【ファンタジー小説】宇宙樹(1)
<大忘却>ののちの世界。
帝国軍に包囲された辺境の国アヨーディヤで、ふたりの少年が『宇宙樹』の謎に挑もうとしていたのだが・・・
Ⅰ 脱出
1
城塞都市アヨーディヤの中心街にある水晶宮の回廊から、緩やかな曲線を描いて東の台地に伸びる細い通路に、ふたつの影があった。
水晶を嵌め込んだレリーフの柱廊、大理石を敷いた廊下を経て、腰の高さに刈り揃えられた如意樹の生け垣が伸びる。
この通路は真珠の径と称され、いにしえアヨーディヤ全盛のころには本当に真珠が撒かれていたというが、今は白く磨かれた玉砂利が敷き詰められている。
石を踏みしめるざくざくという音が、闇に吸い込まれてゆく。
夜明けには間があり、まだ暗い道を灯籠のほむらが赤く照らし、夜光樹が青白く輝いて道を先導する。
青蓮(ウトパラ)の池がある庭園を迂回して宮殿の外に出ると、早朝の薄もやのなか空には無数の星々が輝いていた。
光の粒々は、赤の星マンガルが明けの星シュクラに主役の座を明け渡すのを見届けながら天を染めている。
白月一五夜乾期に入ったばかりの空は、蒼く暗かった。
先を行く少年には一人前の男ならばあるべき髭がなく、肌理の細かな肌に海の色をした目が、聡明な印象を与えた。
やわらかな白い綿のチュニックとゆったりとしたパンツには、王族であることを示す金糸の縁取りが施され、フードの襟を立てて早朝の冷たい風を避けている。
貝を切り取って作った左手首の腕輪には切れ目がない。
赤ちゃんの時に魔除けのためにこの腕輪を嵌められ、そのまま大きくなったので抜けなくなっている。
いっぽう、後ろから追いかけるように歩いている少年の袖には、百卒長を顕す金糸が一本。
やはり髭のない顔に、一見女と見まごう長い黒髪がまとわりついていた。
皮の胴着を身にまとった背丈は、前をいく少年よりもかなり高く、隕鉄を鍛えた長剣を帯びている。
鞘からは名族の証しである桃色の房が垂れ、神の使いとされる蝶ラフィルスを象った剣の柄には、敵将を切った証しとしてふたつの刻印が彫られていた。
「シータ、そんなに速く歩くなよ!」
最年少の百卒長は、浅黒い顔に落ちてくる長い髪を払いながら声を懸ける。
だが呼び掛けられた少年は、せかせかとした歩みを緩めない。それでも身長差があるせいで、ふたりの距離は広がらなかった。
*
ざくざくという二人の足音に驚き、ねぐらに戻り損ねたコウモリが慌てて飛び立った。
「魔の刻と明けの刻の境目だ。ぼくの宿曜宮であるチャンドラが白く残っている」
シータは先を歩きながら考えた。
偉大なるアハルド王が、帝国の大軍をサラスヴァティ河畔に退けたのも、この刻限だった。勝利の祝祭が近づいているというのに、アヨーディヤは窮地に立っている。
「頼んでもいないのに勝手に付いてきて!」
後ろに向かって、声を掛けた。
ラマハーンに感づかれたのはまずかった、とシータは思う。勘のいい彼には嘘を突き通すことができなかった。
道は先でふたつに別れ、玉砂利から石畳に代わる。
右手の下方には、遠く離宮の灯りが見えた。左に折れる道の幅は広がり、荷車の轍が無骨な営舎の建つ小高い丘を示している。
シータはそちらを選んだ。道は尾根を巡って、象の舌と呼ばれる台地状にせり出した小高い平場に通じていた。
先を急ぐシータは懸命に足を動かしているのに、のんびりとした背後の足音との距離が広がらない。
さらに歩を速めようとしたところ、前につんのめって子どものように転倒してしまった。
しばらくそのまま起き上がらない友を心配したラマハーンが、のぞき込んできた。
「大丈夫か?」
頭でも打ったか、と呟く彼の眼前でさっと起き上がるや、自分の足跡を消し、ひとつまみの砂をさらに盛る。
