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2025年!今年の全力読書方針!

 おこんにちは。

今年も本を楽しむぞーーー!
 今年こそはたくさん本を読むぞーー!


 そんなキラキラの意気込みで本屋とAmazonを徘徊した本読みのアナタ、平素よりお世話になっております。今年もよろしくお願いします。

 私事ではございますが、今年の本との付き合い方、述べさせていただきます。 

決意

 拳をかたく握り、決意と清潔を滲ませた笑顔で断固宣言する政治ポスターのごときタイトルとなりました。

 誰に向けてのこの暑苦しさかというと、それは他でもない自分へである。喝!

 ここ数年、私は自分の不甲斐なさに苦しんだり開き直ったりして読書生活を営んでおりました。楽しんではいるのですが、悩んでいたとも言えます。私小説的ですね。
 悩みの根源は「積読」「併読」「遅読」「偏読」「拘読」であるといえましょう。後半は造語。順に説明しよう!

五大苦悩 

「積読」

 みなさんも蝕まれておられるだろう不治の病、積読。好きな作家の新刊新版は手揉みしてお家にお迎えする。読んでいる本の中に気になる本が出てきてポチ。人にすすめられてポチ。本屋をパトロールして気付いたらレジ。古本街を軽やかに散歩するだけだったはずなのに帰りのリュックがぱんぱん。図書館で冷静に考えれば完全に計画倒れとなる量の本を借りる。旅行に出ると決まれば旅先に似合う本を!とほくほく旅エッセイやトラベルミステリを準備するも旅行中そこまで読めない。

 こういう経験ないとは言わせない。こうやってすくすくと本棚(と、家のいたるところの棚や隙間)に本は増殖するのです。

「併読」

 これは派閥がわかれるところと伺っております。一冊の本に操を立て、その本を読み切るまでは他の本に浮気をしないという、かつて奥ゆかしく真面目であった文学少女の私はどこかへ消えてしまいました。人とは変わるものなのです。今の私といえば無節操に興味のおもむくまま、あちらこちらの本を読み散らかしては「ごめんなさいね、今はあなたと遊ぶ気分じゃなくってよ」と小悪魔的につまみ食いして放置する始末!!嘆かわしい!
 家には、どこまで読んだのかあやふやなまま放置されている本がたくさんあります。これを一気に読み切ったらどれだけ気持ちよいことか。そう思うのですが、どうしてこうして進まない。私だってひとつひとつ読み終わってさっぱりと片付けたいですよ?でもそれができない。理由は複合的なのである。

「遅読」

 併読を起こす原因、そしてその結果自分に嫌気がさす原因のひとつに「読むのが遅い」が挙げられます。一冊の本をガーッと速く読むことができればそもそも併読なんて起きにくいわけです。しかし私は遅い。新幹線で読み切ろうと思っていた本が読み終わらなくて有耶無耶のままになったり。なお「遅読」には集中力のなさも含まれる。これ難題なり。

「偏読」

 偏りも問題。
 読了していない本が溜まる、という話とは別に、読書の質を変えたいな~と思っている。それは偏りをなくしたいということ。好きな作家、好きな系統、好きなジャンルだけを読みまくるスタイルもいい、そういう読み方する人を私は好きです。憧れるし尊敬する。ヲタクと呼ばれる人を私はものすごーーく尊敬している。
 他方、私は雑食タイプです。ですがそうはいってもある程度の好みや「偏り」は持っている。小説もエッセイもルポやら新書も読むけれど、なんとなしに好む色合いがある。これ、いかにも好きそうだな~っていう本がある。好きなものは読んでいて楽しい。快楽。幸せ。

 本くらい好きなものだけ摂取してればいいじゃん、無理して合わないものに時間使う必要ない!それもまた一理。でも私は今年、自分が今生きている国や時代とは異なるものを読みたい、読まねば!と思っておるのです。
 きっかけのひとつは、こちらのVoicy。

 この放送で木下さんは「国連をありがたがっているのは日本だけ」「SDGSをやってるのは日本ぐらい」とおっしゃってました。日本人の大人が教科書でインストールした内容って古いんだよ?と。

 もちろん、木下さんは知見のあるお方だとは思ってはいるけれども、それにしてもお一人のお話のみを全部真実として受け取るわけではないですし、そもそも「日本だけ」というのがなんか統計あるんか?という指摘もあるかもしれない。それでも、あくまで木下さんにはそう見えている、ということにガビーンとなりました。

