赴く。
沖田は剣士としてはめちゃくちゃ強く、後年永倉新八が、「土方歳三、藤堂平助、山南敬助」ら新撰組精鋭が、「竹刀を持っては子ども扱いだった。本気だしたら、師匠の近藤より強かっただろう」と語った。
しかし沖田の指導は不評だった。
自分が天才だったので、できない理由がわからず「荒っぽくて、すぐ怒った」とツイッターに流されたようだ。
ただ性格的には陽気な好青年だったため、剣術指南以外の場面では皆に愛されていたらしい。
また女性関係もこの時代には珍しくストイックで、医者の娘の恋人がおり、この女性の話になるととても真面目だった、と言われる。
いっぽう、と対極に並べるのもオカシイが、坂本龍馬は教え上手だったらしい。
小桶町千葉道場で目録まで受けた龍馬だが、十歳過ぎまでおねしょが直らない鈍才だった。それが剣道によって自信を得たわけで、できない人間の心理をわかっていた。
だから相手のプライドを傷つけない配慮や、修練のレベルなどに気遣いできたのだ。
剣士と政治家の資質のちがいが、わかるエピソードだ。
イケメン生かして逃げまくる
桂は写真でわかるように、苦み走ったイケメン。その愛人だった幾松も美人だった。彼女は1856年、14歳のときに京の三本木「吉田屋」で舞妓『幾松』を襲名した。
彼女が長州藩士の桂小五郎と知り合ったのは、1861年のこと。
その当時、幾松は山科の豪家が贔屓にしており、桂小五郎は張り合って豪遊を重ねて、双方がけっこうなお金をはたいたらしい。
結局、伊藤博文が刀で脅して幾松は小五郎のものになった、との目撃談がフライデーに載った。
維新の三傑や、初代総理、なにしとんねん?
コンプラやジェンダーの問題が厳しい今時、「小五郎のものになった」などと女性のことを表現したら、炎上必至やで!
長州藩はその後、暴走を重ねて禁門の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変)をヤラカす。
その揚げ句、朝敵になってしまう。このときは過激派だった高杉晋作でさえ、武力行使を思いとどまるよう藩士を説得したりした。
桂小五郎はこのときも存在感が薄くて、二条大橋の下に乞食の姿となって潜伏したとか、賀茂川大橋の近くの掘立小屋に隠れていたとか、逃げ隠れのエピソードばかりが多い。
このとき、握り飯を運ぶなどして献身的に助けてくれたのが、幾松だった。彼女は新撰組の近藤に連行されるなどして、桂の居場所を尋問されたようだが、それでも裏切ったりしなかった。
のちに木戸孝允と名を改めた桂は、明治維新後に彼女を正妻に迎えて労に報いる。
と言えば美談だが、女癖の悪かった桂は恩知らずにも、幾松に助けてもらっている最中でも浮気三昧だった、と芸能誌にスッパ抜かれたようだ。
ホント、なんでこの人が維新の三傑になっているのか、さっぱりわからん!
維新当時の達人の実力
その後も桂は、龍馬や小松帯刀がお膳立てした薩長連合の場に呼ばれては、文句たらたら流しただけで功労者になる、などの才能を発揮する。
彼の最大の才能は、当時としては長身でイケメンだったことだろう。
長身を生かした剣道の実績があるからこそ、恥じることなく厚顔に逃げ隠れできた。結局、生き残るのが最大の功になる。
また男尊女卑と言われた時代でさえ、女性の支持がなければ物事を成せなかった、というのも興味深い。
とは言え桂の剣の実力は、どれほどのものだったのか?
それを計る物差し、ではないが、当時の達人のエピソードを。
新撰組で三番隊組長だった斎藤一は、維新の激動を生き延び、維新後は警察官となって西南戦争にも従軍した。
明治の末に神道無念流の山本忠次郎が、木に吊した空き缶を竹刀で突く練習をしていた。
そこに通りがかった爺が、ちょっと竹刀を貸してみ! と言うので渡したところ、突き一閃で空き缶がいっさい揺れることなく、貫通した。
のちにその爺さんが、斎藤一だったとわかる。
東京高等師範学校で、学生に剣術を教えていたときは、誰ひとり斎藤の竹刀に触れることさえできなかったそうだ。
こういった化け物たちと伍して剣術の達人とされ、後れを取ることなく逃げおおせた桂=木戸は、やはり一種の偉人なのだろう。何をした人なのか、よくわからんけど。
実は、桂小五郎のことを「逃げの」小五郎と呼んだのは、司馬遼太郎の小説が初めてなのだそうです。
今では、この枕詞が定評のようになっているのですが、司馬先生も罪なことをしたものです。桂の場合、あまりにもうまくハマっているので、存命中から、こう呼ばれていたのだろう、と思っていました。
明治維新について思うとき、そのスローガンだった「尊皇攘夷」の「攘夷」はどこいった? ということが気になります。
「革命」について考えると、結局旧政権が生きていたにしても、同じ道をたどったんじゃないか、と思うのです。
「大化の改新」は、討たれた蘇我氏の方針の踏襲になったし、かつて自民党を倒して政権交代した民主党は、迷走のすえ最後はお粗末な自民党になりました。
明治維新がなくとも、徳川幕府は同じ事をやろうとしていたわけで、メンバーが変わっただけ。
革命の本質は、利益を得る人の交代じゃないのだろうか?