こうしないと屍鬼(ヴェーターラ)に足の形を覚えられ、同じ箇所で不覚をとる、と言われている。まじないを行うと、シータは何事もなかったかのようにすたすたと歩き始めた。
「おい、待てよ。かわいくない奴だな」ラマハーンが文句を言った。
幼なじみの気安さで、頑なな後ろ姿に向かってさらに言い募る。「羅刹鬼にさらわれるぞ」
その言葉に、シータは苦笑いする。母様がよくそう言ったな。あの淫売が。
苦い思いが彼の胸を満たした。幼い頃は、母様に今のような距離を感じなかったのだが。
ユタ神の恵みである朝の露が、水滴となって道端に生えている草を伝う。
明け初めた東からの白光が、その水滴を真珠のように輝かせた。
水滴に混ざる朝陽が核となって、アヨーディヤ最初の民が生まれた、との伝説があるのをシータは思い出した。
やがて、くねくねと曲がる台地の脇に根を張るバニヤン樹やシンシャパー樹を過ぎると、アヨーディヤの街を見下ろす台地がその姿を現した。
訓練のため駐屯する部隊の営舎が、台地の端にある。平らな長屋作りのため、舎屋は台地に伏せた亀の甲羅のように見えた。
下から響いてくる滝の水音が台地を揺らし、乾期の風に涼やかな湿り気を与えている。シータは空気の中に、兵たちが朝餉の支度に使う香料のにおいを微かに嗅いだ。
『象の舌』は天然の要害であり、城外を見張るにも打って付けだった。
台地から付きだした角のように一本だけぽつんと生えた菩提樹の枝から、小猿がいっぴきぶらさがっていた。
ふわふわとした毛色が白い。
猿はハヌマン神の使いとされる。軍属であるラマハーンにとってハヌマン神は尊崇の対象であり、膝を折って祈りを捧げた。
いっぽう、そんなことに無頓着なシータが懐から胡桃の実を差し出すと、小猿は手を伸ばしてつかみ取った。
好奇心の強い小猿とは言え、直接に食物を受け取るのはまれだ。
へんなやつ!!
小猿と戯れるシータを見ながらラマハーンが呟くのが聞こえた。ふたりは共に十五。
幼なじみだが、シータは十歳から帝国に留学していたので、ふたりの思い出には空白の期間がある。
猿と遊ぶシータの視線の先に、赤々とした光が見えてきた。
昼ならば眺望が開けているはずの台地の向こう、薄もやに沈んでいるアヨーディヤを囲む壁の外側が色づき始めた。
時おり地鳴りのような鬨の声が轟いてくる。シータはびくりとし、ラマハーンはあからさまに顔をしかめた。
営舎のほうに歩いて行くと、厩舎から臭いが伝わってきた。
早朝の気怠い空気のなかで、その一画だけは精気に満ちている。営舎と営舎の間にある窪地に竈が造られ、熱気が上がっている。
十人ほどの屈強な兵士が、その周りで忙しそうに立ち働いていた。
指揮をとっていたがっちりとした体格の男がふたりに気づき、歩み寄って敬礼した。頭髪は薄くなっているが、黒く縮れた固そうな髭は濃い。
髭に覆われた口元が、人なつこい笑みを形作った。
両の腰に長刀を帯びる独特のスタイルで、両の鞘に彫られた刻印は十を超え、軍歴の長い古参兵であることがわかる。
「ヴィクラン」
階位は上ながら歳下なので、ラマハーンの口調はぎこちなかった。しかし大男は屈託のない笑顔でふたりを迎えた。
シータが見上げると、ヴィクランの目尻には笑いじわが浮かんでいる。悪戯に加担できてたまらない様子だ。
「これから外皮のなかに、熱風を吹き込むところです」
顎をしゃくる先の斜面には、穴を穿ち煉瓦で上を覆った窯が炎を上げている。
羊の皮をなめしてつなぎ合わせた管が、赤く燃えるその窯から伸びていた。管のもういっぽうの端には、巨大な象ほどもある袋が畳まれている。