 私は非常に狭い世界で生きていて、教養も知識もないし、地頭もよくはありません。比較的真面目には生きてきたはずだけど、その分偏って柔軟じゃない考え方が身についているだろうとも思います。
 世界情勢や昨今の話題についてはニュースやいろんな媒体で触れているけど、それは日本人の発信とか日本の媒体とか、日本フィルターを通したものが圧倒的に多数で、私はここ日本のなかに入ってくるものだけをかろうじて知っているという状態。それで足りてるんですけどね、それが大事でもあるのとは思うんですがね。
 でも、ちょっと怖くなった。私は世界情勢の単純な事実を知ることはできるけれども(トランプ政権が始まりました、とか戦争終わらず、とか)それはどこまでも「今の日本の感覚」なのだな、と。日本以外の体感、みたいなものが全然わからないわけです。

 Voicy以外にもきっかけはあって、専門職の友人が「自分の専門領域のニュースを世間がどう見ているかわからない」ということを言っていて。これ、すごくよくわかる。自分の常識は世間の非常識だったりするし、専門知識や業界の温度に馴染めば馴染むほど、一般的な感覚から遠ざかったりする。歪んでくる。

 そこで思ったわけです、私は私の領域以外の本を読むぞ、と。

 留学したり、今ここの日本ではないところに文化的基盤を置く人と親しくすれば、自分の領域外での温度を肌感覚でわかるのかもしれませんが、今のところ私にその時間はとれそうにない。1か月インドに行ってきまーす、は叶わない。じゃあ、ひとまずどうしようか。

 で、とっかかりとして私は読書で意識してみたいのです。「今の日本以外で書かれた本」を読みたい。戦後に書かれた話、古今の海外文学、海外のコラムやエッセイ。そういうのを多めに読んでいこうと思っています。

 かなり昔にアメリカの推理小説、パット・マガ―の「被害者を捜せ!」を読んだのですが(第二次大戦下、島で兵役についている男たちのもとに新聞紙に包まれた荷物が届く。新聞紙には事件のニュースが載っているが被害者の名前が破れていてわかない!みんんなで推理しようぜ、みたいな内容)、私これ読んだときに度肝抜かれたんですよね。大戦中なのに、豊かで楽しそうやんけ…って。

 大戦時、日本と他国では戦争に対するスタンスもモチベーションも国力も悲壮感のレベルも違っていたことは、そりゃ知識としては知っていました。でも、こうやって当時のエンタメを読むと改めてガツンと衝撃を受ける。

 そして私は、こういうタイプのショックをもっと受けて、視野が狭くて世間知らずな自分をしごいたほうがいいと思っているのです。

「拘読」

 拘り過ぎて読書が進まない問題。ござらんか。私はある。

 この小説はじっくり1人で時間を取って読めるときに味わって読みたい。
 今日は移動が多いから持ち歩きは文庫にしたい。
 この装丁可愛すぎ。へたらせたくない、持ち歩きたくない。
 この本はカフェで読みたい。
 この本はお酒飲みながら読みたい。
 この本は夏に読みたい。
 この本は海のある旅先で読みたい。
 この本は疲れていないときに読みたい。
 この本は疲れているときに読みたい。

うるさーーーい!
自分を一喝したい。そんなん拘ってるからあれこれ読み散らかすことになるんだろうが!四の五の言わずに目の前の本を読めぇ!

読書方針結論

 以上が、最近の読書懸念というか、読書癖で自分自身に手を焼いていることである。

 とうことで、今年の読書方針は

 壱、読みかけの本を順次消化していくこと
 弐、これ以上併読を増やさないこと
 参、購入前に、一呼吸おけ
 肆、昔の本、外国の本を読むべし
 伍、つまらぬ拘りを捨て、目の前の本を読め

2025方針!押忍!

です!

 でもまあ、そうはいってもシチュエーションやコンディションに拘って読みたい本だってあるし、インスピレーションや出会いだって大事にしたい。  
 困った困ったという自分だって嫌いじゃないんです。そんなところも残しつつ、でもこれ以上深刻な問題を引き起こす前に、方針を基本として今年もせっせと本を読んでいきたいと思います。もう今月5冊買ってるけどな!

 今年も本と文字を愛する皆様が心地よい読書生活を送れますよう。


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