乾期の始まりの季節で、台地には短い草が絨毯のように生えていた。
ふたりが斜面の中央に腰を下ろして見守るうち、巨人がむくりとその頭をもたげるようにして袋が膨らみ始めた。
革を縫い合わせて作られた球体の下には穴があり、窯から送られてくる暖かい空気が管を通して送られている。
球の直径は二十から三十ジュナくらいはあるだろう。
つぎはぎだらけだったが、熱気が漏れることもなく浮かび始めた。浮き上がる速度は徐々に増して、強い力で上に引っ張られる。
球全体を網状に覆ったロープの端が一本に束ねられ、数人の兵士が引っ張っていた。
ふたりのいる場所は球から離れていたが、それでも熱気と焦げるような臭いが伝わってきて、ラマハーンは額をぬぐっている。
いつの間にか太陽が顔を出し、球を赤く染めていた。
早朝の光の中で、球体ははっきりと細部がわかるようになった。
真円ではなく、布を絞り込んだ頂上に突起がある。皮のところどころにつぎが当てられ修復してあり、下部からは支柱が伸びて、籐のバスケットに繋がっていた。
熱気をはらんだ球が中空に舞うと、下部のバスケットが安定した。やがて、ふうわりと浮かんだこの風船は、風に煽られて斜めに傾いだ。
シータはお尻についた草を払いながら立ち上がり、ヴィクランのほうへ歩いていった。
「風はもうじき止むだろう?」
「安定しているように見えますが、ときおり海風が舞います。油断はできません」
空には雲もなく穏やかに晴れるようだ。うすく白いもやの帯が、南の海の上に浮かんでいた。
朝日の燭光を合図にするかのように、城壁の外から鬨の声と足を踏みならす震動が押し寄せてきた。
威嚇するかのような雄叫びは地鳴りを伴って空気を揺らし、兵士たちは眉をくもらせた。
城外の敵陣のなかに、火明かりがぽつぽつと浮かぶ。こちらでも朝餉の準備をする当番兵が慌ただしく立ち働き、報告を終えた夜間の当番兵が体を息めるために営舎へ下がっていく。
シータの傍らに立っていたラマハーンが疑わしげに訊いた。
「これで、本当に飛ぶのか?」
シータは返事をせず、外套の襟の中から笑い声だけを返した。
兵士たちが見上げるなか、灰色の巨大な風船が浮かび上がる。有明の月に並んだ、もうひとつの月のように。
シータがロープで係留したバスケットに歩み寄る。
背の低い彼は、ヴィクランの肩を借りてバスケットの縁をよじ登り、中へ入り込んだ。
間を置かずラマハーンも剣を投げ込み、身軽に跳躍してバスケットに乗り込む。宙に浮いていた籠が振動でぐらりと揺れる。
ぎしぎしと編み目が擦れる音がしたが、籐は軽くて強く、ふたりの体重を楽々と支えた。
シータは傍らに立ったラマハーンに、驚いたような顔を向けた。
「ひとり乗りだよ」
「殿下おひとりを、危険にさらすわけには参りません」凛とした声で言い放ったのちに、声を落として耳元で囁く。「こんな面白そうなこと、ひとりでやるなんてずるいぞ」
バスケットの内部は決して広くない。ふたりが立つと、それだけで窮屈になった。
「大丈夫かな?」
浮力は充分なようだが、風が吹いたときに持ちこたえられるか心配だ、と点検に余念がないシータに向かい、
「心配性だな」と楽天的なラマハーンが言った。
上昇熱を補うため、天板の中央に灼熱石を置くと、揺れる籠のなかで暑さに閉口しながらふたりは平衡を保った。
「銅貨持ってない?」
ラマハーンは、腰に帯びていた革の袋を開けて小粒の銀を取り出すと、「あとで返せよ」
シータは銅貨が入った自分の袋にラマハーンの銀を入れ、口をしっかり縛るとヴィクランに投げ渡した。
「ご苦労だった。あとで皆で呑んでくれ」
兵士はいかつい顔に笑みを浮かべ、代わりに葡萄酒の入った革袋を投げ返した。
「気をつけてくださいよ。下で見張ってますから」
係留索を緩めると、飛球はゆるやかに上昇した。地上側では、数人の大柄な兵士が綱に取りついて、飛球の上昇速度を制御している。
四囲を軽々と見渡せる高さにまで上がると、兵士たちが係留索を杭に固定した。ふたりが見下ろすと、兵の姿は見る見る小さくなる。
シータは、風に揺れるバスケットの縁にしがみついて、廻りの景色に見とれていた。
アヨーディヤを照らす朝日が、橙色の触手を伸ばしている。北に広がる、「黒い森」と呼ばれる森林地帯は、迷い込むと熟練の猟師ですら迷う妖しい影に覆われていた。
空には月が白く浮かんでいる。<大忘却>によって多くの知恵を無くす以前、人はあそこまでも行くことができたと言う。
「古の魔法士について調べても、雲を越える高さの飛翔記録はない」
<大忘却>に関する記録の権威であるカイモン導師は猜疑的だったが、シータは信じていた。月やさらにその向こうの星々まで到達する方法が、あったはずだと。
「見ろよ。ラマハーン」
蒟醤(キンマ)を噛み、革袋の葡萄酒をラッパ飲みしながらシータが指差す先に、アヨーディヤの城壁が二重の線となってくねくねと伸びていた。
城塞都市(カスパ)であるアヨーディヤは、その外周を二重に積み上げられた高さ数十ジュナの石組みで覆われている。
城壁の外側には濠が掘られ、サラスヴァティ河の支流から水が引き込まれていた。東の城壁に造られたアーチ型の大門には詰め所が置かれ、跳ね橋が架けられている。
城壁の内側には通りが縦横に張り巡らされ、その通りの両側には宿屋、穀物を供する商店、鍛冶職人の仕事場などがある。
さらに中心部には人々が生活する長屋が建ち並んでいて、窓には洗濯物がかかっている。
中庭には花やつづれ織りが敷かれ、立ち並ぶ屋根の煙突からはパンの焼ける香ばしい匂いが流れてきた。
城内にもサラスヴァティの支流があり、南の湿地帯に向かって運河が広がっている。水利が良いこの地は、地面を少し掘削すれば井戸ができた。
中央のひときわ高い双つの丘は王族の城と、神殿が占めていた。
どちらも民の中心を成すもので、ダビド王の石造りの城館と神殿の尖塔はアヨーディヤの象徴だった。
城館の周りは内壁が囲み、その一帯には重臣や官僚の邸宅が並んでいる。
壁の外側には、若い緑の小麦の穂が風に揺れ、間を縫う河を北西にたどると森に繋がっていく。
反対に南の湿地では騾馬の群れが点々と連なり、一頭の水牛が蒲の穂をかき分けているのまで、はっきりとわかった。
農民が丹精込めて耕した城外の畑や果樹園、さらに牧場などはすべて敵の手に落ちた。
しかし人々が逃げ込んだ城域は広大で、城壁の四辺に設けられた隅塔には、兵士が常駐して跳ね橋を管理し、投石機で守りを固めている。アヨーディヤはこの城壁で、いかなる強敵の侵攻をも退けてきたのだ。
「戦況に変化は?」
シータがラマハーンに尋ねた。
「東の城門で小競り合いがあった程度で、包囲網に変化はない」
そのとき朝日の箭が四囲を赤く染め上げ、大地を射た。ラマハーンは思わず「おお」、と声を上げる。武人としてあるまじき恐怖に、血の気が引くような光景が眼前に現れた。
「これが、全部敵なのか?」
黒光りする鎧が朝日を反射して、禍々しい光が辺りに満ちる。
アヨーディヤから、南のマルディア、パラディアの双子港へ向かう街道を埋め尽くす軍兵。
帝国の重装歩兵、騎兵、戦象、戦車、投石機、攻城用梯子などが連なり、着々と攻城の準備が進行しているのが見て取れた。
(【ファンタジー小説】宇宙樹(2)に続く)
(先に発表した拙作と、同じ設定の世界で展開する物語です。併せて一読頂ければ幸いです。ー作者敬白)